「青春」カテゴリーアーカイブ

数々の奇跡

9年間のインストラクター生活の中では、数々の喜びと試練もありました。

4度の全日本技術選手権出場、指導員取得、シーズンイン前のオーストリア滞在と想像もしていなかった数々の奇跡の出逢いのおかげで、たくさんの経験もさせて頂きました。

オーストリアに行くことになったのも、1990年夏 京都の比叡山スキー場でのSWANS主催のサマーキャンプに出たあと、京都に住むスキー学校の先輩に連絡させてもらったことから。       ※先輩は女性です(笑)

向かった先は、アキレス腱の手術で入院中の病院へ。

そしてなんとその時に、シーズン始まる前の10月中旬から11月いっぱいオーストリアへ行くけど一緒に行ってみる?と誘って頂き…。

正直その時点で28歳の私にとっては、初めての海外旅行。

少しの不安はありながらも、即決。   一緒に 参加させて頂くことに…。

しかも先輩とは出発日程が合わず、少し遅れて一人でのオーストリア入り。

スイスのチューリッヒ空港に着き、ホテルに1泊。その後列車でオーストリアへ入り、目的のZELL AM SEEの駅に向かいその後タクシーで先輩たちが借りているアパートへ。

いまから思えば初めての海外旅行。

英語もドイツ語も出来ない私が アパートの一室の扉の前までたどり着いたのだから 我ながら「いい線いってる!」…いやいや全て神さまのおかげ…だったと。

到着後ビックリしたのは、あの比叡山スキーキャンプのコーチでもあったプロスキーヤーの千葉信哉さんや澤口学さんも同じスキー場にトレーニングに来られており、再会。

数少ない日本人っていうことで、何度か食事も御一緒させて頂いたのは、海外だからこその特権でもあったような…。

ザルツブルグ州にあるカプルーンという村の氷河スキー場「キッツシュタインホルン」のスキー場には、その後4年ほど続けてシーズン前になると1ヶ月~1ヶ月半ほど滞在させてもらったくらい、私にとっては忘れられない場所でもあります。

そして、この滞在中ほぼ毎日通い滑っていた「キッツシュタインホルン」実は2000年11月11日ゲレンデまで向かう登山列車で火災事故が起こり、155人もの人が亡くなったところ。

朝一番の登山列車は毎日大勢のスキーヤーが乗っており、改札のカウンターで乗車人数も数えられ、目の前で次の便まで待たなければならないことも…。

あの日のあの時刻のあの列車に、いつもと同じように乗った人々。

長いトンネルの中、火や煙に巻き込まれながら天に逝った155人の魂。

日本エドガー・ケイシーセンター 光田会長の講座の中で話されるケイシーのリーディングの中では、

「多くの魂は自身のこの世での命の寿命を理解し、そういった現場に居わせることになっている」…とも言われ、

「その被害にあった方々の遺された家族や親友もまた、その哀しみや状況に耐えうるだけの魂を持っていると…。」

思わぬ事故や出来事で、天に還って逝った魂のひとつひとつが、そして残され哀しみを背負う魂の中にも 強いものが必ずあると、ケイシーの遺したリーディングから一筋の光を見させてもらっている感じです。

今、生きてること 出会っていることは、

本当に数々の奇跡の連続であり 

奇跡そのもの…。

そしてどの魂も永遠不滅の高貴な魂である…と。

日本エドガー・ケイシーセンターのホームページは  ☛http://www.edgarcayce.jp/

 

 

 

やりたい事とやるべき事

あの日、あの時、あの出来事があったからこそ、今がある?

54歳の今、このブログを書くことになり 改めてこれまでの人生を振り返ってみると、あのスキー場で出会ったひとりの素敵なお姉さんとの出会いから・・・http://taiyohanasaku.waterblue.ws/chieko/wordpress/2016/10/28/始まりは出会いから/

そして、志賀高原でのインストラクターとしての生活の始まりは同時にその頃言われ始めた「フリーター」という、生活へ。

その前に会社を解雇されるという「リストラ」まで経験してるのだから、今思えば かなり時代の先端いってる!って感じでしょうか?

夏は、スキーショップで働き、冬はインストラクター。

時間の許す限りジムにも通ってたあの頃・・・。

先日朝のドラマ「べっぴんさん」の中で、言ってた言葉

        “やりたい事とやるべき事が一致している”  

その事に出会うこと  

それは奇跡の様なこと・・・

1988年から1997年まで26歳から35歳までのスキーの事だけ思い過ごした毎日。   本当に奇跡の様な日々。

そして、今の私だからこそわかる 私自身も知らない私を知っている 大いなる存在。

ただその大いなる存在も 私自身の中で、求め 探し 動いたからこそなのだと…。

そして出会えた奇跡の様な毎日にも、

試練はあるんだから・・・ 

人生は面白い!

