無題


強運


いきなりですが、いちごパンツ、ってご存知ですか?

そんなの簡単って思われたあなた、学生時代に

ちょっと、軽く勉強されたか、歴史に興味のある方ですね。

似たような言葉で、いちよむなしく、いやろっぱ、むしごろし、

これで、はっ、はっ、って分かるのでは。そうです、西暦の

語呂合わせなのです。仕事が終わって夕食前にBSテレビで


歴史学者の磯田道史氏が番組内で口にしたのを聞いて

驚いたのでした。磯田氏は、最近僕のお気に入りの人物で

博学多才であって、歴史に対する評価が斬新な切り口で、尊敬

とともに心惹かれる方なのですが、そんな大先生でも、歴史の

年表を、邪道ともいえる、語呂合わせで覚えていられることに

驚きとともに、この人も、僕と同じなのだと、とても嬉しく

なったのでした。ここで、いちごパンツとは1582

(天正10)年の事で、日本史史上重要な年なのです。


ひとつは明智光秀が織田信長を自刃に追い込んだ、本能寺の変。

もうひとつは織田・徳川軍が甲斐の武田勝頼を自害させた年。

織田・武田といった戦国時代をけん引した二大名家の滅亡が

同じ年に起こりその後、時代が大きくうねり始めだしました、

と言った、日本史史上意義深い分岐点のひとつなのです。

織田信長はまさに風雲児、それまでの日本人の価値観を、

根底からひっくり返し、能力と実力を重視して、地位や名誉、

肩書などはほとんど無価値だと考えていました。

その考え方は現代の人間にも通じる考え方なのです。


しかも新しもの好きでだけではなく、《本物》を見抜く力も

持っていた、神に選ばれた《魔王》なのでした。

一方武田勝頼は鎌倉時代から続く名門、戦国最強軍団を築いた

甲斐の虎こと、武田信玄の庶子(しょし)で甲斐武田家の当主。

聡明で領民思いで、父信玄時代より領土を拡大した名君でした。

ふたりとも時代の表舞台に出て、スポットライトを浴びたと

思ったら、突然姿を消した、《不運な英雄》なのです。そう、

ただ《運》がなかっただけなのでしょう。悲運の将なのでした。


長い日本史の歴史から見れば、彼らは、ほんの一瞬程しか

登場しないのですが、鋭く輝く閃光のような記憶と記録を

我々に深く刻みつけた英雄なのでした。逆に、長く光り、しかも

くっきりと地道に輝き続け、大きく花開き、天寿をまっとうした

勝ち組の英雄、秀吉、家康、等も存在しています。


彼らは決して派手さはありませんし、しかも保守的な活動ながら

も、地道に慎重に、かつ忍耐強く思慮深く案件に対処しました。

不思議なことに、彼らも目先の我欲に走りながらも、後世に

有益になるような功績を、数多く残しています。

悲しい最期と天寿をまっとうした英雄の違いは何なのでしょうか

それはただ《強運》と言えるのでは。どれほど能力があろうが

努力しようが善良であろうが、《強運》のある人には残念ながら

到底勝てないのが現実社会なのです。《運》のあるなしは

誰にも読めません。それが《競争社会》の原理、原則なのです。

現在大河ドラマ「西郷どん」放映中ですが、明治維新の新政府の

要人のほとんどは、その最期は暗殺か、自害です。

「神はサイコロを振らない」とはよく言われますが、それは

考えられる、全ての条件(科学的要因)がたとえ同じで

あったとしても、導き出される結果は決して同じではない

場合もあるのだそうです。どんな物事の結末にも、

人間にはもちろん、神様さえも、関わっていない不確かな要因

が存在するのです。そしてその不確かな要因が多少なりとも

その結果に影響を及ぼすとしたなら、我々は一体何を信じて

生きていけば良いのでしょうか? 各個人に委ねましょう。


何を信じる


先日、又吉直樹の番組ヘウレーカでの事。ある学者先生の話が

興味惹かれる内容でした。学生時代の宗教の授業時間。先生で

ある神父さんが、生徒の前で、聖書を手にして「今からここで、

人間の起源において、聖書が正しいのか、進化論が正しいのか、

議論をしなさい」っと言われて、聖書派と進化論派とに

分かれて、議論が始まったのでした。進化論派である学者先生

が「人間の起源の問題を、宗教で書かれている内容と科学書に

書かれている内容とではどちらが正しいでしょうか?」っと、

聖書派に問うたそうです。聖書派は反論できなかったのでした。

それを見ていた神父先生が、進化論派に対して「その点に

おいては、君たちが正しいのかもしれない。しかし

この世界の半分以上の数十億人は、この本である聖書に、

すがらないと、頼らないと、生きる指針としないと、

生きていけない人間なのです。しかもそれぞれの

人生において、この聖書を、心の糧(かて)にして、活きる

力として、生きて生かされているのです。そして君は、そういう

人間が存在していることを、理解してあげる努力をすると

君は将来立派な科学者になれます。」とおっしゃったそうです。

それぞれの個人にとっては、自分の人生において、世の中の

正しい事や完全なものだけが、必ずしも《正解》や

《信じるにたるもの》ではないのでしょう。


普遍的で誰もが《正しい》と考えられているものだけが

世の中の常識として信じられているのではないのです。たとえ

科学者であっても、世の中には、目に見えるものだけではなく、

目に見えないものへも思考を向ける柔軟性が、欠けてしまうと、

私たちは《目に見える、半分だけの、精神的に貧しい世界観》を

妄信的に生きることになってしまうのでしょう。

