喜怒哀楽(感情)

《子供》って、まったくもって、不思議だ、

面白い、興味の尽きない、ワンダーな生き物だ。

その存在は、長い間忘れられていた、遠い記憶のかけら。

その熱意は、朽ちることない青白い、炎のきらめき。

その好奇心は、ゆっくりと勢いを増す、緑の風の触感。

そのひらめきは、万華鏡のような、新たな驚きの発見。

その表情は、絶え間なく移り変わる、季節の風情。


つい先日のこと。彼は我が家に来ると、思い出したように

電動鍵盤を触り始めました。あらゆるスイッチやボタンを触って

音が鳴り始めると、僕をちらっと見て、微笑みます。

偶然自動演奏ボタンを、押したようで

「ファン、ファン、ファン、タタッ、タタッ、」

軽快なリズムが流れて来ました。彼が嬉しそうに笑顔を

投げかけてきました。僕が口ずさみながら身体を

揺すっていると、なぜか幼児も真似しようと必死です。

でも言葉がはっきりしません。「アー、ブー、*+」

しかし表情が緩んで、明らかに楽しそうで満足気です。

その後飽きたのか、その場を離れて透明の容器を手に取り

中からミニカーを取り出し、ひとり遊びを始めました。

「ブー、ブブー、ブー」僕がパソコンを触り始めると

近づいて興味深く、画面を見つめていました。

ユーチューブで童謡を見つけて再生しました。

知っている曲なのでしょう、楽しげにそれらしく

歌っていました。「♪ か*+@、か@*+ ♪」

思い出してもらおうと、僕は歌いました。

「♪ カエルの歌が、聞こえてくるよ ♪」

幼児は模倣しようと「♪ か*+@、か@*+♪」口にしますが

上手く歌えません。2度、3度、同じフレーズを歌わせましたが

なかなか難しいようです。しかし嬉しく、楽しそうです。

それは、一度は経験した覚えのある《感情》なのでしょう。

懐かしい調べが、優しく彼の心に響いているのです。

微笑んでいます、時の流れを忘れさせてくれるのです。

明らかに目が笑っており、なんのためらいもなく、素直に

僕の顔を何度ものぞき込みました。ーーーー楽しい、

面白い、嬉しいーーーー(そんな声が聞こえてきます。)


一方夕食後「バシャッ、バシャッ、バシャッ。」

浴槽に湯をためる音が聞こえてきました。

その後僕は服を脱ぎ、浴槽に向かいました。やがて浴槽に

浸かって良い気分で、くつろいでいました。不意に居間から

妻の声に、交じって聞こえてくる声。「ワーン、ワーン、

エーン、エーン。」ほどなくして泣きはらした顔の、

全裸の幼児が連れて来られました。幼児にとっては

気の乗らない入浴時間です。彼は今もって、すぐにも

泣きだしそうな、不安いっぱいの、浮かない顔です。

目には恐怖におののいているため、力強さと覇気がありません。

まったく彼自身、気が進まないのに、風呂内に置かれた椅子に

座らされ、僕と向かい合っています。なおも不安と恐怖の

入り混じった複雑な表情です。安心させてあげようと

声を掛けると、素直にうなずきます。

「***も後でおばちゃんに頭と身体洗ってもらって」

「そしてこの中に入って、湯に浸かって、温まって」

手ですくって2、3度、足先に湯を掛けました。

「エーン」泣き出してしまいました。湯を掛けるのを止めると

泣き止みます。今度は身体に湯を掛けてみました。

「エーン」再び泣き出しました。僕たちには決して解せない

目に見えない、何かがあるのでしょう。可哀想になり、

妻に連れ出してもらい、僕は先に上がりました。

その後妻に連れられて、入浴した彼の泣き声が、

上がり出るまで、泣き止まなかったことは

想像に難くないでしょう。


加えて入浴後、酸素カプセル内でひとり遊びに興じていました。

カプセルの最後尾に、ほふく前進して入り込んで、こちらからは

お尻しか見えません。僕が面白がって、カプセルの蓋(ふた)を

スライドさせて、閉じようとしていると、幼児は不穏な空気を

感じて、慌てて、前後を入れ替えて、驚いた表情で、

這(は)って来ました。ーーーーちょっと待って、何してるの、

閉じないでよ、怖いよ。----目を大きく見開いていました。

彼の目が強く訴えかけていました。何だかわからない

目に見えない、恐怖を感じていたのです。


その数日後のこと。一瞬、凍り付いたように、

まばたきひとつすることなく、微動だにしません。

その表情は、ハトが豆鉄砲食らったようです。

しかし僕を仰ぎ見る視線は、きりっと刺すように鋭く強烈です。

彼に一体何が起こったのか?


