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五軍神奉賛会

太陽院院長 近藤 千恵子です(^^ゞ

今日夕方7時から、西条市楢本神社で 先日逝去された一昨年まで奉賛会会長であった寺田 幸男氏の自宅に置いてあった戦争や特攻に関する資料の数々を 整理させて頂きました。

数多くの資料や本の数々…。

1945年8月6日の広島。 8月9日の長崎。 そして8月15日敗戦。

1941年12月8日真珠湾攻撃による開戦から 1944年10月25日フィリピンでの神風特攻の始まり…。

そして残ったものは…

アジアで長い間他国の支配下にあった島々の独立宣言。

そして、日本人の自虐史観。

侵略するためでも…領土を奪うためでもなく…只々長い間米国により経済上・軍事上の度重なる理不尽な脅威に 長い間、忍耐し…また話し合いによる和解をと望む日本をあざ笑う様な米国の対応。

日本人は、忠誠心・愛国心に満ちた非常に感受性の強い、誇り高き、かつ勇敢な民族…

そして、戦わずして国を失うことは考えられなかった…。

今日目にした、多くの戦争の資料や写真や本。

広島や長崎の原爆で尊い命を奪われた方々も、5年に満たない大東亜の戦争で散華していった方々も…

ひとりひとりに両親や兄弟姉妹、そしてお嫁さんや子供、そして、友もいて…。

役員の持っている資料の中に、敷島隊隊長の関さんの学生時代のテニス部の仲間と一緒に写った写真。

そして、記念館にある小学5年の関さんが、友と2人で写ってる写真には、私も知っている方の小学5年生の時の顔が…。

どんな思いで、遠く離れたフィリピンの地で身体ごと体当たりしていった同級生の死を知ったのか…。

私の知っているその方は、もう10年以上前に天に還られたけれど、カイロの施術をさせてもらってる間 色々なお話もさせてもらったけれど、一度も戦争の話や関さんのお話は聴かせてもらったことはなく…。

天に戻って逝った時、同級生たちは関さんを囲み どんな話をしたのでしょうか。

命をかけて守ってくれた英霊の方々のこと…日本のこと…きちんと伝わって行くのでしょうか。

そして今日、ちらっと聞いた話

我が町西条市で毎年行われる8月17日のお観音さんの花火。

天正13年7月豊臣秀吉の四国攻めの合戦で禎祥寺(通称 お観音さん)の僧 林端和尚 外豪族がことごとく西条市の野々市ヶ原で戦死、その人々の霊を慰めるため 翌年の新盆7月17日に送り火として打ち上げた花火。

四百余年の伝統の花火大会。

その花火大会が戦没者慰霊のための花火大会だから…ということで、今まであった西条市からの助成が無くなったんだとか…。

西条…私は大好きです。

「過去が咲いている今、未来の蕾で一杯な今」

と、言う言葉のように、過去にこの町に住んでいた人々がいて繋がっていること。

どんなことがあって、西条市の助成が無くなったのかわからないけれど、私自身しっかり経済手に入れて ドカ~ンと大きな花火を天の英霊の方々に届けられるようになりたいものです。

 

楢本神社境内の二人の偉人

太陽院院長 近藤 千恵子です!(^^)!

愛媛県西条市大町の氏神様…楢本(ならもと)神社

境内には神風特攻敷島隊 関 行男氏ら五軍神の追悼碑

追悼碑の裏にはこんな言葉が…

「大東亜戦争末期米軍の大機動部隊のレイテ侵攻を阻止し、大和民族の純血を守らんとして神風特攻第一号敷島隊は一機一艦轟沈を目指して、世界最初の公式の人間爆弾となり国家悠久の大義に殉ず。
嗚呼若き血潮の滾る五軍神命達よ、世界恒久平和の魁としてこれの聖所に安らかに齋かれまさんことを祈る。」

そして、毎年10月25日敷島隊五軍神の命日には、大町の有志で追悼式典を開催しており…

今年度から大きく役員も変わり、先日役員会で毎月末日に 境内の掃除をしていこうということが決まり、今朝9時 蝉の声を聞きながら清掃。

そんな境内にもうひとつ ある建物が、医聖と呼ばれた眞鍋嘉一郎氏の生誕の家。

眞鍋氏は、1878年(明治11)に現在の西条市大町に生まれ5歳で父を失い、貧しい 暮らしの中で育ったそう…。

西条から松山中学校、第一高等学校、東京帝国大学医科大学(現在の
東大)へと進み、どの学校でもトップの成績で卒業され、松山中学校時代は夏目漱石の生徒でもあったそう…。