見えるものと見えないものには境界線などはなく

きっと、連続性の上で成り立っているのでしょう。


名言


・「たった一度の人生に何を刻むのか。

自分の生きた証を、何を持って語れるのか。」

by プロジェクト X、新リーダーの言葉

考えさせられました。

・「すべてこの世はこともなし」

by ロバート・ブラウニング

(神が天に居られるので、)世の中全体が平穏である


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。


 

下町ロケット

期待にたがわぬ、とはまさにこういうことを

言うのでしょう。予想を超える、対価を払ってもなおも

おつりが返って来るほどの、満足感で締めくくられました。

やっとゴースト編が終わったところなのに。物語はまだ始まった

ばかりなのです。またまた始まりました。零細企業の逆襲です。

テーマは「宇宙(そら)から大地へ」別の言葉で「ロケットから

農業機械へ」です。「週刊文春」連載ベストセラー小説です。


技術立国日本らしい、レベルの高い自分の技術に自信と誇りを

持った、でも商売下手でお人好しの人達の集まる中小企業、

佃製作所が、様々な苦難障害に直面しながらも、強い経営

理念と哲学を曲げることなく、たとえ壊れやすくて弱いながらも

一枚岩でも受けて立ち、全身全霊を傾けて、どうにか

乗り越えていくのです。ところが、ほっとしたのも、

つかの間です。あくどい輩は、執拗に留まる事無く、

否応なく小さな、ほころびを見つけては、想定外の手口で

攻撃を仕掛けられ、危うく切り崩されそうになります。

しかし崖っぷちの瀬戸際で、機転を利かせ、

はじき返し守りぬくのです。転じて反撃を繰り出し

最後には、勝利の雄叫びを上げるのです。


天才的で整合性のある、隙の無いストーリー展開と

物語の重要な分岐点での、絶妙な会話の駆け引き。

そして必然的に、どんでん返しで最後に勝利するなんて、

まさに池井戸作品の真骨頂なのです。どんな窮地に陥って、

先の見えない状況であっても、複雑で絡み合ったであろう

問題の糸が一気にほどけて、解決に導かれていくのです。


著者池井戸潤氏の作品の主人公は、誰もが共通して

思い描くであろう《善人》が《悪人》に必ず勝利します。

桁はずれのお人好しで、自分の事よりまず他人の事を

心配して、考慮して実践努力してしまうのです。今作も


自分が信じる《正義》のため、「困った人が居れば、見過ごせ

ない、救いの手を差し伸べる」と言った信念の行動原理が

存在するのです。解決の糸口の見つけ方は、人間の本心である、

心境の変化を詳細に描写することによって、物語を展開、

進行させていきます。そして最後の決め手は、我々人間が

《原点回帰》の行動をとった時に、初めて気付かされるのです。

その後、真理がさらに見えてきて、どれほど小さなきっかけ

であっても、突破口にして道が開かれる、と言った手法は、

まったくぶれずに顕在でした。


現代人が失いつつある、数字やお金だけでは表現出来ない

熱い《夢と情熱》だけが一番の才能で売りといった、

熱い善人による、勧善懲悪の物語なのです。こざかしい

《悪人》どもを心優しい《善人》達が、打ち砕いて

勝鬨(かちどき)を挙げる姿を見て、すっきり、スカッと

心晴れ晴れして、留飲(りゅういん)が一気に下がります。

しかるにその過程は紆余曲折で、戸惑いながら、彷徨

(さまよい)いながらも、人間の根源である《魂の尊厳》に

光が当てられ、人間の《良心》、《善》、《誠意》をとことん

信じ、自分の《正義》を貫いて生きる姿勢に感動して、共感する

仲間との痛快サクセスストーリーに僕も感涙(かんるい)に

くれるのでした。


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。


 

挑戦

もうじき、秋が深まり冬の訪れの兆しが見えてきます。

太陽が気持ちいい。日差しが最高。草木がなびいている。

うっそうとしてた山が、色づき始めています。秋晴の中、木の葉

やそよ吹く風にだって、幸せの肌触りを感じて嬉しくなります。

自然がじきに幻想的な紅葉を演出してくれます。そんな日に

我々夫婦が待ちわびていた人が現れました。週末の土曜日


穏やかな昼下がり、僕の一番の友人であり、教師でもある

二歳の幼児が、我が家に登場してくれました。我々が

一見すると何気ないモノ。でも彼のどんなモノにも向けられる

温かくて繊細なまなざし。「*@<@*+>」つぶやく。彼は

目の前の、どんな小さなモノであっても、想像の翼を広げます。

決して尽きるこの無い好奇心、色眼鏡と先入観を持たない真っ白

な概念。目にしたモノすべてが興味の対象。彼の小さな身体内に

激しく脈々と息づいている、意識のすべてを傾けていきます。

小高い山の中腹辺りの公園で腰かける。奇抜な飾り物を見つけ

近づき、観察しようとする。身体を滑らせ転倒し身体を撃つ。

痛みと恐怖心で、「エーン、エーン」しかしすぐに立ち直る。

失敗を恐れないで、挑戦し続ける者。死をも恐れないで、

生きるを探求する者。常に、ほとばしるように流れる気力。

一種の畏敬(いけい)に似たものさえ感じます。なぜなら、

自分にとことん素直で正直で、誰の目、さえ一切がっさい、

気にしない、思いついたら迷わず即行動します。まるで

《すべては自己責任》と、自分自身から行動をとりたがります。

人知れず喜び、挑(いど)み続けるその姿に、崇高(すうこう)

