貯金

新しい週になりました、、、今朝、、、、目覚めとともに

先日視聴したBSテレビの字幕が頭をよぎりました。

「地球の《表情》は、その内部でふつふつと沸き上がっている、

マグマの大きなエネルギーの流れによって、ダイナミックに

形成されました。」と心の中で黙読したと同時に

その時の深紅(しんく)のマグマのダイナミックな

動きが映像となって強烈によみがえって脳内を占拠(せんきょ)

しました。おかげでトイレ内で、最近元気のない男性自身を

手にして、年齢のせいだとばかりに決めつけ、へこんでいた

気持ちにむちを打つことができました。その後


洗面所の鏡に映っている、覇気(はき)のない目元を

手でこすって洗っていると、何事においても少しやる気の失せた

原因を探(さぐ)ってみようと考えてみました。日課の

ルーティンを変更してパソコンを立ち上げ、メールと

ブログのチェックをしてみました。ここ最近の自分の

ブログを読み返して、はたと気が付きました。客観的に視て

ありふれた発想、貧困な切り口、当たり前すぎる

面白くない内容に、思わずゲロが出そうになりそうでした。

原因は即座に思い当たりました。思考力の低下、こう着状態に

陥っているからなのでした。昔から「小人(しょうにん)

閑居(かんきょ)して不善をなす。」と言われますが、僕の場合

「小人閑居して、《こと》を行わず」なのでした。近々


仕事量が減るにつれて、自由な時間が増えてしまって

寝て、起きて、食べて、小言を言っては、自己嫌悪に陥って

また食べて、少し仕事をして、動いて、食べて、寝て、、、、

といった、極めて創造力のかけらもない人間らしくない、

「なまけもの」の体(てい)たらくな、ぐうたらを

過ごしていたかもしれない、との内省に

至ったのでありました。でも「後の祭り」です。


「時は金なり」といったメタファーがありますが

「時間はお金と同じくらい大切なものなのです。」といった

戒(いまし)めでしょうが、実際には「時間はお金、以上に

重要なものなのです。」ご存知のように、時間は何の制約も

受けることなく流れ去って行ってしまいます。

平家物語で白河法皇は「加茂川の水、双六の賽(さい)の目

山法師、これぞわが心にかなわぬもの。」また方丈記で鴨長明は

「行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」と

古来より、流れて過ぎ去っていくものは、止めることができない

人間の思い通りにならないと、世の無常を嘆いていました。

現代においても、河の流れはともかく、時間の流れは

人智の及ばざる事柄です。


生まれながらに、不平等、不公平に与えられているもの

《お金》等は、自分自身の努力、裁量でその量や多さは

どうにかすることが出来ます。一方、生まれながらに人間に

平等に与えられているモノの《寿命》と《時間》は自分の

モノであるにも関わらず、自分の思い通りに取り扱うことが

出来ません。どちらも手元に留(とど)め置くことが

出来ないのです。言い換えるならば、貯蓄(貯金)がどちらも

出来ないのです、誰しもが、歳を取り続け、時間を

さかのぼって、戻ることなど出来ないのです。

神様のすることは人間の理解の範疇を超えています。


現実に目に出来るモノは、自由にため込んで好きな時に

取り出して使用することが出来ます。しかし「光陰矢の如し」

です。まさに《チャンスは貯蓄出来ません》。


手元の現金(モノ)が少なくなれば改めて、その存在の重要性

大切さに気付かされ、注意深く慎重丁寧に取り扱います。しかし

少し現金(モノ)に余裕が出来ると、人はとかく、倹約を忘れて

しまって、ついつい、ぞんざいに扱ってしまいがちです。

大切なものほど、失って初めて気付かされるものなのです。

その時には残念ながら、もう手遅れなのです。


貯金のできる《モノ》より、貯金の出来ない《モノ》をもっと

大切にしようと痛切に感じた、57歳、平成最後の秋の

盛りの一日でした。何事も無駄のなく、効率良くなど

生きれない、利口者でない、小馬鹿で小心者の僕なのでした。


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。次も楽しんで書こう!


 

 

 

歴史(井伊直弼)

一期一会(いちごいちえ)ご存知ですよね。本当はもっと深遠で

人生にとって有益な教訓なのでしょうが要約すると、今この時は

生涯に一回しかないと考えて、そのことに専念する意味。

語源はもちろん、安土桃山時代の茶人、千利休の茶の湯の

心得にあったとされています。しかし最初に書物に記載した人物

は歴史上、大悪人と揶揄(やゆ)されていた、幕末のあの大老の

井伊直弼(なおすけ)なのでした。著書『茶湯一會集』の巻頭

には有名な「一期一会」があるのです。でもそんな彼も、

幕末期、多くの維新志士を断罪(だんざい)し、死に

至らしめたとして、明治維新以降、その評価は最悪でした。

しかしです。明治時代の終わりごろから、再評価されるよう

になったのです。なぜ? ここで日本史の再検証です。僕は今

歴史にはまっていて、隙間時間に様々なメディアで視聴を

楽しんでいます。この時間が「あっ、いいな」って

恍惚(こうこつ)としています。


近代日本史の大きな転換点のひとつ。通常、幕末

(約15年間)と言われる、武家政権の終焉(しゅうえん)

