「五軍神奉賛会」カテゴリーアーカイブ

大東亜戦争開戦記念日

太陽院院長 近藤 千恵子です(^_^)/

昭和16年 1941年…12月8日 ハワイ・オアフ島・真珠湾のアメリカ軍基地を奇襲攻撃。

その際、上空からの攻撃の際 愛媛県西宇和郡伊方町三机で開戦の2年前から日本海軍により 秘密兵器、特殊潜航艇の訓練基地とし 極秘で訓練をし…

そして2016年12月8日 三机湾沖に止まっていた母艦「千代田」と共に 人間魚雷となった 九軍神。

我が町西条出身の関行男氏が隊長となり 昭和19年10月25日米軍母艦に突撃した 神風特攻敷島隊五軍神 よりも もっともっと前 開戦の時に 自らの命を懸けて突撃して逝った9名の士官たち。

岩佐 直治 中佐 26歳(前橋市出身)
横山 正治 少佐 22歳(鹿児島市出身)
古野 重実 少佐 23歳(福岡県遠賀郡出身)
広尾 彰 大尉 21歳 (鳥栖市出身)
横山 薫範 少尉 24歳(鳥取県東伯郡出身)
佐々木 直吉 特務少尉 28歳(島根県那賀郡出身)
上田 定  兵曹長 25歳(広島県山県郡出身)
片山 義雄 兵曹長 23歳(岡山県赤盤郡出身)
稲垣 清 兵曹長 26歳(三重県一志郡出身)

以上…九軍神の方々。

昭和19年初めて人間爆弾となった五軍神だったけれど、もっともっと前の昭和16年に 人間魚雷となり 静かに天に還って逝った9人の御霊。

そして、三机の青年団が 毎年12月8日に追悼式典を開催しているのだそう。

ちょうど 明日 宇和島に住む友達が 八幡浜市の教会でのクリスマスイベントでゴスペルをするから来て~ということで

近くまで行くので 少し足を延ばして 三机港まで行き 御霊に手を合わせて来ようと思ってます。

今日はちょうど 西条駐とん地 防災カフェ 結さんで 迷彩服をお借りし 自衛官気分を味わったところ。

日本人として生まれた私 彼らが過ごした 三机の港に立ち 彼らが観ていた景色 私も感じて来たいと思います。h

それにしても 伊予の國で始まりの始まり…

今朝 NHKのちこちゃんの番組で言ってたのが

三々七拍子の初めに 「いよ~」という掛け声は 「祝う」という意味なのだとか…

伊予が選ばれたのは 神さまの祝福の祝福だったのかも知れません。

大和のこころ♡

太陽院院長 近藤   千恵子です(*^^)v

昨日、神風特攻敷島隊五軍神 愛媛特攻戦没者 慰霊追悼式典が無事開催され…

一年に一度きれいに献花で飾られる石碑。

  

式典中、ひとり座る男性に 近づくとポケットから 日の丸の旗…びっしりと書いてる寄せ書きを出して見せてくれました。

 

終戦から 73年目…。

式典中で、お話を聴かせてもらうことが出来なかったものの、拡げた日の丸には

一死報告

必死必中

靖国の宮で握手の日を誓う

特攻精神

散って又 清く咲こう 靖国の宮

靖国の宮で握手の 日を誓う

大君の 御旗とならん 若桜  等々…


出征の日、たくさんの寄せ書きの書かれた日の丸を胸に 向かった戦地での日々。

きっと 壮絶な戦いの場であったはず。

実は、追悼式典の事務局をさせてもらう中、届いた手紙も 生きて戻って来たことへの無念の思いが綴られておりました。

以下 届いたお手紙のままです☟


実は戦中、五軍神を見送ったあと 子安中学の同志たちと小松駅の近くにあった関大尉のお宅へ どっと押し寄せ

お母さんのサカエさんに面会
「私たちも関大尉のあとを 追います。お母さん 御安心下さい!」と約束して帰ったことがありました。

それから、予科練甲種練習生を受けに今治まで行きました。その際、子安大師(香園寺)の山岡瑞圓大僧正師が

「命を粗末にしてはいかん。元気に帰ってこいよ!」と言って みんなの前で大護摩を焚いてくれました。

しかし、時遅く 飛ぶゼロ戦武器なく、昭和20年8月15日敗戦となりました。

先輩と一緒にレイテ沖で死ねなかったのが、実に残念でありました。
今もその氣念が続いております    多謝!!


