本当の初心者でもホームページの作成にあたって知っておくべき知識

私昨年ホームページ作りに初めて挑戦したのですが、本も買わず、ソフトも買わず、ネットに繋がったパソコン一台で10ページ程のホームページを一か月程で作成し、公開しました。

ホームページの作り方の知識が全く無かった(ほぼ0です)自分でも割と簡単に出来るものだと正直思いました。出来上がったものは正直ダサくて、いけていない、洗練されていないものかもしれません。しかし最低限の目的を果たすことのできる機能は織り込まれています。

取っ掛かりはインターネットの情報だけです。企業ならともかくいち個人がホームページ作るのなら高いお金を払ってまでどこかの企業に発注する必要はまったく無いと強く思われました。これから先もホームページ作成の需要は間違いなく無くなっていくと痛感させられました。それで飯を食っていこうとされている人が居ましたら申訳ありません。正直、時間とホームページを作る熱意があれば、どなたでも作成可能だと思っています。


そこで、ホームページを作る時に最低限知っておくべき知識を述べたいと思います。

仮にサラリーマンやめて、時間は割とありますがお金が無いという方。しかも誰かに使われるのが嫌で自分で商売を営む志があって時代の流れからホームページでも載せてみたい、でもお金はかけたくないって方等が対象です。

まずは、基本的な環境2点です。

1、ネットに繋がっているパソコン一台。

スマホやタブレットでも可能でしょうが、入力やコピ&ペーストやダウンロード、アップロードが厄介です。

2、どこかにサーバーを確保。

これは無料でも構わないですが、出来ればレンタルを借りる方がより良いでしょう。(一月に数百円程度です。)無料だと制限される機能もけっこうありほんとに不便です。(実は僕も最初は無料のサーバーで賄うように考えてましたが、ホームページの問い合わせ項目に入力すれば直接指定のメールアドレスに届くシステム(専門用語でCGIと言うらしいです。)が使えなかったので有料に変更しました。)

2のサーバー確保はホームページの原稿が出来てからで、遅くありません。慌てなくても2のサーバー確保は時間をかけてじっくり選びましょう。ということでホームページ作成へ急ぎましょう。


基本(とりあえず1のネットにつながったパソコン)がそろえば次から作業に入ります。

サーバーにファイルを格納する(アップロード)の方法は後で述べますのでひとまず置いとくとします。

原稿が無ければ話になりませんから、今回は原稿すなわちホームページ作成の方法から話していきます。


まずはホームページ作成の手順


1.ホームページ作成ツールをネットからダウンロード。

Windows付属のメモ帳は絶対に使用しないで下さい。(僕は最初これを使って文字化けを起こしてしまいその対応に10日程取られてしまいました。)たくさんありますが、僕のお勧めはMicrosoft Expression Web 4 です。項目によって文字色が異なり、文法チェックもできます。ここでのツール選びが一番重要です。作成ツールの良し悪しで作業効率に大きな違いが出てきます。参考までにリンクを貼っておきます。http://algorhythnn.jp/blg/2014/04/11/expression_web_4-install/

ページの真ん中あたりにMicrosoft Expression Web 4のダウンロードの項目からダウンロードして、インストールして準備完了です。以下のリンクから取り寄せて下さい。

Microsoft Expression Web 4のダウンロード

Microsoft Expression Web 4のダウンロードはMicrosoftのサイトからダウンロードできます。
マイクロソフト公式ダウンロード センターから Microsoft Expression Web 4 試用版 をダウンロード

01_expression_web_4サイト

expression_web_4サイト

ダウンロードが完了すると、[WebStudio_Trial_ja.exe]ファイルがダウンロードされます。
WebStudio_Trial_ja.exeを実行しインストールを開始します。


これでホームページが割と簡単に作成できます。

作成する前に、ここで注意点を挙げておきます。

  1. ページが5ページ以上ならスタイルシートを使用しよう。
  2. ファイルの種類ごとにフォルダを作成しよう。
  3. 書き始める前に少しの基本の知識は勉強しておこう。
  4. あらかじめデザインを決めておこう。
  5. 大まかな配置も決めておこう。
  6. 背景画像やボタン類などはフリー素材などネットから前持って手に入れておこう。
  7. ノートを一冊用意しておき2~5までは前もってノートで下書きしておこう。 ちょっとした知識やルールも専用ノートに書き留めておこう。

ここで上の項目を少し説明していきます。まずは1番スタイルシートから、


スタイルシートとは? レイアウトとは?


スタイルシートとはファイル名の最後に付く(ドットの後ろに付く拡張子の事ですが)拡張子がcssで終わっているファイルの事です。sample.css 等

そのファイルの役割はウエブページのデザイン(レイアウト)を決める事です。それにはウエブページは大きく分けて、

1、ヘッダー、

2、メニュー、

3、左メニュー、

4、右メニュー、

5、コンテンツ、

6、フッター、

の6個の項目に大きく分類する事が出来ます。ここでそれらひとつひとつの項目の幅、高さ、背景色、文字色、フォント形式などを決める必要があります。スタイルシートを使えば割と簡単に設定する事ができます。そしてページをたくさん作る時、各ページが同じデザイン、同じレイアウトの方がすっきりして見やすいのです。しかも使い勝手が良いのです。加えて作りやすくて編集もしやすいのです。スタイルシートファイルひとつを変更するだけで各ページをひとつひとつ変更する必要が無く変更できるのです。

項目のレイアウトは概ね上図のようになります。

メニューは左右どちらでも可能ですし、左右両方置くことも可能です。その場合当然コンテンツの幅が制約を受けて狭くなります。ここで各項目の記述内容を記載しておきます。

  • ヘッダー:当サイトのタイトルロゴとその簡単な案内です。
  • メニュー:各ページコンテンツの内部リンク、最も注目してほしい内容へのリンク
  • コンテンツ:本文
  • フッター:サイトの紹介文、各ページへの相互リンク(よくある質問、お問合せ等)

様々なホームページに訪問してみて確認するのも勉強になって楽しいものです。

これは概ねの傾向ですので、どのように何を書いても自由なのです。


次は2番です。まずは○○のホームページとでも名前を付けてフォルダーをひとつ作りましょう。そのフォルダーに作成したファイルを格納していくのです。さらにそのフォルダーの下層にスタイルシートのファイル(拡張子css)だけを格納するフォルダーを作成します。名前はcssで良いでしょう。さらに画像ファイルだけを格納するフォルダーも作成します。名前はimagesでも何でも良いでしょう。画像ファイルは基本的には拡張子がjpg、gif、png、bmpの4種類のファイルです。これらのファイルはひとつのフォルダにまとめて格納しておきましょう。

またファイル名は出来るだけ簡潔に短くリネームしておきましょう。通し番号をファイル名の最初か最後に付けておくと管理が楽です。例えば、001_button.gif や button001.jpg 等としましょう。

  • ホームページ
    • css
    • images
    • content001
    • content002
    • 等など
    • index.html

上のような形でフォルダを作りファイルの種類ごとやコンテンツの種類ごとにまとめていきましょう。ホームページフォルダの下層にはフォルダの他にホームページのトップページである、index.htmlファイルも格納するようにしましょう。


次3番です。ホームページ作成のため少しの知識を覚えておきましょう。

  • ウエブページの作成にはhtml(hyper text markup languageの略称)が使用言語です。と言っても特別な文字を使う訳ではありません。キーボード上にある文字ならどれでも使用できます。ただし、意図する内容をネット上に表示するためにはルールに従わないといけません。ここで簡単に知っておくべきルールを記しておきます。
  • HTMLファイルの作り方ですが、「.html」という拡張子をつけることで、HTMLファイルであることをコンピュータが認識してくれます。(例 index.html)