(1868年)のきっかけとなる事件。1853(嘉永6)年

(いやでござんす)黒船来航。米国ペリー率いる艦船4隻が

大統領の国書を携えて江戸湾浦賀(現在横須賀市)に寄港。

当時13代将軍、家定は病弱で国政は無理。老中首座の

阿部正弘(備後福山藩)は各藩に相談するも、開国派

(井伊直弼等)と反対派(水戸藩徳川斉昭等)の対立は激しく、

その対処に苦悩していました。そんな中、直弼は大老に

就任しました。その後米国総領事ハリスから早急に開国を

要求されました。諸藩に意見を求めるも、開国やむなしと

考えていた直弼は、反対派の説得に努めましたが、色よい返事が

得られず、特に徳川斉昭(なりあき)が強硬に反対して

いました。そのため回答を引き延ばしていましたが、都の天皇に

勅許(ちょっきょ)を得られないまま、調印してしまいました。


井伊直弼は彦根藩(今の滋賀県)で11代藩主、井伊直中の

14男として誕生しました。将来、藩主になれる見込みは

極めてありませんでした。しかし彼は世の中を恨んだり、出世の

夢を抱いたりしないで、ただひたすら埋もれ木のように

こもって、自分のなすべき事をやっていこうとしたのです。

宛行扶持(あてがいぶち)と言って、一方的に与えられるわずか

な手当てで、自分の住居を埋木庵(うもれぎあん)と呼んで

300俵で部屋住みとして、慎(つつ)ましく

暮らしていました。しかし幸運にも36歳で藩主になるまで

なすべき事は多岐にわたり、武芸では居合の新派を創設。

焼き物、能、狂言、最も傾倒したのが茶の湯で、禅に通じる

内なる心を重視して「一期一会」の言葉を残しました。

一方で庭に見える柳の木に強い愛着を持って自らの

雅号(ペンネーム)も「柳王舎(やなぎわのや)」と

名乗るほどに。というのも柳の木は、太い幹はしっかりと

地に足をつけて、しかし枝や葉は風の流れに逆らわずに、

優雅に流れる。そんな柳の姿にあこがれて、自分もそう

ありたいと考えていました。36歳の時、藩主の兄がなくなり、

兄弟のすべての兄が養子に出されていたため13代

彦根藩藩主になりました。彼は儒学者の教えから多くの家臣や

民衆に耳を傾けていきました。領内をくまなく視察し

生活困窮者にお金、食物を分け与えていました。直弼の歌。

恵までは あるべきものか 道のべに 迎える民の 慕う誠に

(慈しまずにいられるものか 道端で出迎えてくれる民が私を

慕う誠の心を思えば)逸話として、この歌に、かの吉田松陰は

感涙にむせび感激したそうです。だが運命とは残酷なものです。

直弼はそんな松蔭を無残にも殺してしまうのでした。


この頃日本近海に出没する外国船が増えていました。

彦根藩は三浦半島の警備を担わされたのです。しかし

250年間太平の世が続く中、武士の士気は下がり警備体制は

お粗末でした。直弼はその実態に強い衝撃を受けたのでした。

なおのこと、この時期に外国との戦争は、到底勝ち目がないこと

は十分認識していました。ここで直弼のとった行動を理解する

ため当時の世界情勢を把握していなければなりません。


18世紀後半、英国で産業革命が起こり、蒸気船が造られ

大きな船に大砲が搭載され、戦闘力が格段に向上しました。

1840年、清国は英国にアヘン戦争、フランスにアロー戦争で

敗れ、不平等条約を締結し、香港を割譲しました。米国は捕鯨の

目的で太平洋を航海中、拠点の必要から日本に貿易を(開国)

望んでいました。当初は紳士的であった米国も、早急

(さっきゅう)な回答を出せない日本に徐々に苛立ち、

力づくで開国させようと考え初めていました。

直弼の判断は正しかったのです。《歴史は思想が造る》そうです

当時武士は朱子学を熱心に学んでいました。朱子学とは中国から

の学問です。「中華思想」が根底にあります。中華思想は

自分たちが一番。他から学ぶこと無し。との考えが主流。

開国などもってのほか、なおのこと、家康を神と仰ぐ

御三家の水戸藩は当然、諸藩の藩主の多数は開国反対でした。


彦根藩、井伊家は大河ドラマの女城主、井伊直虎にあって

養子であった、徳川四天王のひとり、井伊直政が初代藩主

でした。すなわち、井伊家は徳川幕府260年を支えた

名門でした。幕政の重要ポストを担い続けていました。

改めて、直弼の下した開国と言う決断は今から考えても正し

かったのです。たとえ諸藩の意見をまとめることが

できなかっても、天皇の勅許を得られずともです。

特筆すべきは当時の彼の心情が書物に残って

いるのです。----しばらくは戦争を避け貿易

を行うべきである。勇威を海外に振るうことができる

ようになれば、内外共に充実し、かえって皇国安泰に

なるはずである。---- と。実際その後、時代は直弼の

想像通りになっています。しかし不幸にも当時の時代の

流れが、彼を《赤鬼》と呼ばれるまでに、ならしめたのです。

ひとつは14代将軍継嗣(けいし)問題において

徳川斉昭との対立です。さらには、戊午(ぼご)の密勅と

言われる、孝明天皇が水戸藩に勅書を送った、前代未聞の

事件でした。古き良き伝統を重んじる直弼は、天皇に

このような行動をとらせた、良くない危険分子が、

はびこっている、世情を正すべきだと、

多くの維新志士を捕縛し、処罰してしまいました。

世にいう「安政の大獄」です。これにより彼の評価を地に

落としめ、自分の命運すら尽きさせたのです。水戸藩浪士による

「桜田門外の変」でした。当日命の危険は予測できていて

警護の者を増やすように進言されたにも関わらず、警護の

人数は規則で決まっていると、あくまで伝統を守ろうと

こだわったのです。暗殺前日に詠んだ辞世の歌です。

咲きかけし  たけき心の 花ふさはーーーー

ーーーー散りてぞいとど  の匂ひぬる

道半(なか)ばではあるが、国を想ってきた熱い自分の気持ち

は、自分の死後、きっと後世に理解されるだろう。直弼は自分が

もうすぐ殺されると解っていたのです。

むしろ死ぬ気だったのでしょう。なんて哀れで、みじめな人生!