なもの、高貴なもの、献身的な何かが感じられます。軽食を


摂った後、後部座席に立ち、後方から景色を楽しんでいます。

帰路途中座席に立ったまま、手を伸ばした状態で、身体を支え

何かを耐え忍んでる様子で、突然口を閉ざしたままでした。

何かを感嘆するたびに、口を開く。でも、感じるままの気持ちと

思いはなかなか言葉に出来ません。我々には聞き取れない

事がほとんど。


彼は充足感が得られるのなら、何を差し出しても、失くしても

構わない。一方私達大人は多くの場合、大きなリスクをとらな

かったり、失敗を恐れたり、自分のコントロールできる範囲内で

行動をしようとするので、突き抜けるほどのモノを取得すること

はできません。私利私欲の影が見える、夢と野望への醜い執念。

世の中の矛盾を見過ごし、社会の理不尽を看過し、自分の

心が感じた違和感にも、立ち向かわないのです。幼児である彼は

自分の心に、激烈に忠実であり続けているのです。世間が

《終わり》だと思っているところが、彼には《始まり》

かもしれません。だからこの命枯れ果てたとしても、誰に

なんと思われたって、笑い飛ばすだけ。と思っているようです。

幼児である彼を見ているだけで元気をもらえます。人が評価

しようが、評価しまいが観察、挑戦をすることが子供の特性。

何か違和感感じて、投げ出したくなって、何もかも

しっくりしない、何かが足りなくて、眉をひそめる、

顔をしかめたくなることが、そこら中に転がっている

現実が私たちにはあります。それでは日常生活は過ごせたと

しても、面白みがない。挑戦なくして、人の成長はありません。

我々に、最も危険な行為は《自己満足》や《自己防衛》です。

自己の内に目を向けたり、広く熱心に学んだり、することは

いっぱいあります。ここで知行合一(ちこうごういつ)が大切。

おそらく、どれだけ《わからないこと》を信じられるか、そこに

飛び込めるか、どうかなのです。幼児は見えない感じる道を

行き、ありのままの人を、モノをすべてを受け入れていきます。

子供は絶妙なバランスを保ちながら、成長していきます。加えて

子供達は、ほんの少しの知恵と勇気を兼ね備え、そして

ほとんどが無欲であります。ただ幼児の挑戦は

ある意味《向こう見ず》の側面があるかもしれません。

と言っても、挑戦だけが現実を変える力があります。

人はもろいようですが、強いものです。しかも、

限界を超えることで、確かに人は強くなります。


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。


彼が突如無言になったのは、車酔いだったようです。顔色が

青白くなって、額と耳下に、冷や汗か脂汗をかき、おむつを

汚していたのでした。その後汚物を処理し、横にして休ませると

再び機嫌よく何かを遊び始めました。


分かった風に書いていますが、正直よく体感出来ていません。

でもここに書くことだけで、自分自身に言い聞かせるようで

あり、これが今の僕の挑戦なのです。


 