土曜日の早朝のこと。早起きの彼は場所を変えて遊びたくて

我が家にやって来て、大好きなおもちゃの車を両手に捕まえて

ひとり楽しげに、酸素カプセル内で無邪気に戯れていました。

ある時突然、手にしていたおもちゃの車が、手をすり抜けて

酸素カプセルの筐体(きょうたい)をつたわって、

床板に落っこちてしまいました。「カチャ、カチャッ。」

賢明な幼児は慌てることなく、先日覚えたばかりの

カプセル内のチャイムである、僕への呼び音を鳴らします。

「ピンポーン」僕は、ついさっき気付いたかのように装い、

彼と視線を合わせました。彼は微笑み、

視線をおもちゃに向けて、声を発しました。

「あ、おった」(あった、それとも、落ちたの意味。)

僕は何も聞こえなかったように、素知らぬ顔をしていました。

「ピンポーン。」再び催促されました。

今度ばかりは気弱な僕も、席を立ちおもちゃの車を

手に取りました。心ならずも、ほんの少し意地の悪い僕は

軽い悪ふざけのつもりで、すぐには彼には戻さないで、

その場に座り込み、ひとり悦に入って楽しそうに

遊び始めました。「ブーン、ブーン、キキー、ブーン。」

その僕の姿を目にした彼から、よく聞き取れなかったものの

僕はその幼児から発する、初めての要求の言葉「ちょーだい。」

を耳にしました。僕はもう一度、はっきりした言葉を聞きたくて

彼を無視して、目の前で、再びひとりで遊び

始めました。「ブーン、ブーン、キキー」

明確に気分を害された彼は、物問いたげに、鋭利な刃物のように

きりっと刺すように、僕の身体全体を見つめて、少し強い口調で

「ちょーだい」と言いました。なおも視線を逸(そ)らせると

体勢を変えて、眉根を寄せて、身体全体をこちらに向き直り、

両手を差し出して「ちょーだい、ちょーだい。」と

はっきりとした言葉で、丁寧に二回、しかしその表情は

今までとは明らかに、何かが違っていました。

妙に落ち着きがなく、何かに、苛立っている様子でした。

不機嫌をあらわにした、そんな彼の姿を僕は初めて

目にしました。その瞳の奥から、伺い知るに、

言うに言われぬ感情が渦巻いてそうです。


それは1歳余りの幼児には、言葉では到底表現出来ない

感情なのでした。それは生まれて初めて抱く感情なのでしょう。

おそらくそれは《怒り》という一言では、片づけられない

《驚き》に加え《憤怒(ふんぬ)》といった、底知れぬ

とっても大きく、深い、ものなのかもしれません。彼は

予想だにしない衝撃で、言葉も正気も失ってしまいました。


目の前の人は、いついかなる時でも、何でも、

自分の要望を聞き入れてくれる、優しいと信じて

疑わなかった「おいちゃん」じゃないのかな?

どうしたのかな? 何かおかしいぞ!

やがて彼は、幽霊でも見るような表情で、僕を仰ぎ見て

何かを訴えようと、顔をゆがめたまま、こわばらせた表情で、

視線を逸(そ)らせないで、僕を見つめ続けていました。


ひきつってしまって、豊かさと柔らかさのまったく欠けた表情。

まるで魂の抜けたような表情、うつろな目つき。

僕はその表情とその目を、生涯忘れることは出来ないでしょう。

その直後、僕に襲う、後ろめたさという、背徳感と罪悪感。

強い後悔と哀憐(あいれん)の念や

憐(あわ)れと不憫(ふびん)の感情。


それは間違いなく幼児の中で生まれて初めて

目覚めた感情なのでしょう。間違いなく、それは

驚きと同時に《怒り》だったのでした。それは一瞬

自分自信の身体の、どこを探ってみても、決して見つけ出す

ことの出来ない感情だったはず。


たとえ負の感情であっても、あらゆる人間の持つ様々な

思いを体感することは、今後の人生にとって、他人の

気持ちを理解する上では、とっても大切な事なのです。

特に《怒り》の感情を表現することは、あらゆる《感情》の中で

最も活力(エネルギー)を必要とされる《感情》のはずです。

したがって、その怒りの感情は短時間で(ほぼ瞬間)で

感じ取ることが出来ますが、その怒りの感情を長時間感じ、

持続することは、生理的に困難なものでしょう。

だからこそ怒りの感情は短時間で、鎮(しず)めることが

出来やすく、忘れやすいもののはずです。

幼児の怒りの感情が《トラウマ》にならずに、

跡形もなく、消え去ってくれることを望むだけです。


この数日間で、彼は一気に年を取った、気分がしたでしょう。

喜怒哀楽の様々な感情を、体感した我が家での生活。

毎日のうたかたの生活の中、幼児には状況の変化に応じて

様々な感情が、生まれ出て来ます。

それをどのように感じ取り、記憶の中に、どのように

残っていくのでしょうか? 神のみぞ知る。

数年の後、その心情を教えてもらいたいものです。

彼とともに、幼児を取り巻く我々の人生も続く、、、、。


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。


 