歴史を知っている我々は、当時日本国を外国の侵略から救った

者は坂本龍馬であり西郷隆盛といった、薩長土肥の志士たち、

だけであったと考えがちですが、時代の状況をしっかり把握して

たとえ独裁者と揶揄されようと、リーダーとしての、決断力

と実行力を持ち合わせていた直弼の存在は無視できません。


直弼にとって不幸だったのは、彼の良い所でもあり悪い所でも

あるのでしょうが、移り変わる時代の中、変わるべき、

変えるべきところを、伝統にこだわり過ぎて、固辞して

変わらなかった、変えなかったところに、直弼の天命を

視た気がします。でも私的には、敬意を持てて大好きな人。


伝統さえ守れば、徳川幕府も日本国も守られ、ひいては民衆も

守られると信じて疑わなかった、頑固さも「安政の大獄」

といった日本史上まれな、非道に走らせた要因だったの

でしょう。いやー歴史って面白いですね。


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。


 

地球事変(酸素)

 

諸説はありますが、地球が誕生して約46億年。

人類が誕生して650万年から300万年。勉強になる?

昨日視聴したお気に入りのチャンネル、BSプレミアムの番組

「ギガ・ミステリー(地球事変)」って本当に面白い。

知的好奇心がくすぐられる。こちょこちょ、こちょこちょ。


ご存知のように、自身で栄養を作成できない、我々動物は

酸素を取り入れて、食物(有機物)をエネルギーに

変換して生命を維持しています。視点を変えれば、この地球上で

大きなターニングポイントは約27億年前、深海から吹き出す熱

水付近で何かのきっかけ(突然変異)で出現した

「シアノバクテリア」と呼ばれる微生物の果たした

役割なのです。彼らは太陽光で光合成をして自ら栄養を作って

生活するのだが、光合成の副産物として酸素を水中に

放出します。太陽光さえあれば、生きていける彼らは

これといって天敵が存在しなかったこともあって、陸付近の

海水中に無尽蔵に増殖しました。これによって彼らの放出した

酸素が海水及び地球上に充満しました。


高酸素濃度になったおかげで約5億年前に最初の、そこそこの

大きさの海生動物である、えびやカニの仲間である、三葉虫が

出現しました。これが人類誕生の広い意味での起源なのです。

さらに背骨を持った魚類が出現します。この後、生物は

海中から陸上へも、生活の場を変えていきます。


27億年以前には陸上は、太陽光の紫外線が強過ぎて生物が

生息できませんでした。しかし「シアノバクテリア」の

おかげで当時陸上は、高酸素濃度(約50%)でした。

同時に太陽に近い場所で、酸素が紫外線と反応して多くの

オゾンが出来ました。そのためオゾンによって太陽光の

紫外線が遮(さえぎ)られて、陸上で生物が生活できる

ようになったのです。さらに植物も陸上に繁殖し、

陸上は緑いっぱいで覆われていました。

そのため、陸上では酸素濃度はさらに上がり約85%まで

高くなりました。その結果動物は、多様化と大型化へと

変貌しました。その後2億5千年前に恐竜が出現しました。

しかし天変地異のため、植物の多くが死に絶えてしまいました。

そのため酸素濃度は下がり、低酸素濃度になり恐竜の多くは

生きることが出来なくなりました。ここで進化がありました。

気のうと呼ばれる呼吸器官を持った鳥類の出現でした。同時期

爬虫(はちゅう)類から、突然変異で進化した人類の祖先に

あたる、低酸素濃度(約21%)でも生きていける、

ネズミのような、身体の小さな哺乳動物も出現しました。


650万年前、霊長類が現れ、180万年前ホモサピエンスが

来ました。そして20万年前、旧人類から新人類へと進化して

現在の人類に最も近い人間が低酸素濃度(約21%)内で

今も生き続けています。


地球上で命が、突然変異という進化の最後の切り札で誕生して

以来、気の遠くなるような長い年月をかけて、様々な厳しい環境

にも適応して、進化を繰り返し、現在のような多種多様な生物が

共存共栄しています。しかしその陰には、誰かと結びつきたい

ひとりでは寂しいと言って、さまよっていた《酸素》という

特殊な元素が多くの命を紡(つむ)いできた歴史があるのです。


将来ある時、神様が何かの引き金を引いて、《自然の摂理》に

変化が起こり、想像できないような、我々人類の生活環境が

大きく変貌したとしたなら、人類はそれにうまく適応することは

出来るのだろうか? それとも人類はさらに何かに進化して

新しい地球の支配者が出現するのでしょうか? その時

我々人類は何の祖先とよばれるのでしょうか?