未来

不思議なもので、半世紀以上生き続けて、年老いてくると、

若いころよりも明らかに、その先は短くなっているにも関わらず

若い時よりも、未来のことを考えることが多くなってきます。

先が短いがゆえに、先が読み易いこともあるのでしょうが、

まだやり残した事が多くあって、残された時間内に

どうにかしてやり遂げたいと強く願っている心境なのに、

具体的に動き出せない自分がいるのです。でも気持ちが切迫

する中、時間は容赦なく無情にも過ぎて行きます。どうしよう。

さらに知り合いが次々逝ってしまうと人生は無常だ、はかない。

結果、毎日焦り始めているからなのです。自分はなぜに、どこに

向かっているのだろう。答えの出ないことを考え始め、

自分ひとりの禅問答が始まるのです。特にこれと言って、

とりえの無い自分にがっかりしてしまいます。だめだ、だめだ、

今の自分に、見切りをつけるようなことだけはよしておこう。

考え込んで、過去を振り返ると、自分が悲しい道化師に

なったみたいなのです。ただで得られるものなんて存在しない、

どんなものにも代償は払わなければならないのです。おそらく

人間誰しもが、過去を土台にする以外に、未来を考えることは

出来ないはずです。

強く意識的に自分を顧みない限り、人間の未来に対する行動は、

現在の行動の延長線上にしかないのです。


僕ら含めて、総じて、サラリーマンって人種は、時間の切り売り

なので、なまじっか苦労して手に入れたお金が、多過ぎず

少な過ぎず、中途半端に持っていると、手放すのが

惜しいのです。そうであるから目の前にチャンスが

巡ってきても、なかなか、それに飛び込むことができません。

持っている《もの》を失うことを恐れて、みすみすチャンスを

逃すことになりかねません。何かを得ようとするなら、

今持ってる何かを手放して、物理的に空間を作らないと、

新しい何かは入ることはできません。


我々には誰ひとりとして、先回りして未来を覗

(のぞ)き見することは出来ません。しかも未来を正確に

予見することも決して出来ません。たとえそうであっても、

楽しい明るい未来を夢見て、子供のように心躍らせて、

わくわくどきどき、することは、誰にだって出来るはずです。

何をお前ごときがの上からのもの言いのようですが、立て続けに

身に起こった事柄で、寒さと共に、つとに身に染みた事でした。


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。今日は思いつくままに、書きなぐってみました。


 

ナビゲーション

初めて出かける場所へ「目的地です。お疲れさまでした。」

カーナビって便利ですよね。数十年前ならともかく

現在、車の運転で、カーナビ使ったことのない人ってまず

居ないでしょう。科学の発展によって我々の生活は本当に

便利になったようです。カーナビの開発はすでに昭和時代から

始まっていました。当時から未来予想で《自動運転》の概念が

あったそうです。斬新な発想と豊かな才能を持つ人がその当時

から日本に居たなんて驚きです。当時僕なんて車内から道行く

女性を、目で追うてばかりで「発想」でなく「妄想」が日常

茶飯事でした。顔から火がでるような思いです。お恥ずかしい。


現在何処に居ても「目的地」さえ入力すれば、そこまで導いて

くれるなんて楽でいいですよね。でも時には最短距離や最速の

行程を選択してくれないことも、多くの頻度で発生しますが。

時にまわり道なんて、このあたり人生と似ていて面白いですね。

「設定」によっては高速道路を外したりと、通りたくない道も

除外することもできますが、度々「ルートを外れました。」と

音声で注意を喚起してくれます。いっそう、人生の途中でも

信頼できる何か(神様)から、そう言ってもらえればいいのに。

きっと楽かも。面倒くさい時が、人生多いですから、ね。


自殺者、精神疾患者の多い、まともじゃない現在の日本。

人生の未来を悲観したり、何度もドロップアウトして

人生の障壁と先の見えない時に人生のナビでもあれば楽

もしかして、近未来願望の未来世界で、自分の「目的」を

入力すれば、何でも自動で導いてくれる《人間人生の目的》の

ナビゲーションが、作られる時代が訪れてくるかもしれません。

その目的の空白欄には「お金持ち」や「世界一の美人」とか

「幸福な結婚」、「独裁者」、「不老不死」とかが

入力されるかもしれません。それが発明されれば

たとえ一刻(いっとき)の苦痛からでも、開放されて、明るい

未来の見通しが立ったなら、明日を生きる希望が生まれるやも。


僕なら「苦労しないで楽しく生きる」と入力しようかな。

「それは無理です。」「真面目に地道に努力を続けて下さい。」

とか諭され、説教されてしまいそうです。今、僕の人生振り

返って、もちろん《夢》はいっぱいありましたが、どれも

《ただの夢》で終わっています。結局楽なサラリーマン

なんて情けない。今となっては、《本気》じゃなかったって

ことでしょう。でもそれもただの言い訳ですね。自分に才能が

なかっただけなのです。だっていつの時代でも、才能のある者は

どのような境遇に置かれようと、悪い状況に陥ろうとも、必ず

乗り越えて、事を成して、名を残しています。結局は、


「意思あるところに、道は開ける」でしょうね。しかしこれも

どれだけ《言葉やことわざ》をたくさん知っていようが、

考えていようが、本当の《真理》そのものを知らない者には、

どれほど優秀で、完璧なナビゲーションが存在しても、

おそらく「目的地」にはたどりつけそうにありません。

「コースがそれました、リルートして下さい。」の連続で、

最後にも「目的地付近です」と、さまよってばかりでしょう。


でもそんな《人間人生の自動》のナビゲーションなんて絶対出来

っこないでしょう。だめだ。またやる前から無理って決めつける

僕の悪い癖。想像の世界くらい気楽に楽しまないと。喝(かつ)

僕は人間のナビゲーションにはどこか、うさん臭さを感じます。

その人間が自分の利害を最優先させてしまうのが人間の欠点。

機械であれば、多分人間に優劣を付けないで公平でしょうから。


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。夢の持てる明るい未来に、乾杯!!!


また明日から楽しく書こう!!