1、必ず次のようなタグではさんでいきます。

<○○>ここに表示させたい文字や画像を入れます。</○○>

<○○>を開始タグと言い</○○>を終了タグと言います。

通常は<○○></○○>のセットで使用します。○○には共通するコマンドが入るます。例えば、

見出しの文字を書くときは、<h3>ホームページ</h3>を使います。hの後の数字で文字の大きさが決まります。

ここで忘れてはならない事は、タグは半角で書くことです。

半角です。全角で書かないように。

大きい順にh1、h2、h3、h4、h5、h6、となります。

<h1>ホームページ</h1>

<h2>ホームページ</h2>

<h3>ホームページ</h3>

<h4>ホームページ</h4>

ウエブ上では次のように表示されます。

ホームページ

ホームページ

ホームページ

ホームページ

となります。

もし全角で書くとタグのコマンドは無視されて以下のようにウエブでは表示されてしまいます。
<h5>ホームページ</h5>


ここで代表的なタグを表しておきます。

  • <p>一つの段落です</p>
  • <br>これは改行を表します。

このコマンド改行は終了タグの</br>は必要ありません。したがって改行したい文章の最後に入れます。すると次の段が改行されて新しい段の最初から表示されます。例えば、

ホームページでした。<br>次はメニューです。

の場合以下のようになります。

ホームページでした。
次はメニューです。

またこれは、<p></p>で代替可能です。

<p>ホームページでした。</p>次はメニューです。

ホームページでした。

次はメニューです。

のようになります。

<br>との少しの違いが判るでしょう。<br>の場合は詰んだ改行ですが、<p></p>の場合は少し間隔の空いた改行になり長文の場合、少し読みやすくなります。使い分けて下さい。


htmlは大きく分けて二つに分けれます。

  1. ヘッド:head
  2. ボディー:body

ヘッドの中にはタイトルのタグを入れます。そのファイルのタイトルを表します。ウエブ上のタブの部分に表示されます。

<head>では、<title>がタブに表示されます。

<body>の中身はそのままタグに従ってブラウザに表示されます。

上図は少し見えにくいでしょうが、赤囲みの部分は<head>の記述で上の部分がタブの部分です。また青囲みの部分は<body>内の記述で右の部分の青の囲みのような表示です。

<html>

<head>

<title>○○のホームページ</title>

</head>

<body>

<h2>htmlの書き方</h2>

<p>はじめてのhtml</p>

</body>

</html>

のような記述になります。


一日では書ききれないので今日はこれくらいしておきます。

続きはまた明日、ではまた、近藤浩二でした。


 

対人関係に疲れた時の対処法

今日はまず初めに報告があります。

僕はなんて意志薄弱な人間なんだ。簡単な誘惑に負けてしまいまました。自己嫌悪に陥りそうです。

三日前から続いていたテレビを点けないという状態が本日で止まっちゃいました。最低でも一週間は続くと思っていましたが。

しかも二日間点けなかったので、今日三日目になんと三日分まとめて、視てしまいました。

人間は本当に誘惑に弱いですね。あの有名な偉人でさえも、

一人の女性によって人生が終わってしまいましたから。気をつけたいものです。


テレビをよく観てた時期アナザースカイて番組好きでした。

アナザーていう事ですからもうひとりの自分です。普段周りの人に見せてる自分とまったく違ってるもう一人の自分。

たぶんそっちが本当(素)の自分なのでしょう。普段周りに見せている姿は本当の自分じゃない場合って多くないですか。

でも、どんな人であって人に合わせて意識的、無意識的はともかくとして、少なからず自分を作ることってあると思います。また、そうして自分を作ることが本当の自分で、作らない自分は偽の自分って人も居てるでしょう。

周りの人に合わせて作りだしてる偽の自分。しかもかなり無理して作り上げてる人も居るでしょう。しかもそのような人が仕事人間だったら大変でしょう。へたをすれば人生の半分が偽の自分で生きている事になりますよね。

これじゃ気の休まる時間はほとんど無いでしょう。

もしそんな自分を作り続けていたら必ず何処かに支障をきたすのは時間の問題でしょう。僕はそのような人を何人か見てきました。本人には自覚がなく条件反射的に脳が指令を出しているみたいです。このような人達に共通する傾向があるようです。

1、何事に対しても真面目であるのです。

2、どちらかといえば、口数が少ない。

3、特にこれと言って人に自慢できる余暇の過ごし方が無い。趣味が特に無い。

4、気のおけない仲間が少ない。

5、どちらかと言えば仕事人間であるのです。

6、笑顔が少なく、笑うことがあまり無く、表情が豊かでない。

あれ、これって自分自身にも当てはまるかもしれないって思っているあなた(実は僕自身もこれに該当しているかもって自分で特徴上げているのにもかかわらずドキッとしたのでした。)


すいません。

本当にごめんなさい。

申訳ありません。

アナザースカイってもう一人の自分じゃないですね。自分自身にとって今居る場所以外の、もうひとつの居場所のことですね。間違えてしまいました。ここまで読んでくれた人はその番組の事を知らないのか、それとも本当に優しい人なんですね。

もうひとつの自分の居場所で自分を取り戻そう。って事なのかな

これも間違いのような気がしてきました。

教訓です。自分のよく知らない事は語らない方が良いですね。


もし仮に今の自分が疲弊してしまったとしたら、精神も身体の両方を癒してくれるそんな場所を見つけてみましょう。

あなたにもきっとありますよ。探してみましょう。って提案しているのでしょうね。

これも違っているのかも。


今日のテーマがよく見えてこないぞ。でも今思った事を書きますね。


確かにどんなに社交的で魅力的な人であっても、苦手な人やあまり好きでない人は必ず一人は存在するでしょう。そのような時には人間は必ず自分を守ろうとして軽い拒否反応を起こすはずです。

しかしながら、そのような人とも付き合わなければならないとしたら、

好むと好まざるとに関わらず違う自分を作ってその場を乗り切ろうとするはずです。


なにも本来でないもうひとつの別の人格を作ることが悪いことで本当(素)の自分のままで居続ける事が善(正義)と言っているわけではありません。また、そのふたつが全く両極端に位置する存在であるとも思っていません。

どちらであってもそれは自分自身であるのだと僕は思います。

それは、どちらの自分も自分の心が作りだしたものだからです。


人間のの性格なんて生まれついて8割は出来上げっているでしょう。その後の人生で作り変えられる要素なんてほんのわずかでしょう。

ただし、社会的に人と付き合う要素は、言い換えれば人間関係の形成には、性格はあまり関連性が無くて、むしろその人の今まで生きて来た経験や価値観、常識から来る、思考パターンや行動パターンに影響されると考えています。


僕の場合、人間関係は第一印象でほとんど決定します。この人はどちらかと言えば好きで友達になれそう、でもこの人は苦手で好きじゃないって、初対面でほんの一分で決まります。

そして前者の人は不思議と無理をしなくても人間関係が築けます。一緒に居ても楽なんです。

しかし後者の人は無理をするんですね。そしてだめなんです。どんなにしても居心地悪いんです。とってもしんどいし疲れるのです。


そのように疲労困憊した時は(ストレスと感じた時)

1、不思議と食欲が出てよく食べます。

2、よく寝ます。

3、本当に親しい人とよく話します。

4、お気に入りの音楽を聞きます。

5、ドライブに行きます。

6、とにかく、外出します。

7、とっても良くないことで、自己嫌悪になる時がありますが誰かを攻撃するのです。

これらは全て脳内物質の快楽ホルモン(ドーパミン)を分泌させるのです。


ポイントはこのドーパミンを分泌させる行動をすることです。自分の経験でどんな時に快楽を味わえたか考えてみると、誰にも二つや三つはあるはずです。

3、4、6は僕のお勧めです。おそらく、7番が一番効果が高いでしょうが、一緒に話す相手が必要です。そして共通の敵が必要です。しかも話してるうちに自分達が嫌な奴に思えて虚しくなってきます。覚悟のある方どうぞ。


何を言いたかったのか今思えばよく分からなくなりましたが、今日はここまで、ではまた、今度、近藤浩二でした。


 

初めて○○した人ってすごい!