小さな世界

子供の頃は、誰にも、夢や希望は、

身近に感じるものでしょう。そして、世の中はきっと、

単純で簡単だと思い込むでしょう。

でもこの世は、子供の自分たちが感じているほど

《小さな世界》ではなかったのでした。


大小様々なクリップ。とっても小さなミニカー。長短さまざま

のひも。さいころ。色鮮やかなビー玉。目を輝かせて見入る

小さい筒型の透明の器に入った、いっぱいの贅沢なガラクタ。

「アー、ブッ、ッブーー、ブーー、あれ、ふっふ、はっはは、

ほほほ、ひひひ。」「ぶ**、@@、+++、。」

ひたひたと、小さな手で、手探りして、ひとつ、ふたつ、

何かを取り出し、興味津々(しんしん)の様子で、心優しい

切れ長の目が、きりっと差すように見つめています。


幼児がひとりで、意味不明の言葉を、何やらつぶやきながら、

楽しそうに笑顔で戯れています。僕たちには彼の言葉は

決して、解することは出来ません。そうです。

子供は誰もが、ファンタジーを創作する、夢みる旅人なのです。


思うように勝手に走らない自動車。空を飛ばない飛行機。

そして時が、そっと彼の心の奥底に語り掛けるのです。

《物事はほとんど、自分の思い通りにならないことを》

時に、時間の経過とともに、業を煮やして、ふつふつと

うっぷんが、溜まったのか、容器をひっくり返して、

容器をその場の、机に押さえ込み、力の限り左右に

揺さぶってしまいました。「ガチャ、ガチャ、ガチャ。」

容器内にあった、中身のガラクタが、所かまわず、

四方八方に、飛び散らばってしまいました。

しかし彼は何一つ、臆することなく、万感(ばんかん)の笑顔を

僕に投げかけるのです。「ニタッ、ニタッ、エヘ。」

散らかった景色を、呆気に取られて見つめる僕。

小さな心に萌芽(ほうが)した、自由にならない世界を、

破壊したい欲求。一瞬、脳内の回路に、心ときめく快感が

ビリッ、ビリッっと走ったのです。


大人になれば誰もが感じる、夢の持ちづらい世界、

大好きな食物が食べることが、出来ない、

大好きな人と思う事が、出来ない。

行きたいと考えている場所に行くことが、出来ない、

出来ない事だらけの、不満足感いっぱいの世界。

自分の能力を他人と比較して、がっくりと肩を落とす

無能感と無力感。

言いたいことを言えずに思い悩む、自己表現の難しさ。

年を経て、面と向かって、誰も口にはしないけれど、

夢の世界とは、まったくかけ離れていることを

痛感することになる、現実の世界。


年を経てなおもそれをすると、他人はそれを

現実逃避、自己欺瞞(ぎまん)と非難する。

熱中している彼に話し掛けても、つれなく視線を

逸(そ)らせるだけです。しかも幼児である、

彼の孤独の遊戯は、まだまだ続くのです。


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。


 

母性

先日BSテレビで視聴した「ワイルドライフ」。

雪も積もらない高山地帯に生息するヤギの親子。

切り立った稜線(りょうせん)や岩肌に、まれにしか

自生していない植物。

少し距離を置いて、食事を楽しむヤギの親子。

一方、そこを密かに、上空を旋回しながら、凝視している、

獲物を狙っている鷹(たか)の、《鋭いまなざし》たるや

半端じゃないよ。ヤギさん、危機一髪です。死と隣合わせの

食事は、消化に悪いよ。でも生きていくためには、

そんな上品な事は、言ってられない。よね。


ニュヨークの犯罪多発地区に居るような、恐怖で、ただならぬ

気配を感じた母親が、わが子のもとに歩み寄り、

わが身を盾(たて)に、自分のお腹の下へと追い込み、

守ろうと必死です。

その姿は、母親であればこその防衛本能からの行為です。

一歩間違えば自分自身が標的になり、

死ぬかもしれない行動です。まさに《自己犠牲》の極みです。


異なる過日のこと。一歳余りの幼児を、眼科に連れていくため

夕食まで我が家で預かりました。その時偶然見つけてしまった

《母子手帳》。妊娠中から、自分の素直な気持ちを

綴(つづ)った、きっと誰にも見られたくない、

お母さんの秘密の気持ち。

しかしです。我々夫婦は二人で覗(のぞ)き見して

しまったのでした。(お母さん、ほんとにごめんなさい。)