 

思い出

今朝の事。起きがけのコーヒーを、起き抜けのお茶に変更して

トイレでスッキリを感じて、「今日も調子が良いぞ」って

玄関に向かっている僕の背後から、妻の声が

「***さん、亡くなったって、、、」「ええっ」

上がっていた士気が、一気にふやけてしまいました。


僕の母親よりわずかに年上だったでしょうか。二年程前まで

数十年間我が家の近所に居を構え、旦那さんを亡くしてからは

ひとり暮らしをしていて、毎週妻の施術を受けられていた、

僕のお気に入りの《おばさん》でした。その穏やかで

優しい眼差(まなざ)し、ゆっくり、ゆったりとした

気取らない動作と飾らないしゃべり口調が、本当に

心いやされる、得(え)も言われぬ、心和(なご)まされる、

ご内儀(ないぎ)、おかみさんだったのでした。

ずっと昔から(僕が生まれる前から)知っている誰かのような人

数年前より物忘れが発症し始め、東京在住の息子さんの

世話にと、引っ越しされた数年後の便りが

《死の報告》とは寂しい限りです。特別に何かを話し、

何かをして頂いた、僕の人生の何かを変えたわけでもないし、

取り立てて僕自身の《何か》ではないのですが不思議と、

決して忘れられない懐かしい存在なのでした。


人生のすべてはやがて煙のように消えて無くなってしまいます。

でも《いつか》は、それらのすべては素晴らしい

《思い出》となって、きっとよみがえって来るはずです。

どのような形であれ。必ず。


今日はここまで。近藤浩二でした。ではまた。

今日は在りし日の***おばさんを思い出しながら、、、


施術後に「楽になった。ありがとう。」っと、またコーヒー

と菓子を召し上がって「美味しかった。ありがとう。」って

玄関を立ち去って行く小さな姿が思い出されます。拝。


 

喧嘩(けんか)

朝夕ともに涼しいというより、すっかり冬かと勘違いするほど

寒くなってしまいました。数日前、昼前の11時過ぎ車に

乗り込み、昼食を兼ね、隣町へと新鮮卵を購入に出発します。


秋晴れの中、草をなびかせる、でも穏やかな風、空には薄く

静かにたなびく雲、草木がもうじき色付き始める季節が迫って

来ています。秋の柔らかい光に導かれ、低い位置に

視線が移りました。ほんのりと肌寒く、車中から心地良く

秋景色を眺めていました。青空と取り囲む古い家並み、

川べりを走行中、うっすらと、緩やかに、わずかに

揺れ動く白い穂先が僕の視界を捉(とら)えました。

次の瞬間「ススキがいっぱい」確信が持てずとも、

思わず声が、、「あれ、ススキで?」いきなり聞かれて、

泡(あわ)食ってしまって、声が上ずってしまいました。

「えっ、、っと、、」、、押し込まれて、自尊心が

傷つきたくない僕は、しどろもどろと言い訳がましく

「ススキ科か、、ススキの仲間の植物やろ、、」との自己弁護に

走って、自己嫌悪が襲い掛かっていると「えっ、、ほんとに?」

と再度尋ねられ、さらに自己弁護を重ね塗りしてしまいました。

「そんなの、本人に聞いてみないと、分からないでしょ、、」

そんな僕の発言に嫌気がさしたのか妻の逆襲が始まりました。

「もう、ほんとに素直じゃないのね。大嫌い。」

「もっと素直になりなさい。」その時二人の視界に

本当の《ススキ》らしき一群が見えました。

「あれが、ススキですよ。」妻が強い口調で自慢気に

言い切っていました。僕にもなんとなく納得できましたが

なんだかその正当性が認められず、悔しくて抵抗しました。

「君はススキさんですか?」ダイコン役者が絵空事を論じます。

「私はススキではなくて、、鈴木ですよ」とオチをつけました。

「よく間違えられるのよ。気を付けてね。」「あっ、そっだね」


僕たち夫婦はつまらない、些細(ささい)な事でよく

揉(も)めます。お互い聞き流せば、済むことを生来の

負けず嫌いがそうさせるのでしょう。バカみたいです。その後

本気で喧嘩になって言い争いに至ります。良く言えば《本音》

でぶつかり合います。結果どちらも折れないから、互いを

ののしり合ってしばらくの間、沈黙になります。《時間》の経過

だけが、ふたりの《かすがい》として存在しているのです。でも

これで20年近く今もって365日二人だけで生活しています。


本音で傷つくならば構わない。でも、嘘で傷つくのならば

いたたまれない。理屈では理解できても、悪態をつかずには

いられない。これが人間の悲しいサガです。しかし互いに

相手をよく理解し合っているのでしょう。加えて根本的に人間を

愛しているのだなと思います。それは《本音》でぶつかり合う

からなのです。自分は勝たず、相手も負かさず、敬意を払って

《虚》(嘘)ではなく《誠》(本音)を振りかざす限りは、

相手を切っても、傷つけても、血は流れません。


得てしてとかく、我々は自分の正当性を言い張って

しまいがちです。しかし一方の正当性の反対は

《また別の正当性》であることを引き合いに出すまでもなく、

論争は相手に歩み寄る気持ちが、無い限り、平行線なのです。

夫婦喧嘩はたいがいこれでしょう。したがって結論は、

第三者が、客観的に下す以外に答えは出ません。結局

ほとんどの人は残念ながら、その言葉に、

生き方が追いついていないものです。


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。今日も楽しんで書けました。


 