卒業後は、東大に勤め、1911(明治44)年から3年間ドイツに留学し、野口英世氏にも出合い彼が亡 くなるまで交流は続き…

帰国後、内科の治療にレントゲン線、ラジウム鉱泉などを利用する物理療法を取り入れ…1926(大正15)年には東大の教授となり、内科物理療法学の講座を開いたそう…。

眞鍋氏は、夏目漱石や野口英世…そしてあの226事件の浜口雄幸首相等 有名人との交流があり、特に、浜口首相最後の脈を 取ったことなどで知られているのだとか…。

その眞鍋嘉一郎先生の生誕の家が楢本神社境内にあり 今朝掃除が終わった後 眞鍋先生のお話を聴かせて頂きました。

軍神関行男さんや医聖眞鍋嘉一郎先生と同じ西条市大町に生を受けた者のひとりとして、お二人の偉業が後世に伝えられていく様…先ずは毎月のお掃除からお手伝いさせて頂きます。

 

お国訛り

大東亜戦争末期、軍機と共に突撃していった 神風特別攻撃隊。

その特攻作戦が始まった昭和19年10月、フィリピン マバラカットより飛び立ち、散って行った、西条市出身の関行男中佐。

関中佐を隊長に飛び立った 神風特攻一番敷島隊の5人。

軍神となった5人の御霊を弔うための追悼式典。

終戦後30年過ぎた40年程前から始まり、今も10月25日には 西条市の楢本神社で開催。

追悼式典を今後も継承していくために、今年新たに新体制でスタートした「神風特攻敷島隊五軍神・愛媛特攻戦没者奉賛会」

略して、「五軍神奉賛会」

昨日、その奉賛会の総会が開催され  その中で  聴かせてもらった深いい話。

今60歳は過ぎている、I さんが東京の飲食店で若いころ仲間と話していた中、隣に座っていたおじさんから 「どこの出身?」と聞かれ

「四国です」と答えると、四国のどこ?

「愛媛です」と…。

すると、愛媛のどこ?と…。

「西条です」と言ったところ、

「やっぱり」と…。

その隣り合わせた方、関中佐とフィリピンで一緒に居たらしく、飛び立つ敷島隊を見送ったとか…。

関行男さんが、きっとフィリピンでも西条弁で「ほじゃけん」とか「ほうよ」とか「あんのーえー」とか言っていたんでしょうか。

お国訛りというのは、その人の風貌と共に覚えているようで、おそらく関さんが飛び立った日から 30年以上は経っているその頃にも その西条弁を耳にし 関さんを一瞬で思い出したのかと思うと…胸が熱くなります。

そして、その若かった、I さんが東京で聴いた軍神関行男中佐のお話し。

終戦後、教育が変えられ 学校では戦争が無かったかのような授業の中、聴かせてもらった関さんのお話は強烈だったそう…。

高校の教員をされてたその方は、教員仲間の中では「あいつはちょっと右寄りだ」と言われながらも

追悼式典の開催される楢本神社傍の高校に赴任中などは、10月25日追悼飛行で飛ぶ自衛隊機を仰ぎ、生徒たちにも敷島隊や祖国の為に命を懸けた英霊の話をしてきたそうで…。