人類の歴史には偉人と呼ばれる人々はたくさん居てますが、それらの人々にも負けず劣らず, 名もなきすごい人達も居ると思います。むしろこちらの人達の方が僕個人では偉いと思います。


例えば、初めて様々な食べ物を見つけだした人。

初めて火を自由にした人。

初めて海に潜った人。

初めて動物を殺して食べた人。

初めて言葉を考えた人。

初めて文字を作った人。

初めて単語を作った人。

等々、初めてシリーズです。


その中でも、僕個人としたら火を自由にした人が一番すごいと思っています。

ここから以下はあくまで僕個人の想像です。

初めて火を見た人は驚愕したであろう。何だろう?っと。

最初は当然人為的以外でしょう。

目にする機会は、自然界での落雷による木々や動植物の燃焼時。

または、火山噴火による噴火物やそれらによる二次火災時ぐらいかな。

ほとんどの物の形を無くして黒こげにしてしまう。これは一体何物なのだろうかと考えたでしょう。

初めは敵と判断して立ち向かっていったでしょう。

そして火傷を負ったりしたでしょう。最悪焼け死ぬ人達も数多くいたでしょう。

結果的に、逃げ迷うだけだったのです。

その中で観察力のある人が気が付くのです。そう火の弱点に。

火は海や川では広がらずなくなってしまうものである事に。

その結果、少しではありましたが、火を抑制することが出来るようになったのです。

その次は火を作りだそうと考えたのです。

体験的に何かが身体にこすれると熱くなり、火傷を負った時と同じ状態になることなどから判断して、ある物と違うある物をこすること数万回、やっと煙が発生するとこまでたどり着きます。

そこからはたまた数万回の試行錯誤でようやく種火になりました。それを樹に広がらせ、消えないように数万本の木に移し替えていったでしょう。しかし不運な事に、雨が降ったり水がかかってしまい火は消えて無くなってしまいます。

そしてまた最初から試行錯誤で数日かけて火を起こします。そしてまた消してしまいます。大変な労力です。嫌になるでしょう。

ここで革新的で器用な人が出てきます。試行錯誤を幾度も繰り返します。火を起こすためだけの道具を発明します。

やっとのことで、火を起こす時間が大幅に短縮されました。

その結果、人々は火を自由に出し入れ出来るようになったのです。しかも火の使用用途の多さに喜んだのでした。

おそらく、火を自由に扱える人達は他の人達を従えるようになったのでしょう。

このように、現代のように情報や知識がほとんどまったく無かった時代に、

経験と思考力と情熱のみで、生きていくためだけの動機付けで、

長い月日をかけて火を自由にした人の偉さと苦労は並大抵ではなかったであろう。

粉骨砕身、悪戦苦闘だったのだろう。火が起こるまでのその人の心の内側は如何ばかりであったろうか?

火が必ず起こる保証はどこにもないのである。

これで最後にしようと何度考えたであろうか。

いつかは必ず火が起こると信じていたのでしょうか?

生きるためとはいえその精神力の強さには脱帽です。

いつの時代であっても、何か新しい物を生み出す人達はひとつの例外もなくそうなのでしょう。


当時の人達は現代の人達よりも精神が強かったのでしょうか?

割合で言えば高いと言えるでしょう。

確かにある程度文明が構築された時代においては、たとえ自分の経験や知識が浅くても先人たちが築いてくれた知識や知恵によって、何かを生み出すことは少しは容易かもしれません。

しかしながらガリレオが地動説を言い続けることや、コロンブスが新大陸を発見したことは、当時としは驚天動地のような驚きだったはずです。


いつの時代においても初めて○○○する人は必ず存在するのです。そしてそのような人達は自分自身のためだけにとどまらず、自分自身でも分からない何か強いものに揺れ動かされているのでしょう。

その上に自分をどこまでも信じ、少しの知恵と強い勇気、大いなる大胆さを持ち合わせた類まれなる人達だったのです。


寒くて起き上がってストーブを点けて、寒さをしのぎながら燃える炎を見て便利な時代の中で生きていけることの幸せを感じながら、今朝考えた事柄でした。


今朝からもテレビは見てません。その調子で頑張ろう。

ではまた明日、近藤浩二でした。


 

 

テレビを視ない恩恵を得ましょう

これは物心ついて初めての体験でしょう。

今日は朝起きてから一度もテレビを点けていません。

僕に限らず同居人もテレビを点けません。

間違いなくこれは生まれて初めての体験です。

悪い習慣から少し脱出しそうです。


居間の部屋でパソコンを前にしています。本当に静かです。

聞こえてくるのは、時たま家の前の交通量の多い道路から聞こえてくる、車の走るサーと言う雑音だけです。

時間の流れが普段よりかなり遅く感じます。

しかも自由な時間が一杯あるようです。

わずかですが幸福感を感じます。なんだか少し得した気分です。

そして何かしていないと落ち着かないのです。

学習塾のために英語のライティングの勉強始めました。

他人のブログを100以上速読しました。

またブログを久々に続けてみようと思いました。

文章を書くという作業が自分にとってどのような意味を持っているのか改めて考えなおすためです。

1、文章を書くことが楽しんでできているのか、それとも嫌々でしているのか。

2、文章を書くことが自分は、どちらかと言えば、好きな事なのか、それとも嫌いな事なのか?

もしふたつの質問において、どちらも後者ならばブログは続けても仕方ないでしょう。仮に前者に近いならばこれから先もずっと続けていこう。これを自分に問いかけてみようと思ったのです。


結論を書きます。テレビを視なくてよかった事。

1、時間が長く感じる。

2、自由な時間がかなり増える。

3、少し幸福感を味わえる。

4、読書の時間が増える。

5、静かな空間で物事を考える事が出来る。

6、電気料金が安くなる。

7、時間に縛られない。

8、相手をさえぎって話をしなくてすむ。

9、仕事に集中できる。

10、就寝時間が早くなる。

11、朝が早くなる。

12、寝床に入ってあれこれと考える事が少なくなる。

13、寝付きが良くなる。

14、食事に集中できる。

15、消化に良い。

16、目が光の刺激を受けなくてすむ。

17、不必要な情報が入って来ないので欲しいものが抑えられます。

18、そのため出費が減ります。


等々です。

今までの人生、なんともったいない事をしていたのか、考えさせられました。ちなみにテレビを視ないと家族との会話が増えると思ってる人がいるでしょうが、それは幻想です。まったく増えません。我が家では以前と同じでまったく変わりません。

いつまで続くか分かりませんが、ぜひ視たい番組まで続けてみます。

このようにして少しづつでも、悪い習慣を絶ってみたいと思います。ではまた、近藤浩二でした。


 

 

 

今の教育ってホントに正解?