「半年過ぎた頃からお腹をけり続ける元気な子」

(男の子であることを確信した瞬間。

(実際その子は男の子でした。))鋭い母親の五感。


生まれた直後に書かれた、母親の真実の胸中と決意。

「***お母さんのところに、生まれてくれて

本当にありがとう。」

「誰よりもお母さんは***あなたが一番大好きです。」

「***あなたはお母さんの、かけがえのない宝です。」

「何があっても、***あなたを全力で守ります。」

(原文そのままではありません。要約しています。)

(目を通した瞬間、心の中、いやいや、目から涙が出ました。)

《真実は想像を超えて人の心に響きます。》


若くして恋愛して、できてしまった子供。

おろすことなど、露(つゆ)ほども考えられなかった大切な命。

未婚の母として、母子ふたりで強く生きていくことを

選択した運命。(しかし渡る世間に鬼はいない。

を痛感する毎日。)行政と親切な市民のおかげで

順調に成長しているわが子。


保護者の養育なしに、生存できない生物の、

メス親(母親)に見られる養育行動の反応及び行動原理、

として存在するとみなされる本能のこと。とはグーグルで調べた

《母性本能》の説明。前述のヤギの親子の運命は


母ヤギの強引な抑え込みに、子ヤギが感じた

窮屈(きゅうくつ)さのため、ふいに母ヤギのお腹の脇へ

それて、子ヤギが肩で息をしています。その一瞬を、

たかは逃さず、急降下してヤギの急所を一撃必殺。その後、

自分より倍も重いヤギの子供を、口にくわえて、たかは

飛び立って行ったのです。続いて

カメラアングルは母親ヤギの表情を捉えていました。

言うに言われぬ悲しみ、悔しさ、なぜにわが子が

捕らえられてしまったのか、と言った目が点になって

しまうほどの驚きと脱力感、虚しさ、寂しさ、

無力感、やるせなさ、を捉えて自然界の弱肉強食の非情、冷酷

厳しさを哀れに伝えていました。


《母性》と言う《強い愛情》は

人間界では《女は弱し、されど母は強し》と言って

女性は母親になると、子供を守るために強い力を

発揮するものです。

しかしながら、自然界の野性原理(食物連鎖)の前では、

悲しいかな、ひとたまりもなく、駆逐(くちく)されて

しまうものなのでした。


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。


 

時計

本日昼食を済ませた後のこと、一息ついていた時、

静々と清流のような緩やかの時間の流れを感じる真昼に、

それは届けられました。若い郵便局員が、

さわやかな笑顔と共に運んでくれました。


名古屋《小さな時計屋さん》からの小包です。開けると名古屋の

風が吹いてきました。(ほんまじゃけんのー)ほほをなでます。

雑多な荷物の中にそれは丁重に収められていました。

少し前に頼んでいた精密機械です。

父の臨終の際に、僕に見つけて欲しいとばかりに、

ベッドの枕元の棚にそれは大切に置かれていました。

いまわの際(きわ)に、取り立てて何かを言うこともなく

信頼している母に、見送られて旅立った父。でもきっと

それは誰かに使い続けて欲しいと望んでいたのだ。

(だから生涯大切に使っていたのだろう。)

遺産のすべてを放棄していた僕は唯一の遺品として

その時まで、大事に使わせて頂こうと心に決めました。

すこぶる使い込んでいたのか、かなりキズが目だっており

汚れていたので、信頼できる時計屋さんにオーバーホール

(全分解清掃修理)に出していたのです。

早速左うでに装着しました。と同時に

「カチッ、チッ、チッ、」その腕時計は職人の純粋な願いが

僕の心臓音に協調するかの如く、時を刻み続けています。

(はめる前から当然動いていました。)今の時代

腕時計を身に着ける必要性は少なくなりました。しかし、

きっとこの時計の役割は、《時間》だけを

計(はか)るのではなくて、僕の今後の人生の

何か大切な《機会》もはかってくれる予感がします。

人生においてそんな重要な機会が訪れるのを

忍耐強く待ちます。

この時計は、その機会を逃さないように間違いなく

僕に図(はか)って、教えてくれるでしょう。

僕のこれからの残りの人生、父と《同行二人》で歩みます。


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。


 

忍耐

「はぁ、はぁ、ふっ、ふっ、ふっ、」

肩で息を切らせています。(16、17、18、あと少しで

ノルマ達成です。19、20、終わったー)

「あー、どちゃくそ、しんどい、」

「もう、半分、青い・・・・・違う、死ぬーーー」


「少し休みますか?」スタッフが寄り添って

優しく声をかけてくれました。

「はい、では水を一杯お願いします」

「ありがとうございます」

「いただきます」

「グッ、グッ、ゴックン」

「ふー、生き返った、落ち着いた」

「もう少し休んでようかな」

「いや、だめだ、何のためにお前はここに来たのだ」

「さて、次はと・・・・・」(意気込んでみたものの

現実は、やはり辛い、・・・・)