想像は尽きない。おっと、そろそろ行かなければ。


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。


追伸、ここで進化の原動力であり、だまされた感いっぱいの

「突然変異」とは? ググってみました。

生物やウイルスが持つ遺伝物質の質的・量的変化。および、

その変化によって生じる状態。らしい、なんか納得できないので

僕はこれに、因果関係の無い変化とも付け加えます。


 

 

 

夏の終わり(秋の始まり)

寝床の東に面する窓から、すでに7時前に眩しい朝の

光が差し込む明るい部屋。祝日の今朝、仕方なく目を覚ます。

なんだかスッキリしない。昼前に少し外出。川沿いに

走行して山側に上昇する。一区切り、程よい所で降車する。


外では肌寒い、ひんやりとした心地よい風がそよそよと

吹き抜ける。透明度の高い穏やかな川の水のせせらぎ。

鳥のさえずりも聞こえる。トンボが群生して出現する。

ここからが本番。風が爽やかな、なだらかな道を歩く。

暑くはないがわずかに、汗ばんできた、歩き回って少し

息はあがっているのに、この上なく幸せな気持ちに包まれる。

6畳ほどの広さの小高い山の脇の展望台から市街一面を見渡す。

「めっちゃ、きれい。」「見渡す範囲があなたの領地です。」

領主時代に言われた言葉が頭をよぎる。上を見る。


まばゆいばかりの青空。真っ白い雲。雨によって浄化された

かのような空気。ところどころ彼岸花の赤が目に入る。

秋めいてきた、木々の色鮮やかな青い山。

白い雲が陽光によって、光が乱反射して刻々と色が変わる。

そよぐ風もひんやり、虫の音が聞こえてきます。空と山が

織りなす絶景。まるで絵画の額縁から、切り抜いたような景色。

人の心を癒し元気にさせてくれる自然。反対に、言い尽くせ

ないほどいっぱいに、人を疲れさせる、突発的な

自然災害があった今年の夏。


自然の景色がほんのりと濃い。日常では有名飲食店で

さんまが定食に横たわる。夏の終わりを告げる

兆候(ちょうこう)を感じる。

今はもう9月の半ば、本当に夏が終わり

秋の始まりを実感する。お金より欲しいもののひとつ。

心の平安、充足を与えてくれる、僕の大好きな秋という季節。

秋はすべてが彩られる季節。秋は終わりではなく、冬を通して

春へとつなぐ大切な季節。暑気が払われ、華やいで、活気ある

人や街。山から華やいでいる市街を眺望する。山の上から

思い入れの場所を子細(しさい)に観察する。高校まで

生まれ育った僕の唯一の故郷(ふるさと)の眺望。

♪ うさぎ追いしかの川 ♪ がふと口から洩れる。期間限定の

楽園。あと2ヶ月もすれば、せわしない冬支度を迎えます。

なんだか、わびしい、ものかなしい、せつない、が入り混じった

複雑な気分になったメランコリーな夏の終わり秋の日中でした。

人間は変わらなくても、大自然は常に変わっていきます。

そんな自然がもたらす恵みに、大いに感謝して生きていこう。


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。


 

仕事(労働)

前回の続き。竹田恒泰氏いわく、仕事には2種類あります。

ひとつは《お金を追いかける》仕事。

もうひとつは《お金がついてくる》仕事。


東北大震災後の翌年のこと。為替は超円高。ふたつの企業の

トップの経営方針の両極端な考え。トヨタ自動車では

「国内で生産を続け、国内で販売を促進させたい。」一方某

有名安価家電メイカ―では「出来る限り、海外に工場を

移転していきたい」と。セオリーで言えば、円高では

貿易戦略は困難になりますよね。海外販売は国内の販売価格

より割高になるためです。反対に海外の賃金は国内より

割安になります。通常ならば後者の経営方針でしょうか。


しかしその後、トヨタは上場以来最高の増収増益。片や

家電メイカ―は中国に身売りといった結果に。その結果の違いの

原因は? 目先の利益に飛びつこうとした企業と製造企業の

経営理念である「ものづくり」の王道に立ち還った企業の

差である。との事。なるへそ。経営って難しい。


困難で試練の時だからこそ、むしろ目先ではなく、長い目で

《さらに良い製品》を作ろうと、技術をより研鑽(けんさん)

して「ものづくり」日本、の原点に立ち返り《お値段以上》を

地道に提供し続けたからこそ、賢い消費者を失わなかった。

「お金もうけ」と恋愛は同じで、追いかければ追いかけるほどに

相手(お金)は逃げてしまう。押し過ぎず退(ひ)いてみよう。


もう一度「ものづくり」日本の精神《決して手を抜かない》

《お値段以上》、《最善を尽くす》、《最良品を》の精神を、

見つめ直そう。まずは時間をさかのぼって歴史を見てみよう。


・昭和時代に群馬県ローム層で岩宿遺跡(磨製石器)の発見。

「人の手によって磨きかけられた」約3万年前旧石器時代の石器

人類最古の「人の手による加工技術の産物」

・1853年ペリー来航の時代から貿易で資産を貯蓄し始める。

以前は米本位制でお米が通貨替わりだった。これ以降お金

(銀か金)が、米に変わって通貨として真に認識され始め

流通し、容易に貯蓄出来るようになる。お米は採れた時が最も

価値が高く、時間の経過とともに価値が下がり、貯蓄しても

価値がきわめて薄い。しかも残ってしまえば、

残るほどに流通価格が下がる。米本位制度が崩壊し始める。

・世界一の優秀な絹織物を厳格な管理と緻密な製造工程によって

光沢があり強靭な製品を作り続け本家中国をしのぎ世界に販売。

・チャイナと呼ばれる陶磁器も元祖中国を超え世界に認知。

歴史が古くは先祖から手先が器用で「ものづくり」の

才能があった。事を物語っている。


最後にまとめとして、日本の持つ強さの秘密は

    1. 日本人の勤勉と完璧主義。
    2. 製品に対する強いこだわり。
    3. ひたむきに仕事に取り組む姿勢。
    4. 「ものづくり」に対して仲間が同じ方向を見ている。
    5. 強いきずなで結ばれたチームワークの良さ。
    6. トップからボトムまで以心伝心の関係。