先日塾で入試を控えた中学3年生に対して、英語の単語復習の勉強をしていました。

「バラは英語で?」「?????」「ユリは?」「????」「いとこは?」「????全部習ってません。」

実際には地域によって教科書が違っているために習う単語が異なっているだけの事らしいのですが。


僕は何気に「ゆとり世代か、、、、」とつぶやいてしまいました。悪気などまったく無かったのですが、その場に居た生徒全員の反感をかったようでした。

「先生、それって差別。学校の先生も何かって言うとすぐに、ゆとり世代だからって、それって卑怯です。」「私達がゆとり教育望んだわけじゃありません。今の大人が勝手に決めたことでしょう。それを無理やり押し付けといて、都合の悪い時には、ゆとり世代がってすぐ言うのよね。これっておかしくないですか?」

その時僕も彼らの言い分も理があると思ったから無理に言い返そうとはしませんでした。そして少し勉強を置いて一緒にそれについて考えてみることにしました。

まず、我々が学生の頃は一日6、7時間授業は当たり前、しかも土曜日も午前中は授業がありました。学習塾自体がほとんどなく通ってる生徒もほとんど居なかったと思います。それでもほとんどの生徒が希望する高校へ進学できていました。

当時は中学校の時に、すでに自分の事に関して、勉強に向いている向いていないを本人だけでなくや家族、先生達も判断されていたのかもと思います。しかもそれについて何の疑問も抱かず人生を送っています。


「私、数学、科学は大嫌い。高校入ったら数学と科学は勉強なんか絶対しないの、計算式出てくるから。でも進学高校は行くの。私の知り合いがみんなそこの高校の卒業生だから。入るのだけが目的。そこの高校の制服着てないと周りの人にバカに思われるから。」と、ある女子生徒が言っていました。私は少し悲しくなりました。

物事に対する疑問符を持たず、学問に対しての好奇心もない彼女に、進学校に進む正当な理由など見当たりません。世間に対する見栄と体裁だけが彼女が勉強をする動機なのです。


また別の女子生徒は「先生私は***大学に絶対入るの。そして大学生で歌手になって有名になるのが夢」「先生なれますよね?」「私頑張るから」

僕は無責任にも「うん、+++ちゃんなら、大丈夫と思うよ。」

これって嘘ですよね。いくら頑張ったからといって夢が絶対に叶う確証はありません。努力は頻繁に嘘をつくのです。

まず目指す大学に入れるかどうかですが。頑張っても入れるとは限りません。その理由は大学には定員があるためです。成績上位数パーセントの人間しか入れません。

次に歌手になりたい夢ですが、これは努力の要素はほんのわずかです。

生まれついての才能のある者には残念ながら勝てません。

また別の理由として、歌手になれるかどうかは宝くじに当たるかどうかと同じような問題で運だけの要素が運命を左右させ、努力にはほとんど関連性はないからです。お金や権力があればそこそこ実現は可能でしょうが。しかしそれは本人の望む物とは違うでしょうけど。

悲しい現実として、現実社会の、物事のほとんどの実現性は努力で可能性を高めることは簡単には出来ないのです。

とどのつまり努力だけでは才能や強運には到底かなわないのです。


話を戻します。ゆとり教育の前は詰め込み教育と言われています。

今までの歴史で人々が積み重ねて来た知識だけが、さも絶対の常識であるかのように一方的に半ば強制的に記憶させられました。その結果ここ日本において我々はその知識を疑うということを知らず、新しい発見や発明への扉を閉ざすという弊害を生んだのです。有識者と言われる人達の一部の見解です。

そこでこの閉塞感のある教育を打破しようとしてゆとり教育、おそらく時間にゆとりを持たせて自分で考える力をつけさせようとしたのでしょうが、机上の空論です。

一方で社会は相変わらず学歴重視です。

しかも教壇に立つ先生が詰め込み教育の申し子です。

教科書の内容と授業時間を少し削り、教育の理念を打ち出さないままでは変わりようがありません。

そしてゆとり教育にも限界を感じ、最近また詰め込み教育のような時間割に変えようとしています。


日本で最も賢いと考えられる人達のある集団が、高いお金と時間をかけて熟慮しているから、

完璧でなくてもそれなりの良くできた教育プログラムを考えてくれることを期待して待つことにしよう。

我々にできることは知識を絶対の常識として押し付けるのではなく、

子供たちの疑問や好奇心にひとつの考え方を提案してやるだけで良いのでしょう。そこから先は自分で悩み考え、自由に自分の進む道を選択していくでしょう。我々はそれを応援してやるだけで良いのでしょう。そう学問とは読んで字のごとく、問うて、学ぶ物だからです。

それの繰り返しがその子の、将来進みたい道を決定していくのでしょう。

ひとつの教科、しかもわずかの内容だけでその教科の向き不向きは決めれません。しかし学校ではテストが良くなければ、その子はこの教科に向いてないと判断を下し、しかも本人もそれを納得してしまいます。嫌いな教科を作ってしまいます。

これでは可能性の芽を摘んでしまいます。まだ時間がかかるかもしれないけれど、栄養が十分行き渡っていない上につぼみにもなっていない小枝を折ってしまうようなものです。もしかすればどの木々よりも一番大きく綺麗な花を咲かせるかもしれないのに。

弊塾に来てくれた子供たちには時間の許される範囲で学問に興味を持ってもらえるように、好奇心を育んでいこうと考えています。


しかし今の社会の常識が破壊され、まったく新しい社会の常識が出現し国民の大多数の考えや常識が変化しない限り、ほとんど記憶力だけが優れた生徒を優秀な生徒とする現行の教育では生徒(人間)の評価の視点は大きく変わらないのでしょう。残念です。


 

人間にもし寿命が分かったならば

久しぶりに外出から家に帰って何気にテレビを点けたら、今週の映画ランキングが発表されていて一位は相変わらず、「君の名は」でした。そして第二位は初登場で「本能寺の恋」少し映画の紹介があった。「本能寺の変」ではありません。


みなさんご存知のように「本能寺の変」は日本史上の歴史で未だに謎とされている事件で天下統一を目の前にしてた織田信長が光秀に討ち取られる「本能寺の変」に関する映画。

事件の前日に現代の女の子がタイムスリップして信長に出会う話。「変」とよく似た漢字の「恋」。

「本能寺の恋」は学生の珍迷回答の代表のような題名でもあろう。歴史に「もしも」は禁句だが、僕はまだこの映画を観ていないのでストーリーはよく知らないが、あえてドラマのために、信長の運命を知っている現代の女の子が信長に恋に落ち信長を救って歴史を変えてしまう話であろうことは想像に難くない。

しかし歴史ドラマではなくラブストーリーのようだ。

その後テレビを消してパソコンを起動させてユーチューブを見てると、あるお笑い芸人が「人間はなんのために生まれて来たのか?」もう一人が答える「納税するためですよ」。言い得て妙である。


人間は間違いなく社会性を持った動物である。社会とつながっていない人間はひとりも存在しないはずである。

そして社会を構成するのは人間本人であって、一人ひとりはその社会を構成する一つのピースに過ぎないということなのである。

その現実をシニカルに皮肉的に表現し笑いを誘っているのだ。


人間は誰しも必ず使命を持って生まれてくるものだと言い切る人もいる。僕は決してそうは思わない。人類は誕生して数百万年もの間、生き続けて種を保存するためだけに生活していたであろう。そんな状況では使命は種の保存の、本能でしかなかろう。

