生まれる前から

この世に生まれる前から、育み育ててくれる 母親という存在。

2013年12月19日、夕方5時すぎ  携帯を別の部屋に置いたまま施術中、何度も電話がかかり、最後には主人の携帯に姉から電話が入り、

「とうとうその時が来てしまったのか?」と、車で5分もかからない入院先の病院へ。

駆けつけた時、ちょうど一番上の姉がエレベーターから出てきて母の死を告げてくれ、最後の着替えを取りに家に戻り 私は病室へ。

亡くなってどのくらい時間が経ったのかはわからなかったけれど、

「人は臨終のあとも   しばらくは聞こえてる」と聞いてたので、
耳元で「母ちゃん…ありがとう!楽になったね!!ありがとう…」と言わせてもらいました。

実は亡くなる1年前の12月初め、低酸素・低血圧状態が続いてるという連絡が入り、

その日から毎日、脊柱と両足にオイルマッサージそして頭骸と顔面の骨格矯正。

それから1年は熱を出すこともなく、看護士さんもまだもう少しは持ってくれると思ってたと言われるほど・・・。

実は、私  毎日母のケアしながら  耳元で「母ちゃん!しんどいけど   もうちょっと私に甘えさせてね」「ごめんね」「ごめんね」「もうちょっとこの身体も触らせてね!!」・・・と。

末っ子の私は、一番遅くまでおっぱいをもらい、甘えられる特権を得てた様で、

好きなことや思うことをさせてもらえなかった姉たちと比べると ホント好きなことしかしていない私は、放蕩娘。

35歳くらいのころ、自己啓発セミナーに参加した時 何が怖いですか?という質問に「両親の死」と答えてたほどの私。

母の死を迎えるまでちょうど1年間。

いつかは触れなくなる その肉体をいっぱい触らせてもらい、帰り際にはほっぺにチュをして帰ってたほど…。

もう数年前から  寝返りも話すことも出来ない母に思い残すことの無いようにと…。

本当にその1年があったからこそ、死を迎えたその時の心の穏やかさは他の人からみると、きっとなんて冷静って思われそうなほど穏やかで…。

そしてもっともっと思えば、亡くなった日が19日。
ちょうどその前、12月16日~17日と伊勢の神宮の月次祭に合わせて伊勢の修養団で行われる「神話を体感する会」に仲間と参加しており

伊勢に行く前の日15日も病院に寄ることが出来ず、戻ってきた18日は姉から「今日は私が行ったから行かなくていいよ!」と連絡が入り、そして19日昼間も病院の前を通った時、「いつも通り夜行けばいっか!!」とそんな感じで、

毎日「私の為にがんばってよ!」「もうちょっと甘えさせてね」と言ってた私が、5日間行けず・・・。

後でふと思ったのは、
「きっと千恵子が来るとまた頑張れって言うし…。来ないうちに逝かせてもらお!!」「さいなら~」と…

私の携帯が氣づかないところに置いてたり、病室に5日間も行けなかったことも母を思う天の計らい。

母親は、我が子の為に命削っても守り愛してくれる。

私の母、厳しい所もいっぱいあったけれど、本当に優しくて結局私の耳元でささやく「頑張ってね」の言葉に頑張り続けてくれていたんだと…。

私がこの世に生まれる時も、お腹にいる十月十日の間もずっとずっと、護り続けてくれてた母。

きっと天に還っても  見守ってくれてるようで…。

昨日19日命日、お墓に行ったとき、うっかりライターを忘れてしまっており…どうしよう!!って思いながら、

ちょうどその日1段上で工事をしてた青年に「ライター誰かもってたら貸してもらいたいんですが…」と。

その青年、何も言わず降りてきてくれ、すっとライターを渡してくれた時は、あーこの青年神様が使わせてくれたな~と思ったくらい。

お盆やお彼岸でもない滅多に人に会うこともない平日。あの時間に工事してたのも天の計らい。

ろうそくとお線香に火を点すと、火は一連の出来事を喜ぶようにどんどん大きくなり 「私は元氣でやってるよ」「ありがとう」「いつも見てるし守ってるからね。」「大丈夫だよ」と言ってくれてるようで 涙溢れスーっと母と一体になった感じでした。

52歳でパーキンソン病と診断され、すぐに悪くはならないものの  筋肉の硬縮が起これば左手が震え。

そんな病の中でも母は、私が勝手氣ままにスキーをしている間も 娘の身体を案じ、嫁に行かない娘をどうにか行かせられないものかと方々に釣書を配り・・・。

今思えば、本当に親不孝の放蕩娘。

今、私が54歳。母が病を持って生きた52歳から80歳までの28年間。
母のやりたかったことも一手に引き受けて生きていこうと思った4回目の命日。

母の病室に行ったとき、CDのスイッチをオンにし、一番初めにかかるこの曲をきっと脳裏に焼き付けて母は天に還っていったのだと思う

思い出の讃美歌「主よみもとに近づかん」

是非聴いてもらえると嬉しいです。