貯金

新しい週になりました、、、今朝、、、、目覚めとともに

先日視聴したBSテレビの字幕が頭をよぎりました。

「地球の《表情》は、その内部でふつふつと沸き上がっている、

マグマの大きなエネルギーの流れによって、ダイナミックに

形成されました。」と心の中で黙読したと同時に

その時の深紅(しんく)のマグマのダイナミックな

動きが映像となって強烈によみがえって脳内を占拠(せんきょ)

しました。おかげでトイレ内で、最近元気のない男性自身を

手にして、年齢のせいだとばかりに決めつけ、へこんでいた

気持ちにむちを打つことができました。その後


洗面所の鏡に映っている、覇気(はき)のない目元を

手でこすって洗っていると、何事においても少しやる気の失せた

原因を探(さぐ)ってみようと考えてみました。日課の

ルーティンを変更してパソコンを立ち上げ、メールと

ブログのチェックをしてみました。ここ最近の自分の

ブログを読み返して、はたと気が付きました。客観的に視て

ありふれた発想、貧困な切り口、当たり前すぎる

面白くない内容に、思わずゲロが出そうになりそうでした。

原因は即座に思い当たりました。思考力の低下、こう着状態に

陥っているからなのでした。昔から「小人(しょうにん)

閑居(かんきょ)して不善をなす。」と言われますが、僕の場合

「小人閑居して、《こと》を行わず」なのでした。近々


仕事量が減るにつれて、自由な時間が増えてしまって

寝て、起きて、食べて、小言を言っては、自己嫌悪に陥って

また食べて、少し仕事をして、動いて、食べて、寝て、、、、

といった、極めて創造力のかけらもない人間らしくない、

「なまけもの」の体(てい)たらくな、ぐうたらを

過ごしていたかもしれない、との内省に

至ったのでありました。でも「後の祭り」です。


「時は金なり」といったメタファーがありますが

「時間はお金と同じくらい大切なものなのです。」といった

戒(いまし)めでしょうが、実際には「時間はお金、以上に

重要なものなのです。」ご存知のように、時間は何の制約も

受けることなく流れ去って行ってしまいます。

平家物語で白河法皇は「加茂川の水、双六の賽(さい)の目

山法師、これぞわが心にかなわぬもの。」また方丈記で鴨長明は

「行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」と

古来より、流れて過ぎ去っていくものは、止めることができない

人間の思い通りにならないと、世の無常を嘆いていました。

現代においても、河の流れはともかく、時間の流れは

人智の及ばざる事柄です。


生まれながらに、不平等、不公平に与えられているもの

《お金》等は、自分自身の努力、裁量でその量や多さは

どうにかすることが出来ます。一方、生まれながらに人間に

平等に与えられているモノの《寿命》と《時間》は自分の

モノであるにも関わらず、自分の思い通りに取り扱うことが

出来ません。どちらも手元に留(とど)め置くことが

出来ないのです。言い換えるならば、貯蓄(貯金)がどちらも

出来ないのです、誰しもが、歳を取り続け、時間を

さかのぼって、戻ることなど出来ないのです。

神様のすることは人間の理解の範疇を超えています。


現実に目に出来るモノは、自由にため込んで好きな時に

取り出して使用することが出来ます。しかし「光陰矢の如し」

です。まさに《チャンスは貯蓄出来ません》。


手元の現金(モノ)が少なくなれば改めて、その存在の重要性

大切さに気付かされ、注意深く慎重丁寧に取り扱います。しかし

少し現金(モノ)に余裕が出来ると、人はとかく、倹約を忘れて

しまって、ついつい、ぞんざいに扱ってしまいがちです。

大切なものほど、失って初めて気付かされるものなのです。

その時には残念ながら、もう手遅れなのです。


貯金のできる《モノ》より、貯金の出来ない《モノ》をもっと

大切にしようと痛切に感じた、57歳、平成最後の秋の

盛りの一日でした。何事も無駄のなく、効率良くなど

生きれない、利口者でない、小馬鹿で小心者の僕なのでした。


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。次も楽しんで書こう!


 

 

 

歴史(井伊直弼)

一期一会(いちごいちえ)ご存知ですよね。本当はもっと深遠で

人生にとって有益な教訓なのでしょうが要約すると、今この時は

生涯に一回しかないと考えて、そのことに専念する意味。

語源はもちろん、安土桃山時代の茶人、千利休の茶の湯の

心得にあったとされています。しかし最初に書物に記載した人物

は歴史上、大悪人と揶揄(やゆ)されていた、幕末のあの大老の

井伊直弼(なおすけ)なのでした。著書『茶湯一會集』の巻頭

には有名な「一期一会」があるのです。でもそんな彼も、

幕末期、多くの維新志士を断罪(だんざい)し、死に

至らしめたとして、明治維新以降、その評価は最悪でした。

しかしです。明治時代の終わりごろから、再評価されるよう

になったのです。なぜ? ここで日本史の再検証です。僕は今

歴史にはまっていて、隙間時間に様々なメディアで視聴を

楽しんでいます。この時間が「あっ、いいな」って

恍惚(こうこつ)としています。


近代日本史の大きな転換点のひとつ。通常、幕末

(約15年間)と言われる、武家政権の終焉(しゅうえん)