その後人間は現在までおそらく何度かDNAが書き換えられ脳が発達していった。そして人間は知恵を持ち始め集団で生活するようになる。その後社会が形成され、安全な生活や安定した食事の供給が保証される。

衣食住が足りた社会生活の中で、自我が目覚め始め主観でしか物を見なかった人が客観で物を捉えると言う物の視方が形成されていく。その客観的視点が自分自身以外の物に関心を持たせる。そして相違点の認識をさらに深めていき、自然科学を発展させることになる。自然科学の発展が新大陸の発見等を可能にさせた。これにより文明をさらに発展、発達させ続け、人間の生活はより豊かになっていった。


僕はある一時期、聖書を学ぶ機会があり旧約聖書の創世記を教わったのであるが、アダムとイブは狡猾な蛇にそそのかされ、神様が食べてはならないと言われた知恵の木のリンゴを食べてエデンの園を追放されたが、とすると神様は人間に知恵を持ってほしくなかったのであろうか。そして文明を発展させてほしくなかったのだろうか?人間に豊かになって欲しくなかったのだろうか。腑に落ちない疑問が頭に沸き起こる。


話を戻そう。「本能寺の恋」の話で信長が自分の運命を知りえたとするなら、信長が自分の死期を認識して、その後の人生をそれを回避するように生き方を変えたとすれば、それはもはや我々の知っている魔王信長ではなくなる。

いつ死んでしまうか誰も予測できない戦国乱世だからこそ、一瞬一瞬をいつ死んでも悔いが無いような気持ちで生き抜いてきた信長だからこそ、当時としてはあれほどの偉大な破格な事業を成しえたと思えるのだ。


現在社会は、けっこうなことに平和社会で、予期せぬ戦争が起こったり、事故による突然死はほとんどやって来ない。しかも豊かな社会のため、明日の食事に困ることもほとんど考えられない。

幸か不幸か、一部の現代人には死ぬほどの気持ちで何かに取り組み頑張る必然性が全くなく、自分自身の持っている可能性をほとんど発揮することなく残念なことに無駄に年を取っていき死期に近づいていくように思えてならない。


もし仮にあるときに事故や病気による死も寿命と考え、なにものかに自分の死期寿命を知らされたとするなら、しかもその情報に信憑性があったならば、その人の生き方はその一瞬から、180度変えられる可能性がある。


それは一日前か三日前か一週間前かひと月前か一年前か三年前かによっても、事故か事件か病気かによっても、対応は変わってくるだろう。

しかしながら、自分の死期を知ることで覚悟を決めることが出来るだろう。腹が座ることが出来るのだろう。不思議と前向きに生きることが出来ようになるかもしれない。

人間200年生きることは不可能なことも分かっている。100年生きることも困難で稀であることも理解している。しかし年を重ねても、毎日を死んだ気持ちで生き抜く気概を持つことの出来ない人間の弱さを痛感させられる毎日である。


自分の死期がある程度具体的に認識出来るようになると必ず生き方が変わるはずだ。

嫌な会社や仕事にしがみつく理由がなくなるだろう。すると他人の目を気にすることもなく、自由で自分らしい人生を送るようになる。結局残された時間を有意義に過ごすことができるようになる。

目的が入れ替わる

年が変わってブログを書こうと思いパソコンに向かってあれこれいろんなことに想いを巡らせていました。

しかし正月でアルコールが入り睡魔のせいか、気分が乗らず筆が進みません。頭の中に想い浮かんだテーマを考えましたが考えがまとまらない。投稿の締め切りには時間が一時間程で日付が変わる。考えがまとまらない上に筆が進まない。


新年が初めってそうそうブログをスタートしないのは気分が良くないと思ってました。そこでその一日の出来事を箇条書きに書くだけにしようかなとも考えました。まるで小学生の日記みたいになるかもと思っていました。でも自分自身が認めることが出来ません。それで後から編集することにしてとりあえず投稿だけしました。

昨日と今日はその投稿の編集をする前に考えがまとまらず途中の話のまま投稿したことを考えました。


それで気が付いたのです。僕はブログを書くことだけが目的になっていたことに思いあったのです。本当はブログを書いたその先に目的があるのにもです。


誰にでもよくある話ですが、ある目的である行動を行っている間に目的が変わってしまうことってよくあります。

学生時代要点の整理と全体の流れを把握するため、ノートと教科書の二つを読み返して別のノートに数種類に色のマーカーや下線を引いたりカッコで囲んだりとカラフルにいっぱい時間かけてまとめ上げて整理ノートと作り上げました。これで今度のテスト対策はバッチリって思ってました。でも不思議な事にあんなに時間をかけたにも関わらず、テスト結果が伸びない時が多々ありました。

しっかり覚えて自分のものにすることが目的であるのに、ノートに綺麗にまとめ書きをすることで満足していたんです。こういうこっとって誰でも経験したこっとってあると思います。

本来の目的が作業の途中で別な物に入れ替わっているんです。僕は、年末部屋の掃除をしようとしました。数年前の懐かしい写真の束を見つけました。一枚二枚と見ていくうちに懐かしくなって椅子に掛け直して結局最後まで全部見ました。みなさんその後僕何をやったと思います。片付けするのをほっといて写真を探し始めたのです。

掃除して片付けするのが最初の目的だったのです。でもその途中でまったく別の目的に変わりました。そのことにまったく気が付かず時間だけが経過して結局初めの目的は達成されることなく次の目的、次の目的へとどんどん変わっていきました。そして時間だけが過ぎてしまい一日が終わったのでした。


今回ブログを書くにあたり自分なりに目的があったのです。しかし続けていくうちに、内容はともかく書いて一日に一回投稿するということが目的なってしまっていました。じっくり時間をかけて考えなくて投稿することがほとんどなのです。スピードが求められる上に、早いレスポンスが可能になったため仕方のないことなのでしょうが、投稿したい内容によっては毎日投稿可能なテーマと、何日間時間をじっくりかけて洗練すべきテーマがあるはずと考え直しました。しかも毎日考える事は時間の経過とともに変わり続けるのです。


今日はブログが途中で終わってしまったことで改めて考えたことを書いてみました。。人間の目的は行動の最中でさまざまに変化していくということ。そしてそれは誰しも当たり前であるということです。


 

覇者とは?覇者と王者の違いは?

覇者と王者とではどちらが上なのでしょうか?どちらが偉いのでしょうか?


「覇者」とは何でしょうか?

その語源は中国の春秋時代(紀元前1世紀頃)までさかのぼります。「覇」を得たものの総称、武力でもって信を得た者を「覇者」と呼びます。「覇」とは武力、力、権力によって治める事です。

今の言葉で言うとチャンピオンとでも言えるでしょう。


武力でもって一番(上に付いた者)になった者を「覇者」と呼ぶのに対して、徳で持って一番(上に付いた者)になった者を「王者」と呼びます。


もう一度「覇者」と「王者」とではどちらが偉いのでしょう?