日本人は、いったん仕事を頼まれれば、たとえ

報酬が少なくても、最悪もらえなくても決して

手を抜くことなく、完璧なものを作り、納入するのです。

むしろ見返りがまったく無ければ、無いほど不思議と

より完全で完璧な仕事をしようとするのです。逆に

そういう人間が尊敬を集め、評価される社会なのです。


日本国が世界で最貧国から世界有数の経済大国に

なった背景には上述が、考えられるが、その精神性の根底に

根付いているのは、江戸時代に広まった《武士道》なのです。

ひとことで言えば《世のため、他人(ひと)のため》の

《利己(りこ)》でなく《利他(りた)》の精神なのです。

幕末当時、英国人が日本にやってきたとき片田舎の

食うや食わずの貧しい農民でさえ、礼儀正しく、規律正しく

生活していることに、驚愕(きょうがく)したそうだ。

英国人が当時日記に記載していたそうな。

衣食足りて礼節を知る、が通説だが、日本人は

衣食足りなくても礼節を知る、国民なのです。


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。


 

究極の幸せ

本日の午後講演会に参加しました。無料で聴講者50名程。

地方銀行の愛媛銀行主催による、わが町西条市にある

経営者の集まりである「ひめぎん会」20周年記念の

呼び物で「日本人はなぜ世界で一番人気があるのか」と題した

作家竹田恒泰氏による約90分間のお話しでした。平日の昼間。


大変興味深い内容で、たとえ話しをされ構成がしっかりしており

しかも新鮮な内容の上に、分かりやすく腹の底にしっかり

落とし込まれる、腑(ふ)に落ちるほど、論理的で納得できる

合点のいく事柄でした。しかも笑いありで、面白い。

あっという間。もっと聞きたいと思わせる、

これぞまさにプロの仕事。本当にすごい。カンペなし、天才。

きっと主催者も安い講演料と思ったはず。金額は知りません。

コストパフォーマンス最高。僕なら50万でも呼びたい。


印象に残った事柄は多々ありました。紹介できる内容には

限度があります。僕の記憶力だけが頼りです。今回は

ひとつだけで勘弁をして下さい。また明日書き加えます。

経済会主催です。話のほとんどは経済に関する内容でした。

今世間は不況です。世間を取り巻く状況は厳しいです。

しかしそれでも現在、日本は世界でアメリカ、中国に次いで

経済大国第3位です。今後日本の経済はどうなるのか?

敗戦国日本が、なぜ戦勝国、英国、ロシアを抑えて

経済大国になれたのか? その理由の独自の分析と

今後の課題と、我々が取るべき行動を、歴史的側面から

提示されていました。要因は様々でしょうが、


人間の精神性にその謎を解くカギがあるのではと。

ひとつは《労働》、《仕事》とは何か? 言葉の持つ意味の

捉え方に違いがあるのでしょう。との事でした。

聖書による《労働》は人間にとって犯した罪の《償い》

と考える人間。一方《労働》を自分自身の《生きがい》

や《利他》として考える人間との相違なのです。との事。


例えばここで、一万円の仕事を頼まれたとしたなら、

きっちり一万円の仕事をしようとして、した人間。

一万円以上の仕事をしようとして、してくれた人間。

一万円以下の仕事しかしない人間。

どの人間に仕事を依頼したいですか? どの人間が将来

豊かになるでしょうか? もちろん言わずもがなですね?


最後に結局、究極の幸福とは? と問われました。長生きが

短命より幸福とは限らない。その人の最後(逝く時)が重要。

経済会の集まりの話でしたが、お金では無い。もちろん

貯金残高の多さでは無い。功績の多さでも無い。それは

《惜しまれて》逝くことです。誰もが悲しんで遺憾(いかん)に

思われて死んでしまう人が一番幸福な人生を送った人なのです。

さくらももこ先生、うーん、えーん。悲しい。拝。


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。


追伸、、大雨、台風、地震など自然災害で生活を破壊されていく

災害大国でもある日本。《災害防止予防工学》なる新しい学問を

一刻も早く確立させて、自然にされるままでなく

自然に、対抗していく方にも考えを考え直す必要があるのでは

、、、。とは僕の考え。でないと数年後、人類の文明は破滅する

予感が、、、。例えば、台風が発生した時にミサイルか何かで

発生雲を消滅させる、など。でも実現不可能な夢の話かな。


 

自分らしさ

ーーーーどうすればいいのだろう?

ーーーー何処を見ればいいのだろう?

ーーーー何を口にすればいいのだろう?

ーーーー正しい答えが分からないよ。結果彼が出した答えとは?