(1868年)のきっかけとなる事件。1853(嘉永6)年

(いやでござんす)黒船来航。米国ペリー率いる艦船4隻が

大統領の国書を携えて江戸湾浦賀(現在横須賀市)に寄港。

当時13代将軍、家定は病弱で国政は無理。老中首座の

阿部正弘(備後福山藩)は各藩に相談するも、開国派

(井伊直弼等)と反対派(水戸藩徳川斉昭等)の対立は激しく、

その対処に苦悩していました。そんな中、直弼は大老に

就任しました。その後米国総領事ハリスから早急に開国を

要求されました。諸藩に意見を求めるも、開国やむなしと

考えていた直弼は、反対派の説得に努めましたが、色よい返事が

得られず、特に徳川斉昭(なりあき)が強硬に反対して

いました。そのため回答を引き延ばしていましたが、都の天皇に

勅許(ちょっきょ)を得られないまま、調印してしまいました。


井伊直弼は彦根藩(今の滋賀県)で11代藩主、井伊直中の

14男として誕生しました。将来、藩主になれる見込みは

極めてありませんでした。しかし彼は世の中を恨んだり、出世の

夢を抱いたりしないで、ただひたすら埋もれ木のように

こもって、自分のなすべき事をやっていこうとしたのです。

宛行扶持(あてがいぶち)と言って、一方的に与えられるわずか

な手当てで、自分の住居を埋木庵(うもれぎあん)と呼んで

300俵で部屋住みとして、慎(つつ)ましく

暮らしていました。しかし幸運にも36歳で藩主になるまで

なすべき事は多岐にわたり、武芸では居合の新派を創設。

焼き物、能、狂言、最も傾倒したのが茶の湯で、禅に通じる

内なる心を重視して「一期一会」の言葉を残しました。

一方で庭に見える柳の木に強い愛着を持って自らの

雅号(ペンネーム)も「柳王舎(やなぎわのや)」と

名乗るほどに。というのも柳の木は、太い幹はしっかりと

地に足をつけて、しかし枝や葉は風の流れに逆らわずに、

優雅に流れる。そんな柳の姿にあこがれて、自分もそう

ありたいと考えていました。36歳の時、藩主の兄がなくなり、

兄弟のすべての兄が養子に出されていたため13代

彦根藩藩主になりました。彼は儒学者の教えから多くの家臣や

民衆に耳を傾けていきました。領内をくまなく視察し

生活困窮者にお金、食物を分け与えていました。直弼の歌。

恵までは あるべきものか 道のべに 迎える民の 慕う誠に

(慈しまずにいられるものか 道端で出迎えてくれる民が私を

慕う誠の心を思えば)逸話として、この歌に、かの吉田松陰は

感涙にむせび感激したそうです。だが運命とは残酷なものです。

直弼はそんな松蔭を無残にも殺してしまうのでした。


この頃日本近海に出没する外国船が増えていました。

彦根藩は三浦半島の警備を担わされたのです。しかし

250年間太平の世が続く中、武士の士気は下がり警備体制は

お粗末でした。直弼はその実態に強い衝撃を受けたのでした。

なおのこと、この時期に外国との戦争は、到底勝ち目がないこと

は十分認識していました。ここで直弼のとった行動を理解する

ため当時の世界情勢を把握していなければなりません。


18世紀後半、英国で産業革命が起こり、蒸気船が造られ

大きな船に大砲が搭載され、戦闘力が格段に向上しました。

1840年、清国は英国にアヘン戦争、フランスにアロー戦争で

敗れ、不平等条約を締結し、香港を割譲しました。米国は捕鯨の

目的で太平洋を航海中、拠点の必要から日本に貿易を(開国)

