愛媛二つの慰霊祭

太陽院の近藤 千恵子です(^^ゞ

今日、夕方7時半より毎年10月25日に行われる神風特攻五軍神及び愛媛県特攻戦没者追悼奉賛会の役員会開催されました。

そして、帰り際頂いた7月1日に発行された防衛協会会報新聞。

その中に、「愛媛県の二つの慰霊祭」として、昭和16年12月8日真珠湾攻撃に先立って潜水艦母艦から発進し、密かに至近距離まで接近した特殊潜航艇5隻。

愛媛県佐田岬半島の三机湾で特殊潜航艇の訓練をしてきた20代の若者9人がその日海底の中 散華していったそう…。

先任艇長岩佐直治海軍中佐(27歳)の辞世の句には
「身はたとへ 異郷の海に果つるとも 護らでやまじ 大和皇国(みくに)を」

そして昭和41年須賀公園に地元民の浄財で当時の首相佐藤栄作揮毫により建立された「大東亜戦争九軍神慰霊碑」

毎年、地元の青年団によって12月8日の命日に慰霊祭が続けられており、こんな青年団主催での慰霊祭は全国でも珍しいらしい。

青年たちに脈々と受け継がれる慰霊の営み…

三机の人々は、そこに純粋な心で散華された方々を記憶に留め語り継いでるそうです。

そしてもう一つの慰霊祭は、私の住む地元西条。

昭和19年、10月25日…大東亜戦争末期の戦法で魚雷・爆弾を抱いたまま航空機もろとも敵艦艇に体当たりした特別攻撃隊。

そして、特別攻撃隊最初の敷島隊隊長 関 行男中佐と共に散っていった若人4人。

戦後、西条市楢本神社宮司の石川梅蔵氏は小さいころから知っている関中佐の慰霊碑を建立しようと各方面に協力を求めたけれど叶わず

ところが昭和49年5月7日、フィリピン人のカミカゼ記念協会によってマバラカットの海軍航空基地跡に建立された慰霊碑

「第二次世界大戦に於いて日本神風特別攻撃隊」と刻まれた慰霊碑の除幕式にはたくさんの参列者があったにも拘らず、日本人からの参列者はひとりもいなかったという事実。

楢本神社の石川梅蔵宮司はその事実に日本国民として恥ずかしく思い、翌年3月関中佐の慰霊碑を建立。

そして毎年10月25日五軍神だけでなく、愛媛県出身の散華された陸海軍の特別攻撃隊員93柱の慰霊祭も同じ日に催行されております。

そして、この記事を書かれた、愛媛県防衛協会 折戸善彦氏は、9月11日に発生した民間人を犠牲にした「同時多発テロ」

このテロと特別攻激隊を同列に扱うことに対して大きな間違いであると…。

日本の「特攻隊」が民間人をターゲットにしたことがないと…。

西条での慰霊祭は毎年10月25日。

そして、石川梅蔵宮司さん亡き後 2年前まで奉賛会会長として慰霊祭を仕切って来られた寺田幸男氏が 昨日13日ご自宅の庭で倒れ 誰にも氣づかれず天に還って逝かれました。

享年91歳…きっと天に還り、海軍での戦友と再会し「今の若いモノは…」と話してるのでしょうか。

寺田元会長のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

今の若いもんも若いモノで精一杯先人の思い繋がせて頂きます。