なぜか困惑している様子です。普段の彼と、どこか違う風です。


お盆以来、我々夫婦に、とっても嬉しい訪問客でした。

あと数日で2歳の誕生日を迎えるその幼児は、

徐々に脳が発達しつつあるのでしょう。思いの外、

知恵も付いています。話せる言葉も増えてきました。

彼の思いが、正確な言葉となって、我々に伝わって来ています。

行動に伴って、同時に言葉も観察できます。すごく面白い。

覚え初めの《言葉》と、覚え初めの《マージャン》は

すぐにでも、使いたがる。の言葉通り。

言葉を覚えた喜びと、自然な本能による欲求なのでしょう。

「ブー、ブー、いっぱい。ちょうちょ。赤。青。」

覚えたモノを目にすると、その名前や特徴を口にして

我々に確認、承認を求めているようです。事あるごとに、

何かを見つけては、「見て、見て」って。呼ばれます。

いつもの席に座ってから、言葉を出し続けています。


ところが約一時間後のこと。妻が用事で外出するので、

左半身不自由な僕だけでは不安もあって、妻の姪子である、

ひいき目に見ても、若くてきれいな女性が、入れ替わりで

部屋に入って来ました。幼児は初対面の彼女をちらりっと

見たと思ったら、恥ずかしいのか、うつむいたままで、

急に無言で、おとなしくなってしまいました。

しばらくの間あれほど、うるさく開いてた口が、

閉じられたままです。静かです。しかも身体も

ほとんど動きません。動かせないのでしょう。


《何か》が彼の行動を押さえつけてしまいました。幼児は、

わずかの間に成長し続けている《身体》と《頭》と《心》。

「いい子」になるようにと、願っている周囲の大人たち。

周りの大人と社会の都合に合わせるように育ってきた幼児。

そこで、今まで、そうなろうと応えていた幼児。

でも今回、どうすればいいのか、分からない、表現出来ない、

突然初めて出くわした《感情》。その後なぜだか

分からないが彼は、自分の顎(あご)を

テーブルに叩きつけていました。不思議なことに、彼はまだ

2歳弱にも関わらず、自分で自分を痛めつける

自傷(じしょう)行為をしていました。自分で処理できない心の

不安やもどかしさを、落ち着かせようと

本能が衝動でさせているのでしょう。


他人はそれを、《悪》としての、《人見知り》の一言で

片づけようとします。僕は、彼の、

その凍り付くような無言や行動停止、

「それこそ」が、本当の彼自身《自分らしさ》だと思います。

脳の回路を通過しないで、「心のままに」《フリーズ》した

身体と言葉は、本能からの《感情》による行為なのです。


人は生まれてから、周りの大人の都合の良いように

知識や常識を植え付けられて、一人前の人間のごとく

育っていきます。それこそが本当の《成長》とでも

あるかのごとく。そしてそういった子供が社会では

優秀で良い子と考えられています。しかし昨今(さっこん)

閉塞してしまった社会を打破しようと、《ナンバーワン》より

《オンリーワン》のうたい文句とともに

《個性》や《自分らしさ》が見直されようとしています。


おそらく姪子の、美人女性特有の風貌や雰囲気が幼児の

本能の何かを強く刺激したのでしょう。その刺激は、

思考(理性)による行為を、抑制させるほど強烈で

あったのでした。僕は

「いいぞ、その調子だ。それを大切に育って行けーー。」と

身勝手に思いました。それが***お前特有の持ち味なのだぞ。

社会や大人たちの都合(常識)に無理して合わせるな。

自分を貫け。無理して社交的である必要は無い。人見知り結構。

そしていつまでも、自分らしさを貫いて、いつの日か

社会の《規格外》と呼ばれろって願った今宵(こよい)でした。


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。


 

 

本性

エジソンによると発明の行動原理は、本当かどうかはともかく

「1%のひらめきと99%の汗(努力)」らしい。一方

僕が考えるに、人間の行動原理は

「1%の本音(真実)と99%の建前(虚偽)」だと思う。


8月に入っても、なおも暑さが続いて「あついね、あついね。」

って言ってた時には、このままこの暑さが続けば、

12月になったら、どれほど熱くなるかと、気をもんでいたけど

立秋を過ぎた頃から《四季のある国日本》のありがたさを

しみじみ、かみしめることが出来ました。朝夕冷房を付けた

ままだと、肌寒く感じるようになってきた、

今日この頃です。


昨年春、妻以外の他人と生活するという《人生最大の譲歩》を

自分自身に受け入れて過ごしてきましたが、

正直もう限界でした。受け入れる時は、身寄りもなく

妻の母の姉なので、温厚で優しい義母の思い出しかなかった

こともあって、グループホームに入れるのは忍びなく

姉妹なら認知症であっても、間違いなく良い人だろう、

うまくやっていけるだろうとの、安直な考えでは済まなかった。


まだ数年前には《ボケ》始めていたとはいえ、妻や僕の名前も

記憶にあって、会話も正常と思えてたのに、しばらく

会わなくなって、どうしているのかと不安になっていたものの、

  • 夜中に徘徊(はいかい)する、
  • 自分の物と他人の物の区別がつかない、
  • 排泄物を汚物と認識できない、
  • 身体の自然現象に対応できない

等の病状を耳にするようになって、どこかに入居し直す

必要に迫られ、身内が看(み)てあげるのが一番、

との判断だったのでした。色々ありました。結果


おかげさまで、この8月から妻ふたりとの生活に戻りました。

一番の決め手は、排泄物の処理のわずらわしさなのでした。

毎日どこかに、垂れ流され、廃棄物の後処理と

不快臭には閉口でした。


約一年間、認知症と生活して気付いた事のひとつ。

人の口にする言葉は、ほとんど

信用できない、なんとでもなる。

そこに真実があるかどうかは究極のところ、本人以外

誰にも、分からない、判断出来ない、っという事。

認知症のおばさんには本人にさえも、真実かどうか

判断できませんでしたが。とどのつまり、誰にでも、

何事においても、口先で取り繕うことは

簡単に出来るのです。


「おばさん、お腹すいた?」

「ないね。」でも食べ物を、口に近づけるといくらでも

食べるわ、食べるわ。際限ない。

「おばさん、おしっこある?