「あれでもやろうかな、でもあれきついよな、」

「あと、あれとあれが残っているか?」

昨日(金曜日)は午後から半日、リハビリで汗を

目いっぱい流しました。


しんどい、疲れた、といって気の済むまで休んでいれば

楽です。それでも身体にむちを打ってやらなければ

ならないこともあるのです。それがリハビリなのです。

痛みに負けて、運動をやめれば身体の勝ちです。

心が勝つためには、やり続けて身体を心に

従わせる以外にないのです。

僕は今忍耐を学ぶべき時なのでしょう。

その先にはきっと良いことが

待ち受けてるはずでしょう。


最近読んでいる本に書かれていたのでした。

《ここを乗り越えれば、身体はお前に従い始める、

痛みはいっときのことだ、ひるまず続けろ》

作家山本一力氏の言葉です。

江戸の剣術道場は、忍耐と努力を学ぶ

人間修練の場でありました。

今の僕にとってはその場は、リハビリステーションなのです。

最後にこんな言葉もありますね。

《君の心の庭に忍耐を植えよ。その根は苦くても

その実は甘い。》(オースティン)


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。


 

早起きは三文の得

曇り空ながらも、雲の切れ間から柔らかい優しい陽光が部屋の

窓から差し込んでいた、清々(すがすが)しい朝の空間。


今朝9時前のこと。妻がファミリーサポートの仕事

を済ませ、玄関前で車をUターンさせて、

車庫に納め込みました。軽やかに車を降り、何か良いことでも

あったかのように帰って来て、玄関先で

僕を見かけて部屋に入るなり、口を開きました。

《妻》「最近膝(ひざ)、調子良いかい!!、

楽なんよね」(彼女はスキーのインストラクタ―の頃、

じん帯を切ってしまったのでした)

《僕》「よかったね」笑顔で答えました。

《妻》「なんでか、わかる??」

解っているでしょう、っとでも言わんばかりに、

問いかけられました。

《僕》「例のあれやろ」と答えました。

《妻》「よく解らないけど、そうなんよ」

間髪置かずに、かえってきました。

ここ数日前から、彼女は入浴後《全身、前後》の写真を撮って

《光カード》とやらを載せて《除霊》をすれば、

スッキリする、とかで続けています。(僕は心の中で眉を

ひそめています)。僕はゲン担(かつ)ぎのようなものだと

とらえています。(信じる者は救われますから)


取り立てて、何か特別な幸運があったわけでもありません。

しかし彼女の晴れ晴れしい顔で、一日の始まりを迎えました。

威勢の良い、気持ち良い表情を見せられると、こちらも何か

嬉しい気分にさせられてしまって、不思議と

その一日が、気分良く過ごせられます。

(喜びの笑顔は伝染しやすいのでしょうか)


最近、日の出とともに目を覚ませて玄関の部屋の中で、

朝日を浴びながら、その日を始めます。

目を閉じて、まぶたに朝日を感じていると、人間は生来

日の出とともに起きて、行動するように作られていることを

実感します。東に面したガラス窓の多い玄関の部屋で

小一時間本を読むことを日課にしています。

(今、時代小説にはまっています)ふと本を小脇に置いて、

眼鏡をはずし何も考えず、ボーッとすると、目にするものは、

ぼやけていますが、鳥のさえずりと車の通過音が、

ときおり鮮明に聞こえてきます。しかも五感が、

研(と)ぎ澄まされるように感じられてきます。

朝起きて、世の中の人と同様な習慣を、心掛け、

実践することで、気持ちが落ち着くのです。

そのおかげで、妻の《喜び》(ほんの少しの元気)を理解でき、

僕も喜ぶことが出来たのでしょう。たかが平凡な日常の1日に

張り合いが出るのです。(普段よりも早起きは、三文の得です)

「よーし、今日もがんばるぞー」って。


しかし現実の生活は今もって、心配事、不安や不満は

数えあげれば、尽きませんが、朝食前のこのいっとき、

《喜び》、《平安》を感じることができて

なんだか少し幸せなのです。


人の元気そうな顔つきを見るだけで、その訳を聞かなくても

喜ばしいことがあったことが理解できます。

現実には自分自身に、たとえ大きな金や仕事が入ってこなくても

気分だけでも、

他人の《喜び》も自分の《喜び》に感じられるようになれば

人は、人生の《喜び》には不自由しません。

を再発見した朝の出来事でした。


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。


 

赤ん坊(再会)

