もう年が明けたので、3年前になるけれど、2014年の5月、皇居の勤労奉仕へ参加させて頂きました。
2010年11月に、昭和天皇がマッカーサー元帥に、謁見された際
『この度の出来事は、全て私の責任です。私の身体はどうなっても構いません。どうか国民を飢えから救ってください』
と、自らの命を引き換えにするほど、国民を愛し守り続けてくれた昭和天皇のお話を聞いた時から、天皇陛下や皇室に対する思いが180度変えられたこと、今も忘れられません。
その後、東北の震災があり、今上天皇と美智子皇后が共に被災地へ行かれ、ひざまずき被災された方々に寄り添われるお姿や多くの犠牲者をのみこんだあの海に向かって、追悼されるお姿に、
慈愛あふれる両陛下に守られているこの日本に生まれて良かった…!!と魂いっぱいの歓びを感じ…
そんな私に、声かけて頂いた『勤労奉仕』
三重県の赤塚さんを団長に28名の全国から集まった仲間と愛媛からは3人で参加させてもらいました。
4日間東京に宿泊し、東宮御所と皇居へのご奉仕。
私たちの時は、ちょうど出雲大社の権宮司さまと高円宮典子女王との結婚発表があった時。
出雲と言えば、美智子皇后が詠った歌が大好きで
「国譲り 祀られましし 大神の 奇しき 御業を 偲びて止まず」
2677年前、譲られたアマテラスオオミカミの世。
アマテラス様の世に、そのころ奇しき御業によって譲られ2677年。
その譲り、譲られた出雲の大神様にご縁ある方とアマテラス様のご子孫の結婚が決まったのですから、また素晴らしい!!
私たちが、勤労奉仕に参加させて頂いた際、初日は赤坂御用地内のご奉仕そして東宮御所での皇太子さまの御会釈。
そして、勤労奉仕2日目、皇居での清掃初日に天皇皇后両陛下の御会釈を賜りました。
奉仕団は全部で4団体。その代表で、我らが団長赤塚さんが両陛下に『万歳三唱』をすることになり、赤塚さんに続いて我々4つの奉仕団員が万歳!!
天皇陛下に3回、皇后陛下に3回。合計6回の万歳の渦。
代表の赤塚さんは、1メートルほどの至近距離で、言葉に出さずとも伝わる思い。
言挙げせずとも聞こえてくる両陛下の「ありがとう」の言葉。
あの日。万歳三唱の代表をされた赤塚さんを通して、ペリリュー島の英霊が両陛下の訪問を願ったのではないのか。
赤塚さん自身、あのペリリュー島で軍医をされていた三重県松坂市の上島先生がもう一度行きたい!と言ってた南の島ペリリューに2010年10月ご縁あって訪れペリリューの英霊たちに触れ
その後、行く先々でパラオの国旗とペリリューでの激戦玉砕されたお話をされてきて、私自身も何度聴いたことか…。その度に涙。
そんな赤塚さんが、万歳三唱の際、「陛下どうかペリリューを顧みて下さい。」という思いものせて万歳三唱。
言挙げせずとも伝わるペリリュー島への想い。
そして、勤労奉仕が終わり7~10日ほどたったある日、宮内庁から発表された
『天皇皇后両陛下ぺリリュー島ご訪問』
そして、もう2年前になってしまいましたが、ペリリュー島を両陛下がご訪問され、あの軍艦「あきつしま」にてご宿泊。
陛下のひとりひとりへの想い、あの島に眠る多くの英霊の御霊が、祖国日本へと戻って来られたことだと感じます。
以下ペリリュー島の島民と日本軍のお話☟
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遠い南の島に、日本の歌を歌う老人がいた。
「あそこでみんな死んでいったんだ・・・」
沖に浮かぶ島を指差しながら、老人はつぶやいた。
太平洋戦争のとき、その島には日本軍が進駐し陣地が作られた。
老人は村の若者達と共にその作業に参加した。
日本兵とは仲良くなって、日本の歌を一緒に歌ったりしたという
やがて戦況は日本に不利となり、いつ米軍が上陸してもおかしくない状況になった。
仲間達と話し合った彼は代表数人と共に日本の守備隊長のもとを訪れた。
「自分達も一緒に戦わせて欲しい」と。
それを聞くなり隊長は激高し叫んだという。
「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるか!」
日本人は仲間だと思っていたのに・・・。
みせかけだったのか。
裏切られた想いで、みな悔し涙を流した・・・。
船に乗って島を去る日、日本兵は誰一人見送りに来ない。
村の若者達は、悄然と船に乗り込んだ。
しかし、船が島を離れた瞬間に日本兵全員が浜に走り出てきた。
そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、手を振って彼らを見送った。
先頭には笑顔で手を振るあの隊長が。
その瞬間、彼は悟ったという。
あの言葉は、自分達を救うためのものだったのだと・・・。