「ない、ない。」直後に寝床で放尿。

人間の本能の感覚においてさえ、この有り様。

おそらく思考に関わる本心の判断はさらに不確かでしょう。

認知症本人は自分の本心を隠すことの利得を考慮して

嘘をついているのではないはずです。

正常な思考の人間が自分の利得を考慮して

本心を隠して、嘘をつくことぐらい少しの

罪悪感もなく簡単に出来るはずでしょう。

妻が正常だった頃から、嫌いだったと言っていた

頑固で身勝手だったおばさん。認知症のせいなのか、

徐々に暴かれていく人間の本性の行動。

(刻々変わっていく生理的に受け付けない表情)

自覚がないだけに、正直始末が悪い。


「お金儲けの良い話があるけれど、聞きたい?」

「わたし、お金には興味ないんよ」っていう人。

こんな人こそ、《世の中お金がすべて》、って思っている人。

100%嘘でしょう。なぜって、お金のために、

自分の人生の99%を費やして、お金儲けして

お金のために仕事をして、自分の時間や楽しみを犠牲にして

自分以外の誰かのために費やして、他人の人生を生きている

人のなんと多いことか。なんと言葉と行動との間の距離が

遠い人の多いことか。


ほとんどの人は1%の本性を、自分にも他人にも隠して、

99%(本人には100%でしょうか)虚偽の人生を

生きているのです。そして周りの人も他人の1%の本性を

見抜くことが出来ずに、99%の虚偽の人間像の印象で

だまされ続けるのでしょう。それは99%のうわさ話で

翻弄されて、1%の真実を見抜けず、理解出来ない

状況を作っている昨今のネット社会や、個人情報保護法の

はびこる社会と同じ様な気がします。


人間の本音はその人の虚偽の言葉と行動の中に隠されて

見え難いのです。物事や人間の快い表面だけに惑わされず、

虚偽の中に隠された、本当の真実を見たいものです。

真実を見抜くことがどれほど困難な事か、そして

真実を見れずに、だまされている人(当然僕も含めて)の

いかに多いことかを痛感した最近です。


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。


判官びいきの国日本。国民の8割が応援していたで

あろう高校野球、秋田の金足農高。

でも実力通り、現実には奇跡は起こらず大阪桐蔭優勝。


 

言葉

先日ふと思った。この世界は《言葉》であふれかえっている。

でも「言葉」って一体、誰の、どこから、生まれ出て、

理解されて伝わっていくのだろう?

誰かが、どこかから、何かを聞いて、口から言葉として

吐き出ていくのだろうか?それとも、誰かの身体

の中から、自然と湧き出て、言葉となって出るのだろうか?

言葉の最初の発生とその伝承の謎の解明に何気に気付いた事。


今年のお盆期間は言葉の未熟な幼児が初めて我が家に

やって来ました。午前中の活動は、初めての体験に

緊張して疲れたのか、車に乗り込むとあっという間に、

こっくりこっくりと、船をこぎ始めてしまいました。

重い頭が固定できずに、振れてしまう頭を、両手で自然と

バランスをとっている姿がいじらしく、僕の身体にもたれ

掛けてやると、すやすやと夢の世界に。可愛い寝顔にうっとり。


うたた寝も兼ねて昼食も摂ろうと、いったん家に戻り

マットに寝かせて自分たちもそれぞれの寝床で

横たわっていました。空気がよどまないようにと

すべての部屋の仕切りを開け広げ、明かりをつけない状態

のままでいると、僕の部屋の入り口付近に、起き出した

彼の姿が目に入り、ふと視線が合いました。


「***、どうした?」無言ですが目が何かを訴えていました。

「寂しい?」大きくうなずきました。僕は不思議に思いました。

彼は、《寂しい》って言葉を知っていたのかな?

彼は、いつ、どこで、覚えたのかな?

《寂しい》の意味を、どこまでどれほど、解っているのだろう?