先日のこと、久方ぶりに、ごひいきの赤ん坊がやってきました。

熱が出てしまい、幼稚園に拒否されて、仕方なく

我が家を頼って、昼過ぎに連れてこられました。


もう我が家に連れてこられることに、まったく嫌がることもなく

いつも同じ席に座っている僕の姿を見ると、むしろ喜んで、

笑顔で近づいて来ます。警戒心や心の壁の一部が取り除かれた

ようで、泣きわめくこともなく、好意的に接してくれて、心底

我が家での時間を楽しんでいるようでした。


妻が呼びます、「こっち、こっち」。あふれ出るほどの笑顔で、もって走って来て、かけ寄ります。身体を預け、顔をすりよせ

力の限り抱き着きます。「***ちゃん大好き」。「ウウン」。

 

僕も負けずに呼びます、「***、こっち、こっち」。同じ様に

こぼれ出るほどの笑顔、でもってかけ寄って、抱き着きます。

身体を預けられて抱き寄せます。「***大好き」。「はぁ、はぁ、はぁ」。息があがってしまって、時に切らせていました。

 

一度離れて、二人のほぼ中間あたりに、立ち直りました。

 

「こっち、こっち、こっち」。「こっち、こっち、こっち」。

ふたりして、呼び込もうと試みました。彼は、妻と僕とを

交互に、目を細めて、視線を流していました。続いて目を閉じて

にんまりと微笑みました。誰からも愛されている自分、

そう思うと、彼は部屋の中を踊り回りたい気分でした。

----どっちに行けばーー

ーー良いのだろう?ーーーーその後、

ーーーーおばちゃんかな?ーーーーちらりと妻を見ました。

ーーーーいやーーーーおいちゃんかな?----こちらを

のぞき見ました。----どっちかな?----

考えてそうでした。--ーー一体どうしたものか?--

ーー僕ーーーーわからないよーー

ーー結論が出せそうにありません。

この上ない喜びを、顔に出さないようにするため、

どういった行動で、幕引きをしようかと

彼は、新たな計画に取り組み始めました。

彼だけが、妙に落ち着いていました。しかし少し、

時間がかかりすぎたという、苛立(いらだ)ちと、

疲弊(ひへい)しかかっている足腰は、

すでに限界にきていました。

ーーーー少し疲れたよーーーー思わず力が抜けてしまいました。

その場にへたり込みました。ばつが悪そうに、うつむいて

にやにやと、照れ臭そうに、交互に我々を見合いました。

彼の記憶の中では、どれほど先の見えない状況でも

自分の存在が、否定されたことは、決してないのでした。

熱烈で、本能的な独占欲を抱いているであろう、

大人に対して、誰も傷つかないように、

大げさな表現を避けたようでした。

我々夫婦の力関係を、よくわからない分別のない幼子に、

苦渋の選択を強(し)いた、大人のわがままを許してね。

っと、心の中で詫(わ)びました。


我々3人は、血のつながりを超えたところで、

いつの間にか、親密な関係を結ぶほどの信頼レベルとなった

強い結束力で結ばれていたのでした。

ほんとに本当に可愛い。強く抱きしめて、もう離したくない。

今日から君はもう、うちの子だ、誰にもわたさない。

そんな思いに駆(か)られてしまいました。だめだ犯罪だ。

誰かを好きになる事、愛(いと)おしいと思う事は

ある意味《罪》なのだと、認識した所存でした。

だからこそ、日々の生活の中で、

ちょっとでも自分の成長につながったり、

発見があったり、今後の些細なことであれ、

小さくても確かな幸せを、

大切にしていこうと同時に、見つける努力を怠らないように

していこうと、見つめ直させられました。

その方が、世界が広がりますから。

《辛く、苦しく》はもうやめましょう。

《楽しく、幸せに》で生きていきましょう。


感情や衝動を自制するのは、大人でも簡単ではありません。

わずか一歳余りにも関わらず、答えが出せない子供の心の中、

《大人をも超えた気遣い》の、底知れない大きさ、広さ、深さに

驚愕(きょうがく)とともに、感嘆させられました。

《社会性》を必要とされる人間に生まれて来た以上、

たとえ幼子であれ、日常生活そのものや、モノの見方や、

価値観までも、が《社会の中での自分の存在意義》に

なってしまいます。そういう意識がきっと、

《人間の性格、人間性》を育(はぐく)み形成していきます。

ひいてはそれが、世界を形作ります。


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。


 

#半分、青い

この4月から早起きが習慣になってきています。

8時前には目覚め、9時頃までNHKを視聴します。

日曜日を除く、毎日15分で物語が進行していくドラマ。

集中力が途切れない長さ、コマーシャルの無い心地よさ。

飽きの来ないように、1週間単位であらすじを移行させる

創意工夫。 自然と毎日チャンネルを合わせてしまう、

巧妙なわな。「ふ、ぎょ、ぎょ」。「やって、まった」。


「半分、青い」なんか不可解で、落ち着かないタイトルです。

でも毎日見いてると、これが面白いのです。

昭和の経済成長期に、岐阜県の田舎街で生まれた、

ひとりの女の子の、ひとつを除けば、平凡な日常を描いた物語。

家族、同級生、近隣住民等、彼女を取り巻く人々との交流と

古き良き昭和の時代背景とともに、展開される日常生活。

 