「覇者」と「王者」が一致する時もあるでしょう。

意味に従うならならば「覇者」と「王者」の問題は「武力」と「徳」の問題に置き換えることが出来るでしょう。では「武力」と「徳」とではどちらが上でしょうか?それは一概では判断出来ないのです。

と言うのは、人や社会や時代によって評価が分かれるところでしょう。

有無を言わせず一番を決めるには動物の場合、力比べをすれば白黒はっきりついて誰の目にも明らかでしょう。

一方「徳」の場合、その定義は多様なため、比較の判断基準が困難です。そのためどちらが優れているのかそんなに簡単に判断できないでしょう。

当人同士の問題ではなく、第3者の判断に任せないと結論が出ないことになります。時間がかかってしまいます。

言い換えれば力比べをして優劣を決めるのか、力比べをしないで優劣を決めてしまうのかと言う問題になります。単純に言えば戦って生き残った者が「覇者」になるのです。「王者」になるのは戦わなくともなれるのです。しかし特別な何かを持っていなくてはならないのです。それが「徳」と言われるものなのです。


歴史を見ると古代から近代までは戦いで正義を決定させていました。意見が衝突すれば力でもって相手を制圧すれば簡単ですから。

そうすると現在の世界の趨勢は「力」による「覇者」を「王者」よりも上、偉いと捉えることになります。

しかしながら、ここ日本では「王者」が「覇者」よりも偉いとされるでしょう。でも日本以外の殆どの国では「王者」よりも「覇者」のほうが偉いとされるのです。

昔から現在に至るまでここ日本に関しては「力」を持っている者よりも「徳」を持っている者が上で偉いと捉えるでしょう。

ご存知のように、武士の台頭で、徳川家は家康により関ケ原の戦い等の武力によって天下を統一し日本史史上最後の「覇者」となりました。

しかし家康自身が、中国の歴史に精通してましたから、「覇者」より「王者」のほうが偉いと認識していたため、自分の名前を松平から徳川に変えました。

しかしその事を理解していた、薩長土肥の新政府軍に倒幕され明治維新を迎えたのでした。その時に「王者」と尊王されたのは、神代の昔から脈々と生き続いている「天皇」家だったのでした。薩長が錦の御旗を掲げた時点で趨勢は決していたのです。


人類が誕生してから今日まで「力」のある者が時代を作ってきました。そしてあらゆる分野においても「力」の強い者を称賛してきました。

しかし今現在、人類は文明や自然、人間同士の無駄な破壊行為である、世界を二分するまでの戦争の無益さを悟り「力」と「力」の争いを回避する方法を常に今もって模索し続けています。


僕としても、人間はスポーツの分野以外では、「力」と「力」による争いを無くしてほしいものです。

それを「力」ではなくこの日本で言う「徳」と呼ばれるような何かで解決してほしいものです。

と考えると、この世界において、日本における「天皇」のような「徳」をもつ者が存在すれば良いということです。

今現在世界いおいて、日本における「天皇」のような存在、この何か特別な何かで、何者もひれ伏す「権威」を持つ何かの出現を一日も早く待ち望みたいと思います。


今日は12月31日、大晦日です。

今年のブログも最後になりました。来年も出来得る限り更新させていただきます。よろしくお願いいたします。みなさん良いお年を


 

まだ見ぬ世界を見るために

「@@@さんてすごい人よね。尊敬してます。」

<@@@さん、私信じられないけど、+++++だと思う。>

「でも++さんて最近****でしょう。ちょっと変じゃない」

(<<は>>で@@よね、変わってるわ。)

(****ってすごく楽しい。面白い。)

<@@は++っていわれてるでしょう。今ネットですごい話題でしょう>

「私はもういいです。だって@@@は++++だから」

(<<<|>>の話はもう結構です。しませんから、面倒やし。)

<今忙しくて時間無いから。****はもう少し時間経ってから聞くわ>

「まだ@@@やっているのか?+++++++はやめなさい」

この数週間、身近な人の言動を目や耳にする度、人の考え方、物の見方、人や物に対する接し方の大きな違いを感じています。

そして当然それによってその後、人の行動力、行動範囲、行動の自由度に大きな影響を及ぼします。

同じ人、同じ物に対してなのに、人によって、どうしてこんなにも考え方や見方が、大きく食い違うものなのかと痛感しています。

今日はその辺のことについて僕なりの考え方、物の見方で、考えてみたいと思います。


以上のような会話は全て「偏見」と言う言葉で括られるでしょう。「偏見」とは偏った物の見方や考え方。しかも全て非好意的


これってどこから来るものなのでしょうか?

例えば好きな芸能人と嫌いな芸能人のランキングには不思議と必ず同じ名前の人が上位にランクインします。

これはあるひとつの表情に対して個人によって違った解釈をするからでしょう。ただ単に好みの問題でもあります。

よく話す人を(うるさい)と非好意的にとらえる人もいれば(明るくて楽しい人)と好意的にとらえる人もいるようにです。ただ見た目(イメージ)だけで判断する場合もあるでしょう。

見た目すごく可愛らしくて優しそうで女性らしそうな方なのに、実際話して付き合ったら、下品でケチで酷い人も居ます。

すごく裏切られた気分になり落ち込む時があります。


もうひとつ違った例を見てみましょう。

テレビで見たり、ただなんとなくやっている人を見てるだけだと、テニスやスキーなんてとっても簡単なスポーツで直ぐに上手くなると思っていました。でも実際やってみると、なかなか上手くできず奥が深いなと思ったりします。あれ、思っていたのと、考えていたのと、実際やってみるのとでは、全く違ってるじゃないか。って思う時あります。

政治家なんて自分勝手でお高いと思ってましたのに、実際会って話をしてみると、気さくで楽しくて面白い人だったりする人もいてます。あれ、思っていたのと実際とでは異なってる人もいます。中には印象で思ってたままの人もいますが。

慎重で真面目だと思っていた人が車の運転をすると、無謀で粗く法律すれすれでヒヤヒヤさせられたり。本当の姿はどっちなのって分からなくなる時もあります。

気が弱くて頼りなくて何も出来ないと思っていた人なのに、現実には、気丈で色々な事が出来て頼りになる人もいます。まったくその反対の人もいますが。良い意味で裏切られた時です。

人を集めてイベントを開催する人は「これだけ儲かる」とお金儲けだけが目的と思ってる人って多くないですか。でも実際に当事者と親しくなり実態が分かってくると開催目的は「この講演会に来てくれた人達の考え方や知識のために」だけだったりするんです、お金は二の次だったなんてことも経験しました。しかも身銭を切ってまで開催する人もいたりとかしてました。その逆の人も居たりしますから訳分からなくなってきました。

これらは初めに思い抱いていたイメージや知識と、現実に体験した後のイメージや知識とで、大きな食い違いを感じることが少なくないことのほんの数例です。


人間って自分自身の今までの経験や知識と、テレビや雑誌やうわさ話などの不確かな情報(新聞で信じて良いのは、日付だけ。某有名(?)作家の口癖)だけで、人や物を自分勝手に判断してしまいがちです。でもこれって仕方のないことなのです。

これは自分自身でその人やその物を「よーく知っている」と勝手に思い込んでいるだけなのです。しかもその人やその物は「なんかこーんな感じ」と大雑把に考えているだけのときがほとんどでしょう。

おそらく思い込んでいる人に、ではその人やその物は何か詳しく教えて下さい。と聞き返してもよく知らないはずです。実際に聴き返した時には、言い訳みたいに、根拠等どこにもないのに、自分はそれを知っておく必要もないし。知る必要もないからと開き直る人が居ます。実際に知らないから仕方ないことなのです。