もう一度尋ねました。「ひとりは寂しい?」うなずきました。


一歳余りの彼は、聞いたことはあっても、おそらく誰かに

何かで覚えたのではないはず。なぜなら《寂しい》っと

口に出せないから。知っている言葉ではないはず。

でも聞くだけで、なんとなく体感できる、分かる

理解できている。賢明な彼には空気が読めるのでしょう。

自分の感情を、口で発することは出来なくても、

不思議なことに、聞くだけで、その言葉の意味を《共有》

出来て、把握できているのだ。なぜだろう?不思議だ。

言葉は分からなくても、知らなくても

当然人間は解り合える存在なのだ。


《言葉》の成り立ちや細かい意味を、頭で理解できていなくても

《言葉》は、特に感情を表す《言葉》は頭で理解するものでは

ないのだ。

「初めに言葉があった」とは聖書のヨハネの福音書にある。

ところ変われど、《言葉》は人類の歴史とともにどこかで

生まれ出て発展しているのだ。


《言葉》の持つ、その《響き》や《雰囲気》は、頭の中を

通り越えて感じてしまうのだ。ゆえに《言葉》は身体全体で

感じ取る《感性》なものであることを、改めて幼児から

教えられた。だから《言葉》とは、長い歴史の果てに

身体(DNA)に沁み込んだ、きっと人間の身体の一部分から

吐き出されてできた、身体の一部分のはずだ。ゆえに《言葉》は

頭で、理解するものではなくて、長く忘れていた記憶を

思い出すように、身体で感じ取るものなのだ。そして言葉は

不思議なもので、身体の部分から出来上がったものだから

ひと文字、ひと文字、まったく無駄がなく、

過不足なく、出来ているのです。やはり世の中には、

無駄なものや、無駄なことは、何ひとつ絶対に無いのだ。

《言葉》は絶対、感じるものであって、《生き物》であり

《ミュージック》であり《リズム》であり

《波》や《感性》なのだ。

つまるところ、よくわからないが《言葉》に関して

現在感じ得た、僕のつたない言葉でした。


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。


 

おじさん

陽が傾き始めても、日差しが和らぐこともなく、

中華鍋の如く、これでもかと熱く照り付ける

尋常じゃない異常な、夏日の連続。

火照(ほて)った身体を冷(さ)まそうと

かき氷を求め学生の放課後みたいに、夫婦二人

ファミレスで《だべった》週末の土曜日(7月21日)。


同時に夕食も摂り、妻がなぜか疲れたというので

何かに急(せ)かされるように、急きょ帰宅。僕が入浴中に

実家の兄から電話で、闘病中の叔父の死(享年74)を

突然知らされる。長い間、病床に伏(ふ)せっていたとは、

風の便りで、知ってはいたものの、なかなか見舞う

時間が取れ無いまま、ここ数年気になっていたのに、

会えないまま、、、、。

これでこの世での再会は不可能になってしまいました。

ここ最近、一番「後悔先に立たず」を痛感した出来事。


僕の人生で重要な位置に立っていた叔父さん。

父の兄弟、姉妹(女4人、男3人)で末弟。

一番陽気で口数が多く、愉快で明るく朗らかだった叔父さん。

僕の少年期に、刺激と彩りを与えてくれた、大好きだった

叔父さん。野球のグラブを買ってくれた、心優しい叔父さん。

小学生の頃初めて、兄弟3人をボウリングに連れていって

くれた、流行に敏感だった叔父さん。

青菜にマヨネーズをかけると、美味しい料理に変身することを

教えてくれた、新進気鋭な叔父さん。毎晩お酒を美味しそうに

楽しげに飲んでいた、人生を心底楽しんでいた叔父さん。

僕の前で《ものまね》していた、「木枯らし紋次郎」を

毎回楽しみに観ていた、ひょうきんな叔父さん。

集団就職大阪から、地元に帰ってきた時

百貨店大丸に、初めて連れていってくれて、おもちゃを

買ってくれた、心優しい叔父さん。大学生当時帰省時に

パチンコに連れていって、僕の負けを、補てんしてくれた

寛大な叔父さん。いつも冗談を言って、僕の脳みそを

ハチャメチャに刺激した、魔訶不思議な叔父さん。

不思議と、父よりも多くの思い出が

残っている叔父さん。肉体は無くなっても、記憶は残る。


この冬の2月、父を見送り、続いて病魔に侵されているとは

いえ、まだまだ若い叔父さんが逝ってしまうなんて微塵も

考えられなかったが、正直な心情。望んでないことは、なぜに

奇跡的に連続して起きてしまうのか? 良いことはそんなに

起きないのに、、、、。


神様か《なにか》によって翻弄(ほんろう)されている人間の

《運命》や《生涯》。

人の《生死の時期》は、人には選択の余地はありません。

ある時、気付いた時にはこの世に生かされているのです。

そして人は生かされている限り、生きなければならないのです。

たとえこの世が、死ぬよりも、辛く苦しくとしてもです。

自殺する人は、死を経験したこともないにも関わらず

死に行く人はそう言うそうです。でも本心は生きたいはず。

生まれ出た人間は本当は、誰一人、死にたい人はいないはず。

みんな生き続けたいはずなのです。しかし自分の意志とは

反して誰もが、いつかは死を迎えるのです。

《なにか》の意志なのでしょう? 誰も知らない《なにか》


しかし不思議と人は、自分のだいたいの死期を悟るようです。

今回の叔父さんも、一週間前に、親族を呼んでほしいと

会っていたそうな。加えて遺言のように、

自分に何かあった時には、と

自分の菩提寺を息子に指示していたのです。

その時の叔父さんの心境を考えると、なにか切ない、

心苦しい、胸がかきむしられる思いです。


誰よりも、人間大好きな叔父さんだからこそ

自分の代から新たな《近藤家》の歴史が始めるほど

孫、ひ孫を輩出し、自分の血筋をこの世に数多く

残すといった、人間の一番の役割を果たしたから、

自分の人生を満足して、逝(い)ったであろう。

まさに天晴(あっぱれ)の人生でした。

きっと天からみんなの人生を陰ながら応援して、

笑顔でエールを送って、見守ってくれるはずです。

きっと向こうで、父と大好きなお酒を

酌み交わして、冗談を言って笑っていることでしょう。

今日(23日)は葬式でした。

今妻と献杯(けんぱい)しながら書いています。拝。


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。


 

(Blog to Soul)水素風呂と時代劇と音楽を愛する左半身麻痺の塾講師