もう何年か前、友人が言うことをきかない我が子を、お仕置きで押入れに入れた時の話。
ごめんなさーい…と、言いながらけたたましく泣く息子。
いやいや今回は、しっかり反省するまで出せないよ!と、しばらく側にいたが、突然泣き止み「神さま~ 助けて下さい!」と。
特に家族が信仰を持っているわけでもなく、神社に通ってるわけでも無いのに、小さな子供が窮地に立たされた時 出てきた 神さまを求める言葉に お母さんはびっくりしたそう。
当然、すぐに押入れからは出したそうですが…。
日頃、見えない世界からの愛の存在は感じることが出来にくいけれど、窮地に立たされた時、「神さま!」と、求め祈ることを生まれた時からきっと赦されてる私たち。
まだ言葉も話せない幼子は、泣いて自分の願いを伝え その声を聞いて大人が動く。
ツラい、苦しい、どうしたらいいんだろう…という時、あきらめず、祈り求めること。そして、その祈りによって示され何かが動く。
「人の最悪は神の最善」
あのイエス・キリストも鞭打たれ、十字架に張り付けられながらも
「父よ、赦して下さい。この人たちは何もわかっていないのです…」
と天に祈ったのだから、祈りの更に上級編には、誰かの為に祈ること。
あと4日で新しい年。
宮中では 元旦まだ夜が明けない早朝、陛下は特別の建物に入られ、四方の神々をお招きして、『四方拝』
「どうかこの1年、災いが起きませんように。
もし起こるのであれば、私の身体を通して起こりますように」
と、祈り捧げられるそうです。
神武天皇以来125代今上天皇まで、今もずっと変わらず、国家の安泰国民の幸せのため祈り続けてくれている天皇という存在。
まさに自分を十字架にあげられても祈り続けた、キリスト・イエスの様な愛。
エドガー・ケイシーが言った祈りの言葉
「私が願うことでなく、主よ…あなたの御心が私の内に私を通して行われますように。
今日、今 私が出会うすべての人に私を祝福の水路として下さい。」
この祈りを知った時から、日々の生活の中 カイロの施術中にも 見えない何か偉大な力が、ますます近くにいる感じでもあり
私たちは神さまや2676年続く皇室の祈りに守られ存在しているように感じます。
聖書 民数記(6-24)
願わくは主があなたを祝福し、 あなたを守られるように。
願わくは主がみ顔をもってあなたを照し、 あなたを恵まれるように。
願わくは主がみ顔をあなたに向け、 あなたに平安を賜わるように。
讃美歌「歌いつつ歩まん」