戦争を賛美するわけではなく、ただただこの日本が世界で一番長く続き、今こうして家があり、食べることが出来る生活の陰では、

命を懸け祖国の為に闘ってきた英霊の方々がいること。

そこを、ないがしろにするわけにはいけない。

命を懸け、行ってくるよ!と、ぐっと奥歯を噛み締め笑って飛び立って行ったからこそ、何十年経っても人の脳裏から離れることのない存在なのだと…感じます。

そして「カミカゼ」と読んでいた「神風」は実は「シンプウ」というらしく、正式には「シンプウ特攻敷島隊」だと…。

今年も、10月25日、西条楢本神社にて執り行われる追悼式典。

同じ石鎚の湧水を飲み、同じ小学校を卒業し、同じ言葉を話していた先人の思いもまた共に…継承させて頂きます。

関 行男さん

終戦を迎える前年  昭和19年10月20日、フィリピン・ルソン島で編成された 「敷島隊」・「大和隊」・「朝日隊」・「山桜隊」の神風特別攻撃隊第1陣。

「敷島の 大和心を 人問わば 朝日ににおう 山桜花」の和歌からついた各隊の名前

関 行男さんは、10月25日フィリピン・マバラカット空港より、敷島隊の隊長として敵艦セント・ローに身体ごと体当たりし命中…。

関さん行年23歳。ほかの隊員も19・20歳の若さでの突撃。

関さんは、私の暮らすこの西条市で誕生し、同じ大町小学校を卒業。

その後、現在の西条高校の前身  西条中学を卒業後、海軍学校へ。

私が関 行男さんのことを知ろうと思ったのは、三重県津市の赤塚建設社長赤塚さんから聴かせてもらった数々の日本のお話の中から…。

日本が世界で一番長く続く国家であること。

天皇陛下が、終戦後マッカーサー元帥のところを訪れ、この日本国民のために命をかけて会いに行ってくれたこと。

日本を守るために命をかけて突撃した特攻隊というものがあったこと。

などなど、学校では教えてくれることの無い、真実を聞いたとき 魂が震え、そして西条にも関行男さんって特攻の方がいたな~と、

石碑のある西条楢本神社を訪れて初めて知った日本の特攻作戦の中でも、1番戦闘機として飛び立っていたということ。

その後、数多くの若い命が、祖国のために命をかけて突撃して行った特別攻撃隊という存在。

ここ西条の楢本神社では昭和50年に、関行男さんの石碑が建立され、その後昭和56年に敷島隊の4名も含め「五軍神祀碑」として建立。

毎年10月25日に追悼式典が開催され、私もこのことを知った2011年よりお手伝いさせてもらうようになりました。

驚いたことに、初めて五軍神の資料館に入った時に目にした 関さん小学校5年生のころの写真は、私がカイロプラクティックを始めた頃 凄く大事にしてくれた田坂さんが寄贈したもの。

関さんと同級生だったそうで、田坂さんのご実家が写真館ということで 田坂さんのお父様がなんと立派な子供だろうということで 我が子と並んで写した1枚の写真。

終戦後、田坂さんが資料館に寄贈されたんだと思うけれど、もう10年程前に肺がんでこの世を去るまで、一度も田坂さんの口から特攻の話も もちろん関さんの話も聞いたことはなく…。

あの小学校5年生で二人並んだ写真を見た時、田坂さんが私に

「俺の自慢の同級生、関行男君。どうかたくさんの人に知らせてね」と言ってるようで、胸が締め付けられました。

日本のこと、戦争のこと、特攻のことを全く知らなかったあの頃、もし話を聞いていたとしても ふーんとしか思わなかったかも知れないし…。

時が来て、知ったことも意味があるんだろうと 今…思います。

その後、私の近所に住む現在85歳のおばさんも、施術中

「関さんのお母さんは、私の家の近くに住んでて 私が小学生のころ、関さんがお母さんのところに戻って来たときは、カツ カツ カツっと革靴の音が響いて ついて歩いて触りに行ったよ」と、話してくれて

「あの頃、兵隊さんっていっても革靴履いて あんなにかっこよかった人はいなかったしね」…とも。

生きている関さんをみた人は、たとえ自分がまだ幼くても しっかりと胸に焼きつけられてるようです。

追悼式典のお手伝いさせてもらい、まだ6~7年だけれど 奉賛会の役員会にも加えて頂き 私に出来ること少しづつさせてもらってます。

今日、来月の総会に向けての役員会。

世代交代もあり、また新しい体制で始まる29年度。

私にとっては、関行男さんは私の中で英雄。

「武士道と云うは死ぬ事と見つけたり」ともあり、国のため 愛する家族のため 玉となって突撃する姿は、仁・義・礼・智・信・忠・孝…全て。

特攻作戦を知らされた時、関さんは

「日本もおしまいだよ。僕のような優秀なパイロットを殺すなんて」
「僕は最愛のKA(妻の意味の海軍隠語)のために行くんだ。最愛の者のために死ぬ。どうだ素晴らしいだろう」と言ったとか。

現に終戦前年から、海軍が行った特攻作戦は 敵国アメリカに、かなり精神的な打撃を負わせたと思う。

アメリカ軍は身体ごと体当たりしてくる特攻機に「クレイジー」と…。

先日ブログでも書いてみたが、私の主人が今から25年前 アメリカにホームステイした時のホストファミリーのお父さんが、戦後45年たっているにもかかわらず、日本人が体当たりしてきた特攻のことを聞いて来たのだから…。

イエス様が十字架にかかり昇天したように、命懸けで突撃する様にアメリカ人は衝撃を受けたのだと…。

私自身、命をかけて祖国を守ってくれた英霊の方々に出来る限りのことをしていきたいと思わされてなりません。

もちろん戦争を賛美するつもりは全くなく、ただ国家があることはあたりまえでない現実ということだけ…。

西条市出身の秋川 雅史さんの歌った 「千の風になって」は天に還った英霊からのメッセージとも受け取れる名曲

西条市出身の秋川さんが歌ったのも感慨深い…。