不運なことに、なんの落ち度もない彼女が、9歳の幼少時の

ある日突然、左耳の聴力を完全に失ってしまいます。

 

安直に、感傷に浸っている暇などありません。ここは地に

足をつけ、家族の気持ちを最優先に考えて、歯を食いしばって

踏ん張り抜くのでした。少女が、わずか9歳にもかかわらず、

妙に落ち着きはらって、無表情を装って、決して活力を

失うことなく、明るくユーモアたっぷりに、

常に前を向いて、希望に満ちた毎日を、ひるむことなく

たくましく、生きていく姿を描いた成長物語。


試練の時の始まりなのです。

半分の聴力を失い、今まで生きて来た世界が、半分になって

しまったように感じられる毎日。

それを空で例えるならば、頭上の空の、半分は「青空」、

でも残り半分は「曇り空」。と、

いった意味で「半分、青い」。

タイトルの持つ意味をなんとなく

分かったところで一気に時間が進む。

少女から女性に変貌するのです。

時に、少し《大人のような》、《ませた》

子供の発言に、口元が緩みます。

子役の子供の演技が卓越です。


実話なのか、作り話なのか、わかりません。

そんなことを、考えさせない間に、

心がうたれて、胸がいっぱいになるのです。

少女は、気落ちすることなく、今自分が、置かれている

自分の運命を、素直に受け入れ、その上で毎日を楽しんで

生きているのです。僕は思いました。

少女の言動を考えてみると、

人間は本当に弱い生き物であるんだ。っと同時に、

反面、人間はなんて強い生き物なんだ、であることに

驚かされます。そして生きていくために、人間に

本来、備わっている《たおやかさ》と《しなやかさ》を

痛感せずにはいられません。


人は今の自分を、素直に受け入れていれば、それだけで

十分幸せなのです。しかし不思議なことに

自分を楽しませることができていない時に、

人間は苛立ち、他人と比較してしまい、未来に不安を

覚えたりしてしまいます。そして

隣の芝生が青く見えた瞬間に不幸を感じます。

私たちの行動量が増えるのは、自分の心に

正直になったときだけです。思い出しましょう。

夜明け前の直前に、最も暗い時間がくる、ということを。

砂漠のことばで、人は地平線にやしの木が見えた時、

渇して死ぬ、ということを。


人間生きていくためには《友人、家族の手助け》が

必要不可欠です。

友人、家族のあり方を考えさせられる物語です。

《カミュ》の言葉がぴったりでしょう。

 

僕の後ろを歩かないでくれ。僕は導かないかもしれない。

僕の前を歩かないでくれ。僕はついていかないかもしれない。

 

ただ僕と一緒に歩いて、友達でいてほしい。ー カミュ

 


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。


 

高校野球

 

ーーーーザッ、ザザッ、----

「シュ、ビューン」。「ザッ、カキーーン」。

----ワオー、ワオー、--ーー歓声が上がります。

小さな白球が、力強く弾かれ、直線を引いて、

誰も居ない空間を飛んでいきました。。

広い球場は、密度の濃い人々で、大きな歓声に

沸きかえっています。

マウンド上では、ピッチャーが、うなだれてその場に

倒れ込んでいます。

今、ホームベースを踏みました。

審判がそれを見届けました。

ホームベース付近では選手たちが喜びあって

雄叫(おたけ)びをあげています。

ーーーーやりました!ーー 近藤くんーーーー

ーーーーさよならヒットです。----

「今のどうでしたか、野村さん」

「いやー、信じられません」、

「ほんとに、よく打ちましたね」

「見事でした」

「西条高校優勝しました」


今年の春の選抜野球は大阪桐蔭の優勝で幕を閉じました。

僕は高校野球が大好きで、無条件で視聴します。

僕は子供の頃、将来なりたかった、

《なりたかった》、っていうのは適切じゃないです、

やりたいと思っていたことのひとつに

野球、高校野球があったのでした。

いまだに興味は失うことなく、野球が一番恋しくなって

我を忘れて見入ってしまいます。

 

昔、ひとりでよく、バットやグラブとボールを持って、

ある場面を空想しながら、独り言を言って、

ヒーローになった、自分の姿を想像して、悦に入って

幸福感を味わっていたのでした。

地元の高校は、夏の選手権で全国制覇も成しえた

古豪なのです。地元は野球熱が半端じゃない。


子供の頃から身軽で俊敏で、水泳以外のスポーツは得意で

大好きだった僕。しかしです。人生はやはり単純じゃない。

 

簡単で単純じゃないから、100年近くの長さで、面白い。

 