命あることを手放しに喜べず…

命ある限り、無念の思いを抱き生きている今。

戦争を経験した方にしかわからない命の価値。

先人の思い…少しづつ寄り添わせて頂き 戦争を知らない私たちが伝えていければと思います。

ありがとうございます♡

太陽院院長 近藤   千恵子です(^^ゞ

今日、無事43回目神風特攻敷島隊 愛媛県戦没者奉賛会慰霊追悼式典…青空の元開催いたしました。

お手伝いさせて頂くようになって数年目…開催の準備の為 昨日、一昨日となかなかブログも更新する時間もなく 年に一度の追悼式典の為、準備頑張りました(*^^)v

平日にもかかわらず、たくさんの方々に参列頂き 盛大に追悼式典開催することが出来…大東亜戦争の最期の攻撃…神風特攻隊。

準備を始めた7時半…式典が始まるまでの間 軍歌が流れ、心地よい時間。

散華し天に還っていった多くの御霊。

平成最後の追悼式典は、最高の秋晴れでした。

手作りの式典は、今回の式典で初めて歌う五軍神を讃える「悠久の五つ星」の歌詞カード、3番の歌詞では、痛恨の入力ミス。

1番機…2番機と歌われる中、3番機がなんと3番器と…入力ミス。

4番も5番もちゃんと機体の機。

気付いた時は、もう式典中。

もしも その前に気付いていたら 200枚全て印刷しなおしたかも…。

神さまの最大のエコヒイキ。

色々ありながらも 今年も無事催行出来たこと…神さまに感謝いたします。

2日連続の睡眠不足も…やっと解放されそうです(*^^)v

神風特別攻撃隊★

太陽院院長 近藤  千恵子です\(^o^)/

神風特攻…きっと日本人だからこそ理解できる特攻作戦。

昭和19年10月25日…世界で初めての人間爆弾となり散って逝った 敷島隊五軍神

19歳や20歳の若さで死んでいく身…

おとうさん… おかあさん… そして愛する人も居たかも知れない…

敷島隊隊長となった 関  行男中佐が 私の住む愛媛県西条市出身と言うことで 43年前から行われている追悼式典。

私がお手伝いをさせてもらい始めたのは ほんの数年前から…。

ふるさとの母を残して死んでいくこと…

どんな思いで突撃前夜過ごしたのでしょうか…。


海がある 山がある 空に光が溢れてる
道がある 川がある 伊予のことばが流れてる
ふるさと ふるさと わが愛媛
ゆたかな自然が あふれてる
あつい血潮が 流れてる


という、「愛媛の歌」があるけれど…

泳いだかもしれない加茂川や、きっと仰いだと思う石鎚山…

世の中は変わっても まだ自然はたくさんある西条。

今年、74回目の命日を迎える敷島隊五軍神の追悼式典で配る記念品の準備に行くとき、ちょうど踏切に引っかかり…

そして通過したのが「アンパンマン列車」

アンパンマンの作者…数年前に天に還られた  やなせたかしさんもまた お兄様を特攻により失った家族のひとり。

そのお兄様への思いは、アンパンマンの歌の中にしっかりと込められており…数年前改めて聞いた時、ノックアウトされました。


そうだ…うれしいんだ 生きるよろこび
たとえ 胸の傷が痛んでも

何のために生まれて 何をして生きるのか?

答えられないなんて そんなのは…いやだ!

今を生きることで 熱い心燃える
だから 君は行くんだ 微笑んで…

そうだ…うれしいんだ 生きるよろこび
たとえ 胸の傷が痛んでも

ああアンパンマン やさしい君は
いけ! みんなの夢まもるため…


お兄様を、戦争の真っ只中 特別攻撃隊の一員として 見送った やなせたかしさん…

だからこそ、この歌の内容を深く知った時、泣けて泣けて…涙が止まりませんでした。

そして、追悼式典の準備に向かう私の前を 通り過ぎて行った
「アンパンマン号」

これもきっと神さまの御計らい♡

天からの応援も受け…しっかり準備させて頂きます(^^ゞ

パソコン♡

太陽院院長 近藤 千恵子です(*^^*)

結婚した当初、夜パソコンの前に座り真剣になってる主人に向かって…

「パソコンする人…嫌い!!」と言ってた私。

そんな私ですが、パソコンが出来る主人のおかげで、太陽院のチラシや様々な講演会のチラシ…作ることが出来るようになりました。

と言うか…、初め作ってもらってたものの 性格は大雑把な割に 細かい所が気になる私。

もうちょっと ここのところ右へ…

もうちょっと上に持ってきて…

と、言う度に 怪訝そうな主人。

そして、あげくの果てに も~私がする!!と、マウスの動かし方も クリックの仕方も ダブルクリックも上手く出来ないながら、悪戦苦闘。

36まで独身で何でも自分でやってきた女は強い(笑)

あれから結婚して19年と6か月。

ブラインドタッチなど出来ないけれど…今日もチラシの大作仕上げました(*´▽`*)

今月25日の神風特攻敷島隊五軍神と愛媛特攻戦没者追悼式典のチラシ♡

せっかくの開催…多くの方々に参列頂けるようにと、新聞折り込みに入れることになり…。

そして、やっと出来たチラシ…

我ながら力作…。

 

西条に住んで居ながら 私自身この追悼式典を知ったのは 7年ほど前…。

特攻なんて馬鹿げたことで死んでいくなんて…自殺行為とまで思ってた私。

そんな私が 三重県津市の赤塚建設社長 赤塚高仁さんのお話しの中 特攻隊のお話しを聞き…そう言えば西条にも居たな~と、慰霊碑を訪ねて行ってびっくり。

フィリピンで特攻作戦が始まり 最初の突撃隊の隊長が関行男氏だったこと…。

同じ小学校を出てたこと…

そして、今回チラシや先日は歌詞カードを作ったことで、五軍神の一人ひとりが尊くて…

今日のチラシにも一人ひとりのお顔の写真と出身地や行年を書きながら…当時のそれぞれの故郷や両親への思いを思うと耐えきれず 泣けてきて…。

19才や20才の青年が、祖国のために命を懸けて体当たりし散華していったこと。

チラシを見た若者がどんなふうに思うのか…

どうかひとりでも多くの方が、英霊の存在を知り 英霊に哀悼の思いを寄せることが出来ると嬉しいです。

そして、チラシが作れるようになったり パソコンが使えるようになったこと…主人と結婚して良かった!!と思えることのひとつです(´∀`*)ウフフ