多くの人たちは「よーくは知らない」、けれども「間接的に噂話やメディアで何かを知っている」だけなのです。

しかもその何かが、その人やその物の本質や真の姿では無い上に特殊で特別で普通でない部分、しかも大きく的外れの部分で、本質や真の部分とは程遠い、細かいどうでもいいような事柄であることがほとんどなのです。悪意に満ちた何かの場合がほとんどです。

良くも悪しくも、その人やその物をほんの少し「間接的に何かを知っている」場合にこれらは形成されます。


そしてそれは特殊な部分で、そのひとやその物の普通でない部分であるがゆえに、より大きくクローズアップされます。そしてそれらの殆どが非好意的で攻撃的なのだす。

ここで特殊で特別な部分(普通でない部分)でない部分、つまり普通な部分がその人やその物の本質であったり真の姿であったり実態であることが数多くあります。

しかも「間接的に知った」情報では、普通の部分は意図的に削ぎ落とされています。

「間接的にしか、その人やその物を知らない」から、それらの特殊な部分だけをまとめあげた情報が、その人やその物の本質や真の姿や実態を捉えきれないまま、

真核からずれてしまって特殊な部分や偏った部分だけがその人やその物の本質や真の姿、実態の普通の部分(全体像)と思い込んでしまうのでしょう。

しかしそれは人が愚かで悪い人だからではなく「間接的に知っている」情報が本筋から大きくそれていて、しかも偏っている情報でしかないので、偏見になるのは必然なのでしょう。

情報全てを冷静に判断しても、情報自体がずれてしまっているから偏るのは仕方ないでしょう。だからこれらを悪と決め付けられません。


まさに、木を見て森を見ず、です。物事や人間には多様性があるってことや、また氷山の一角、のように見えてない部分にこそ本質が隠されていることの方が多いことを認識や意識することが重要なのでしょう。

また自分自身の自分は何でもよく知っているというおごりを失くすことも大切でしょう。

また人間の知識量には限界があるということもしっかり知っておきましょう。今自分は偏見を持っているかもしれないと自覚しておくことも大切でしょう。

そういう認識や意識が偏見を防ぎ、本質を見失わないで行動の自由度を広げたり、行動力を発揮させたり行動範囲を広げる事にもなるでしょう。

特殊な部分や偏った情報だけでない、その対象物の本質や真の姿やその実態(まだ見たことのない世界)を知ることも出来るかもしれません。

この世界にははまだ見ぬ真実にあふれかえっています。しかも実態のつかめない見えない世界の方が,見えてる世界より数多いのです。

まさに生命の起源は深海であって、しかもその深海の実態は今もって誰も見たことが無く、全てを把握できない世界であるのです。


《追記》

この話自体にも僕のどうにもならない偏見に満ち満ちているかもです。ご了承下さい。自戒してます。


 

健康な身体は健康意識から

 

僕の心の柱のひとつであるエドガーケイシーのリーディングのひとつにこんな文章があります。
「心は作り手です。あなたが思い続けることで、あなたが培うことで、あなたは日々に果実をみのらせるのです。」
ここでいう心は意識や意志と言い換えることができるでしょう。
何かに強い意識や意志を向けることで人は考えが変わります。そして行動が変わります。そしてそれを継続するのです。その結果、何事においても良い結果に導かれます。そういうことでしょう。
今日は健康意識を高めることを考えてみようと思います。


現在日本国内において死亡原因の上位はがん、脳卒中、心臓疾患、肺炎、老衰、自殺等です。
この中でがん、肺炎、老衰等においては死は突然やって来なく、少しの猶予が与えられます、しかし一方脳卒中、心臓疾患の一部心筋梗塞は突然死が考えられます。
しかも突然死には血管の状態に起因する病気がほとんどなのです。
病院での精密検査ならともかく一般の個人が識別できる血管の状態は血圧しかありません。


東北のとある町で、希望する家庭に家庭用血圧測定器を配布したそうです。するとその付近の町の中で死の死亡率がトップだったその町が突然最下位になっとそうです。希望する家庭に家庭用血圧計を配布するだけでその町は大きく変わったのです。何が変わったのでしょう。


血圧計の配布を提唱された医師によると、自分自身で血圧を測ることによって健康意識が高まったことが大きな要因に挙げられるそうです。

ただ意識を持つだけでも、意識を変えるだけでも好結果が出るという話でしょうか?当然そんなに簡単な話ではないのです。
もちろん血圧を測定するだけではなく記録もするという二つの行動を同時に起こしたのです。その血圧測定と記録の確認が、健康意識を高めたと言うことなのです。

そして健康意識が高まったからこそさらに行動を継続します。そしてさらに良い結果が出てきます。

良い結果が出ると気を良くしてさらに継続をします。そしてまた自分自身で血圧を測ります。そしてより健康意識が高まります。そのような好循環によるものらしいのです。

この循環の中に「健康意識を高める」のキーワードが何度か出てきますが、この健康意識を高めるということが最も大切なことなのです。

その上で、もし少しでも数値に異常があった場合、直ぐに生活習慣を見直すと言う、そういう意識を持ったことが実際の健康につながった訳なのです。


しかしであります。何かの本で読んだ話ですが、医師によりますと生活習慣が原因で病気になってしまった患者さんであっても、医師が提案される生活習慣の改善を実際の生活に取り入れて、生活習慣を改めて実践する患者さんの割合は、なな、なんと、0パーセントなのだそうです。

つまり、痛みを伴った患者さんであっても、実際に生活習慣の改善を実行に移すような人はひとりも居ないということなのです。禁煙やダイエットの困難さがよく理解できますよね。0パーセントは言い過ぎにしても、殆ど居ないと言うことなのです。

当然誰しも死にたくはありません。不自由なままは嫌ですが、無理をしてまでしたくない出来ないと言うことです。

それほど簡単に今の生活が変えれないのです。誰しも長年続けた生活を変えたくはないのです。たとえ死と隣り合わせであったとしてもです。それは誰にも寿命がわかりませんし、どこにも痛みが無ければ特に無理はしないでしょう。
とするならば、強い意志を持って取り組む以外に方法はないのでしょうか?
それはど強い意志を持ち続けることができる人はまれでしょう。そんな人ばっかりなら世の中みんな自分の想い描く人生を送って不幸な人なんていないでしょう。そうでないのが人間たる所以でしょう。


とするとここで疑問が出てきます。前述の町の場合において数値に異常があった場合、その対象の人々はみんな生活習慣を改善したのでありましょうか?