同級生の中でも、なかなか大きくなれずに

背が低くて小さく、力の弱かった自分。

力強さの感じられない線の細かった自分。

力の限り投げつけても、遠くまで飛ばないボール。

幾度もバットを振っても、外野の上を超えないボール。

小学生の頃、幾度かの試合でチームに迷惑をかけて嫌気がさして

最後には練習を放り投げて、なんと逃げ出す始末。

失敗を繰り返すたびに、僕の自信もプライドも縮こまって、

ズタズタで、萎縮(いしゅく)してしまいました。

 

過去に手痛い、心に負った傷のせいで、

それ以来心を武装して、

確信の持てないものには、二の足を踏んでしまいます。

 

結果気持ちが廃(すた)れて、部活動は敬遠して、

学生時代は帰宅部。体格面において、大きな不利は否めず、

本能的に、運動においての、大成の見込みは、

悲観的にならざるを得ず、信じたくない、

受け入れたくない現実を、受け入れ、

大好きな運動は、趣味、楽しみの程度に、

とどめようとの考えに至りました。

 

人間、

容赦のない運命に抗(あらが)うことは得策ではありません。

 

どのような道を選んでも、運命は必ず、道のどこかで正面向いて

待ち受けているのです。

 

小さい子供の頃、大好きなおやつが、「かたくりこ」を

お湯で溶かして砂糖を加えたゼリーでした。

それを食べさせてもらうためには、どんな辛いことでも、

我慢した記憶があります。いつかから「しつけ」でやられた、

今もって背中に跡が残っている《やいと》

でもそれが食べたくて、あの熱さにいつまでも耐えていました。

現在なら、何の不自由もなく栄養満点になれるのに。

食生活の影響が大きかったでしょうが、

誰のせいでもありません。それが僕の運命なのでしょう。


人には「得手」、「不得手」があるのです。

 

絶対、どうすることもできない「向き」、「不向き」、

があるのです。おそらくそれは、

満天の星空からたった一粒を見つけ出す奇跡かも。

でもわかっていても、人は無謀にも、追いかける時もあります。

ただ好きで、手っ取り早いというだけで、

標的になりやすいのです。好きなことを追い求めることは

自分自身を取り戻すための、試練だと正当化して

さらに事態を悪化させてしまう場合が多い気がします。

僕は、今となっては、入り口を間違えずに良かったかな。

 

でも今もって「得手」「向き」の手がかりが、、、

一体、どこに?

 

その手がかりが案外、神様仏様とか、そういうのよりも、

毎日の行動の指針を、示してくれるものかもしれません。

 

人生の仕掛けは、かなり手が込んで、極めて巧妙なのです。


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。


 

桜満開

「なんと、まあ、気持ちの良い、ながめだ」

見渡す限り果てしなく、遮(さえぎ)るものなど何ひとつない、

どこまでも大きく、広がっている青空。

春の日差しが、如来(にょらい)の慈悲のごとく、

広大無辺(こうだいむへん)に、万物の上に

優しく柔らかく降り注いでいる。


ふいに風を感じたくて、窓を開ける。

「ヒューン、ヒューン、ブーン、ブーン」気持ち良い。

視線を外に向けると、車窓から、ときおり目にする

極めて白色に近い、うすーいピンク色の花びらが

寂しくない程度に、身を寄せ合っている集団。

 

また、忘れた頃に視界に入る、垂れ下がった

しだれた枝に、しがみつくように点在している

濃い紅色の花弁(かべん)のかたまり。

 

小道の脇に位置する、さらさらと流れる小川

近くの原っぱ一面に、群集している菜の花たち。

 

小高い山沿いの緑の中に、まばらに程よく適在する

花々たちの色彩ぐあい。水に溶かした絵具を

キャンパスにひっくり返してしまったような色合い。

緑、うすいピンク、紅色、黄色、等々。

 

人為(じんい)では、到底及びもできない、

これぞまさに絶妙な《自然美》。


春の陽気に誘われて、車に乗り込み

自然の展覧絵巻に酔いしれる。

「今日は、もう、何もしたくない」、

「車の中で、横になって、寝るーーう」。

名もなき広場に停車した。

少し眩しいきらきらと、七色に輝く日差し。

そよ風にひらひら、舞い落ちる花びら。

笑顔でわいわい、はしゃぐ人々。

誰もが、平安を享受して心底、実感している解放感。

厳しい冬の寒さを、乗り越えた、からこその

柔和(にゅうわ)で優しい春の《温(ぬく)もり》。


 小倉百人一首 「ひさかたの ひかりのどけき 春の日に 

     しづ心なく 花の散るらむ」紀友則(きのとものり)

古今和歌集


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。


 

(Blog to Soul)水素風呂と時代劇と音楽を愛する左半身麻痺の塾講師