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日の丸

今朝、松山空港7:40発のJAL430便に乗り 東京へやって来ました。

小型のジェット機の最後尾席に座り、窓を開けてみると…JAL日本航空の日の丸が右翼で輝いておりました。

そして、私自身73年前 機体と共に散っていった特攻兵と同じような景色へと連れて行かれました。

にっこり笑って、敬礼し エンジンの音と共に上昇。

眼下に広がる家々の中に  自分の家を探した人もいるでしょう。

どんどん機体は上昇し、瀬戸内の海が見えた時…敵艦目指して急降下していった英霊たち。

梅雨の晴れ間…青い海と右手にみる日の丸に朝からひとり涙が出て…誰かに見られないように必死で溢れる涙をぬぐっておりました。

私は、今日松山空港を出ると 無事にたどり着く場所がある。

片道だけの燃料を積み…笑顔で乗り込んだ若者たち。

今日 フライトの途中 放送でも またスチュワーデスさん達も 「今日の富士山は本当に美しい姿を見せてくれてますよ」と誘われ…左翼の最後部座席へ。

山の広がるなか、凛と一際美しい姿を見せてくれた富士山。

スチュワーデスさんも「こんなに綺麗に見える富士山は珍しいですよ。きっと良い日になりますね」と、言って下さり…

朝から感動のフライト。

そして、途中仲間とも合流出来て、スムーズに目的地の葛飾区にある「金町駅」へ…

着いたらすぐに  お手製の具だくさんの冷やし中華を頂き…

そして、何とも楽しい時間を過ごさせて頂き…夕方には江戸前寿司をごちそうになり…

至れり尽くせりの1日を過ごさせて頂きました。

そして夕方、ちょうど4つ向こうの駅「北千住」へ向かい…5月までご近所で住んでた昭子さんのところへ…。

軽い認知症だけど…家を離れ 北千住の介護施設に入り  元氣な姿をみることも出来…感動。

こんな豊かな国で過ごせる今…改めて日本に生まれて良かった…と感じた今日でした。

関 行男さん

終戦を迎える前年  昭和19年10月20日、フィリピン・ルソン島で編成された 「敷島隊」・「大和隊」・「朝日隊」・「山桜隊」の神風特別攻撃隊第1陣。

「敷島の 大和心を 人問わば 朝日ににおう 山桜花」の和歌からついた各隊の名前

関 行男さんは、10月25日フィリピン・マバラカット空港より、敷島隊の隊長として敵艦セント・ローに身体ごと体当たりし命中…。

関さん行年23歳。ほかの隊員も19・20歳の若さでの突撃。

関さんは、私の暮らすこの西条市で誕生し、同じ大町小学校を卒業。

その後、現在の西条高校の前身  西条中学を卒業後、海軍学校へ。

私が関 行男さんのことを知ろうと思ったのは、三重県津市の赤塚建設社長赤塚さんから聴かせてもらった数々の日本のお話の中から…。

日本が世界で一番長く続く国家であること。

天皇陛下が、終戦後マッカーサー元帥のところを訪れ、この日本国民のために命をかけて会いに行ってくれたこと。

日本を守るために命をかけて突撃した特攻隊というものがあったこと。

などなど、学校では教えてくれることの無い、真実を聞いたとき 魂が震え、そして西条にも関行男さんって特攻の方がいたな~と、

石碑のある西条楢本神社を訪れて初めて知った日本の特攻作戦の中でも、1番戦闘機として飛び立っていたということ。

その後、数多くの若い命が、祖国のために命をかけて突撃して行った特別攻撃隊という存在。

ここ西条の楢本神社では昭和50年に、関行男さんの石碑が建立され、その後昭和56年に敷島隊の4名も含め「五軍神祀碑」として建立。

毎年10月25日に追悼式典が開催され、私もこのことを知った2011年よりお手伝いさせてもらうようになりました。

驚いたことに、初めて五軍神の資料館に入った時に目にした 関さん小学校5年生のころの写真は、私がカイロプラクティックを始めた頃 凄く大事にしてくれた田坂さんが寄贈したもの。

関さんと同級生だったそうで、田坂さんのご実家が写真館ということで 田坂さんのお父様がなんと立派な子供だろうということで 我が子と並んで写した1枚の写真。

終戦後、田坂さんが資料館に寄贈されたんだと思うけれど、もう10年程前に肺がんでこの世を去るまで、一度も田坂さんの口から特攻の話も もちろん関さんの話も聞いたことはなく…。

あの小学校5年生で二人並んだ写真を見た時、田坂さんが私に

「俺の自慢の同級生、関行男君。どうかたくさんの人に知らせてね」と言ってるようで、胸が締め付けられました。

日本のこと、戦争のこと、特攻のことを全く知らなかったあの頃、もし話を聞いていたとしても ふーんとしか思わなかったかも知れないし…。

時が来て、知ったことも意味があるんだろうと 今…思います。

その後、私の近所に住む現在85歳のおばさんも、施術中

「関さんのお母さんは、私の家の近くに住んでて 私が小学生のころ、関さんがお母さんのところに戻って来たときは、カツ カツ カツっと革靴の音が響いて ついて歩いて触りに行ったよ」と、話してくれて

「あの頃、兵隊さんっていっても革靴履いて あんなにかっこよかった人はいなかったしね」…とも。

生きている関さんをみた人は、たとえ自分がまだ幼くても しっかりと胸に焼きつけられてるようです。

追悼式典のお手伝いさせてもらい、まだ6~7年だけれど 奉賛会の役員会にも加えて頂き 私に出来ること少しづつさせてもらってます。

今日、来月の総会に向けての役員会。

世代交代もあり、また新しい体制で始まる29年度。

私にとっては、関行男さんは私の中で英雄。

「武士道と云うは死ぬ事と見つけたり」ともあり、国のため 愛する家族のため 玉となって突撃する姿は、仁・義・礼・智・信・忠・孝…全て。

特攻作戦を知らされた時、関さんは

「日本もおしまいだよ。僕のような優秀なパイロットを殺すなんて」
「僕は最愛のKA(妻の意味の海軍隠語)のために行くんだ。最愛の者のために死ぬ。どうだ素晴らしいだろう」と言ったとか。

現に終戦前年から、海軍が行った特攻作戦は 敵国アメリカに、かなり精神的な打撃を負わせたと思う。

アメリカ軍は身体ごと体当たりしてくる特攻機に「クレイジー」と…。

先日ブログでも書いてみたが、私の主人が今から25年前 アメリカにホームステイした時のホストファミリーのお父さんが、戦後45年たっているにもかかわらず、日本人が体当たりしてきた特攻のことを聞いて来たのだから…。

イエス様が十字架にかかり昇天したように、命懸けで突撃する様にアメリカ人は衝撃を受けたのだと…。

私自身、命をかけて祖国を守ってくれた英霊の方々に出来る限りのことをしていきたいと思わされてなりません。

もちろん戦争を賛美するつもりは全くなく、ただ国家があることはあたりまえでない現実ということだけ…。

西条市出身の秋川 雅史さんの歌った 「千の風になって」は天に還った英霊からのメッセージとも受け取れる名曲

西条市出身の秋川さんが歌ったのも感慨深い…。