「主は、愛するものを戒められる。あたかも父がその愛する子を戒めるように…」  と聖書の中にもあるように…。

あ~ この試練の頃から、神さまのえこひいきは始まってたんだな~と思う
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夢の世界

インストラクターの募集条件バッヂテスト2級を手に、1988年12月あこがれの志賀高原へ。

白銀の世界の中、毎日スキー学校で大好きなスキーを教える…なんて夢のような毎日。

しかし…しかし、四国愛媛で合格した2級と雪国長野の2級はかなりレベルに差が…(泣)

インストラクター1年目は、夢と現実の大きなギャップ。

大好きでなければ きっと早々に地元に帰っていたかも知れないことばかり…。

『好きだからこそ…越えられる大きな壁』

当然、次に目指すバッヂテスト1級への壁は、何度も何度も打ちのめされて…

結局スキー学校が閉校するまで合格することも出来ず…。

愛媛で2級を一緒に取った仲間は、地元で早々に1級を取ったというのに…毎日毎日朝から晩までスキー三昧

こんなに恵まれた環境に身を置きながら、合格出来なかった自身が情けなくて…悔しくて…。

滑りだけでも1級の滑りになって帰ろうと、その後 横手山の上 渋峠でアルバイトをしながらのスキーの毎日。

そんな中、埼玉に住むスキー学校1年目の同期でもあり もう指導員も持ってる佳代さんからバイト先にかかった電話。

「東京都のバッヂテストがゴールデンウィークに志賀高原寺子屋であるから、受けてみたら?」と…。

志賀草津ルートが、開通するゴールデンウィークの1日。

数時間抜けてテスト受けに行きたい…と伝えた所「やめてもらってイイですよ」と…。さみしい答え。

翌日荷物をまとめて、草津方面から次々とあがってくる車の中から1台の家族連れの車をヒッチハイク。

テレビ番組でもないのに、気持ちよくたくさんの荷物と一緒に乗車させて頂き…。

ちゃっかり蓮池まで乗せてもらって、ひと冬分の荷物はまたまたちゃっかり連休を利用してレーシングキャンプに来ていた愛媛の仲間に自宅まで持って帰ってもらって…。

とんとん拍子に事が運び、バッヂテストまでの数日間はホテルに連泊して練習。

そして無事、そのシーズンに目標であった1級を獲得(東京都の検定ですが…)

『捨てる神あれば 拾う神あり』 本当に本当に、感謝感謝…ありがたや~

《こんどうちえこ26歳の冬~春》

 

 

 

 

 

始まりは出会いから…

人生の転機となる時、必ず人との出会いがあると聞かされたけど…

まことに、節目節目で用意されたように、自身の人生がガラリと変わるような出会いがあったことは、

今の私には大きく頷ける。

もう数十年も前、まだ20代の頃…

いつも週末通っていたスキー場に来ていた見かけぬ素敵な女性。

白いウェアーに身を包み、上から滑るさまは かっこよくて、思わず声をかけさせてもらった。

「いつもどちらで滑っておられるんですか?」

「私、白馬のスキー場でアルバイトしてたんですよ。」

私の脳裏に叩き込まれた スキー場で働く…なんていう新しい世界。

普通のOLを満喫し、週末スキーヤーだった私にとって

夢のような世界を経験したその女性は輝いてみえた。

それから半年ほど経った初秋のころ、営業所の所長が私を呼び出し こう伝えてくれた。

「来春、新居浜の営業所と高松の営業所をひとつにするから、辞めてもらわないといけない」

今でいうリストラでしょうか。

しかし私の胸は、高鳴り 歓びに溢れ…

「来春でなく、12月で辞めさせて下さい」…と。

あのお姉さんの様に、毎日スキーが滑れる!!!

ちょうど先シーズン、バッヂ検定2級を習得した私は、

当時の愛読書「スキージャーナル」の左枠に書かれていた

“インストラクター募集”の欄を見逃してはいなかった。

採用基準は、バッヂ検定2級程度~。

今思えば、このリストラも神様が仕掛けてくれた プレゼントだったのかも・・・。

あの日、ゲレンデで輝く素敵な女性に出逢っていなかったら

きっと、ここから始まった私の人生はまた違ったものになってた

かも知れない…。

《こんどう ちえこ25歳の冬~初秋の出来事》