答えは、な、ななんと、Yesなのです。それはなぜでしょうか?なぜ彼らは出来たのでしょうか?ただ健康意識が高まったからだけなのです。一念岩をも穿つなのです。強い意識を持つと行動を起こさせる何か強い力になるのです。 と言っても行動は直ぐには変えられないでしょう。


ここで少し人間の行動原理について考えてみたいと思います。行動を起こす時にはほとんどの場合、行動の前には意志が働くはずです。

人間、自分自身の行動は自由意志による選択権が与えられているわけでしょうが、意外と予期していない縛りに選択肢が狭められている気がすると少し前のブログに書きましたが、ここで大切なことは、行動の中にも意識的な行動と無意識な行動とに分けられるということです。
例えば、朝起きれば出勤する、毎朝顔を洗うとか、着信が鳴れば電話に出る、玄関のブザーが鳴れば応対するなどは、無意識による行動の最たるものでしょう。反射的に起こす行動もその中に含まれます。
当然状況によってそれが出来ない時も出てきます。しかしそれらはほとんど意識的な意志によるものです。

と考えますと、行動を起こすことは無意識でも行われますが、行動を起こさないという選択は脳に意識的に働かさないと、人は無意識に勝手に行動してしまう事柄が往々にしてよくある、と結論づけられます。


したがって無意識に自分自身に行動を起こさせるように仕向ければ強い意志を持たなくても行動を継続することが出来るかもしれません。

それは言い換えれば行動を習慣化にすると言うことです。もちろん何かの行動を習慣化することが出来れば大きな力を習得できます。

しかしながら、ご存知のように習慣化になるまで継続できるかどうかが一番の問題なのです。


そこでであります。まず第一に無意識に行動が出来るようにするためには、意識的に思考を目的の方向に向けます。


以前ある人気のブログの中でブログを書き続けるコツが載っていました。みなさん何だと思われますか。

なんとそのコツは、「とにかく毎日書くことです」、といきなり反則のようなコツが書かれていました。仕方ないので素直に従ってみることにしました。

僕は子供の頃から、文章を書くこと、作文や感想文、日記などを書くという作業は好きではないから、もちろん得意でもなかった。

だからブログを書き続ける事の困難さを痛感していました。そんな自分がわざわざそれほど好きでも得意でもないのにブログで文章を書いている不思議。

人気ブロガーの「毎日書くことです」を実践してみようと考えました。そこでとにかく「ブログを書き続けよう」の意識を持ち、そのための自分なりの方法を考えました。

毎朝起きれば、テーブルのパソコンを点けて自分のブログにログインする。仕事が終わればご飯の前にまた自分のブログにログインしています。

初めの頃は強い意識や意志を持って向き合っていましたが、徐々に無意識に毎日決めた時間以外でもブログに向き合っています。

最初の頃はパソコンを点けてもブログにログインしないでニュースを読んだりメールをチェックしたりとか、ユーチューブを視たりしてました。誘惑に負けてしかったのです。

ふと思い直した時、少しブログに強く意識を向け直し、一度ブログにログインすると、度々ブログにログインするようになりました。「少し習慣化してきたかも」と思っています。


第二には自分自身にとって最も簡単でたやすく出来る小さい事柄を見つけ出す、探すことです。そしてとにかく始める事です。


また僕自身10年程前に右脳の脳出血後、その後遺症のため生活の自由度が大きく変わり今現在も不自由ではあります。

しかし病気になったことで健康に対しての健康意識が以前より強くなり、エドガーケイシー療法に出会うことが出来、明るい未来が持てるようになりました。

発症前の自由で元気な身体に戻れるかどうかは神のみぞ知るです。それほど神経系統の病気は完全回復が困難な難病なのです。

しかし健康意識を持つことで、健康で長生き出来る強い身体と健全な精神(魂)を持つことの方がより重要であることに気づきました。

健全な精神は健全な肉体に宿る。とよく言われますが、卵と鶏ではどっちが先の議論と同様に精神(魂)と肉体とではどちらが先なのでしょうか。よく分からないので、僕は今現在は健全な肉体と健全な精神(魂)造りを同時進行で進めています。


そのなかで自分自身の健康意識はかなり高まっていると思います。魂磨きの方も高まっていると思います。
健康な身体を維持していこうと、健康的な行動を意識的に行なっています。そしてそれらが習慣化になるまで続けるように気を張っています。
無意識で健康な身体作りのための行動を選択するように意識を極力健康に少し傾けて毎日生活しています。

時々はストレス発散のため、ファーストフード、揚げ物、甘味物、アルコール、インスタント、炭酸飲料は食しますが、深入りはしなくなりました。直ぐに健康な食事に切り替わります。健康意識は常に頭の中に持ち続けています。


第三に小さな行動を起こしている間も意識を持ち続ける事です。そして繰り返す。続ける。継続する。


また 健康意識が高まったことでふたつの情報に出会うことも出来ました。
ひとつはエドガーケイシーの健康に対するリーディングの数々です。

この情報は現実に即してる上に、実際に好結果も出ていますし、非常に役立ちます。しかも普遍的で論理的にも納得できるものなのです。

この情報に基づく実践が発症から現在に至るまで風邪ひとつもひかない健康な身体を保ってくれている要因であることは間違いありません。

そしてもうひとつは水素に関わる商品との出合いです。この水素は臨床結果が数多く出ているにも関わらずいまだに賛否両論がネットでも議論されていますし、医者であっても検証もしないでその効果を頭から認めようとしない人もいるほど、人によってその是非が大きく分かれています。

使っているものはただの水だけなので水素精製機械があれば良いだけですし副作用が全くないため、大手薬品メーカーが参入出来ない等、既存の病気治療や予防方法が不必要になるかも等、水素はある組織にとっては死活問題にもなりかねない危険分子なのです。

最悪、薬品不要論さえ出かねない状況のため、水素医療の発展や研究を妨げるような社会の圧力を感じてしまいます。

水素に関しては多くの批判拒絶情報が蔓延してるようです。悪しき(?)既存勢力と新興勢力との利害関係はいつの時代にも大変大きな問題ですね あくまで私個人の見解です。

使用して良好な結果が出た人だけが信じて使い続ければ良いと思います。しかし医療の発展のためや国の医療費削減をもっと議論すべきでしょう。


ここで以前から健康に意識を向けて意識的に行っていた行動の中で現在はほぼ習慣化したものを列挙したいと思います。健康に興味のある方はぜひ取り入れてみて下さい。
1、豚肉はほとんど口にしません。(ここ何年間あの美味しかったとんかつを食べたことがありません。)
2、野菜はほぼ毎食摂っています。(特にレタスを多く食べるようになりました。)
3、水を一日一リットル以上飲む。(水の都西条なので美味しい水は豊富です。)
4、柑橘系の果物を穀物と一緒に摂らない。(10年前から食後にみかんを食べたことがありません。パンとオレンジジュースは一緒に食しません。)
5、身体が酸性に傾きかけたら朝食にみかんだけ食する。(風邪っぽいな疲れたなと感じ初め)
6、胃腸を休ませるため、生のリンゴのみを数日間出来る限り多く食べる。(水分は水とコーヒーのブラックのみ、年に一回程実践します。)

7、飲用水は水素水を使用する。(飲用を初めて毎日数回便通があります。)

8、風呂は水素風呂に入る。(身体が冷めにくく、水虫がほぼ完治しました。)

9、毎朝洗顔後に10分間の足と首のストレッチ体操(眠気がいっぺんで吹っ飛びます。)

10、30分から一時間置きに椅子から立ち上がり、少し歩く。(耳石を動かし平衡感覚を保つ。)

5番、6番を除いてはほぼ習慣化しています。5,6番は年に数回なので習慣化してるとは言えないと思います。刺身のつまでもほとんど好んで食します。


第4に習慣化したと思われる行動をもう一度意識確認する事です。無意識な行動を自分自身に自覚させるためです。


意識を向けて意識的に行動しようとしても出来ない事柄や続かない事柄も数多くあります。当然それらは習慣化することはありません。

そうなれば当然良好な結果を得ることはできません。

その時はまた第一に戻って意識するところから始める。そして第二の自分の出来る小さい事柄を見直すのです。

行動の習慣化は階段を上るように段階的に上がるのではなく、右肩上がりに曲線上に上がっていくものなのです。


最後は良好な結果を得ることが出来たことを、神様等に感謝する。感謝することです。


 

(Blog to Soul)水素風呂と時代劇と音楽を愛する左半身麻痺の塾講師