望んでいました。当初は紳士的であった米国も、早急

(さっきゅう)な回答を出せない日本に徐々に苛立ち、

力づくで開国させようと考え初めていました。

直弼の判断は正しかったのです。《歴史は思想が造る》そうです

当時武士は朱子学を熱心に学んでいました。朱子学とは中国から

の学問です。「中華思想」が根底にあります。中華思想は

自分たちが一番。他から学ぶこと無し。との考えが主流。

開国などもってのほか、なおのこと、家康を神と仰ぐ

御三家の水戸藩は当然、諸藩の藩主の多数は開国反対でした。


彦根藩、井伊家は大河ドラマの女城主、井伊直虎にあって

養子であった、徳川四天王のひとり、井伊直政が初代藩主

でした。すなわち、井伊家は徳川幕府260年を支えた

名門でした。幕政の重要ポストを担い続けていました。

改めて、直弼の下した開国と言う決断は今から考えても正し

かったのです。たとえ諸藩の意見をまとめることが

できなかっても、天皇の勅許を得られずともです。

特筆すべきは当時の彼の心情が書物に残って

いるのです。----しばらくは戦争を避け貿易

を行うべきである。勇威を海外に振るうことができる

ようになれば、内外共に充実し、かえって皇国安泰に

なるはずである。---- と。実際その後、時代は直弼の

想像通りになっています。しかし不幸にも当時の時代の

流れが、彼を《赤鬼》と呼ばれるまでに、ならしめたのです。

ひとつは14代将軍継嗣(けいし)問題において

徳川斉昭との対立です。さらには、戊午(ぼご)の密勅と

言われる、孝明天皇が水戸藩に勅書を送った、前代未聞の

事件でした。古き良き伝統を重んじる直弼は、天皇に

このような行動をとらせた、良くない危険分子が、

はびこっている、世情を正すべきだと、

多くの維新志士を捕縛し、処罰してしまいました。

世にいう「安政の大獄」です。これにより彼の評価を地に

落としめ、自分の命運すら尽きさせたのです。水戸藩浪士による

「桜田門外の変」でした。当日命の危険は予測できていて

警護の者を増やすように進言されたにも関わらず、警護の

人数は規則で決まっていると、あくまで伝統を守ろうと

こだわったのです。暗殺前日に詠んだ辞世の歌です。

咲きかけし  たけき心の 花ふさはーーーー

ーーーー散りてぞいとど  の匂ひぬる

道半(なか)ばではあるが、国を想ってきた熱い自分の気持ち

は、自分の死後、きっと後世に理解されるだろう。直弼は自分が

もうすぐ殺されると解っていたのです。

むしろ死ぬ気だったのでしょう。なんて哀れで、みじめな人生!


歴史を知っている我々は、当時日本国を外国の侵略から救った

者は坂本龍馬であり西郷隆盛といった、薩長土肥の志士たち、

だけであったと考えがちですが、時代の状況をしっかり把握して

たとえ独裁者と揶揄されようと、リーダーとしての、決断力

と実行力を持ち合わせていた直弼の存在は無視できません。


直弼にとって不幸だったのは、彼の良い所でもあり悪い所でも

あるのでしょうが、移り変わる時代の中、変わるべき、

変えるべきところを、伝統にこだわり過ぎて、固辞して

変わらなかった、変えなかったところに、直弼の天命を

視た気がします。でも私的には、敬意を持てて大好きな人。


伝統さえ守れば、徳川幕府も日本国も守られ、ひいては民衆も

守られると信じて疑わなかった、頑固さも「安政の大獄」

といった日本史上まれな、非道に走らせた要因だったの

でしょう。いやー歴史って面白いですね。


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。


 

地球事変(酸素)

 

諸説はありますが、地球が誕生して約46億年。

人類が誕生して650万年から300万年。勉強になる?

昨日視聴したお気に入りのチャンネル、BSプレミアムの番組

「ギガ・ミステリー(地球事変)」って本当に面白い。

知的好奇心がくすぐられる。こちょこちょ、こちょこちょ。


ご存知のように、自身で栄養を作成できない、我々動物は

酸素を取り入れて、食物(有機物)をエネルギーに

変換して生命を維持しています。視点を変えれば、この地球上で

大きなターニングポイントは約27億年前、深海から吹き出す熱

水付近で何かのきっかけ(突然変異)で出現した

「シアノバクテリア」と呼ばれる微生物の果たした

役割なのです。彼らは太陽光で光合成をして自ら栄養を作って

生活するのだが、光合成の副産物として酸素を水中に

放出します。太陽光さえあれば、生きていける彼らは

これといって天敵が存在しなかったこともあって、陸付近の

海水中に無尽蔵に増殖しました。これによって彼らの放出した

酸素が海水及び地球上に充満しました。


高酸素濃度になったおかげで約5億年前に最初の、そこそこの

大きさの海生動物である、えびやカニの仲間である、三葉虫が

出現しました。これが人類誕生の広い意味での起源なのです。

さらに背骨を持った魚類が出現します。この後、生物は

海中から陸上へも、生活の場を変えていきます。


27億年以前には陸上は、太陽光の紫外線が強過ぎて生物が

生息できませんでした。しかし「シアノバクテリア」の

おかげで当時陸上は、高酸素濃度(約50%)でした。

同時に太陽に近い場所で、酸素が紫外線と反応して多くの

オゾンが出来ました。そのためオゾンによって太陽光の

紫外線が遮(さえぎ)られて、陸上で生物が生活できる

ようになったのです。さらに植物も陸上に繁殖し、

陸上は緑いっぱいで覆われていました。

そのため、陸上では酸素濃度はさらに上がり約85%まで

高くなりました。その結果動物は、多様化と大型化へと

変貌しました。その後2億5千年前に恐竜が出現しました。

しかし天変地異のため、植物の多くが死に絶えてしまいました。

そのため酸素濃度は下がり、低酸素濃度になり恐竜の多くは

生きることが出来なくなりました。ここで進化がありました。

気のうと呼ばれる呼吸器官を持った鳥類の出現でした。同時期

爬虫(はちゅう)類から、突然変異で進化した人類の祖先に

あたる、低酸素濃度(約21%)でも生きていける、

ネズミのような、身体の小さな哺乳動物も出現しました。


650万年前、霊長類が現れ、180万年前ホモサピエンスが

来ました。そして20万年前、旧人類から新人類へと進化して

現在の人類に最も近い人間が低酸素濃度(約21%)内で

今も生き続けています。


地球上で命が、突然変異という進化の最後の切り札で誕生して

以来、気の遠くなるような長い年月をかけて、様々な厳しい環境

にも適応して、進化を繰り返し、現在のような多種多様な生物が

共存共栄しています。しかしその陰には、誰かと結びつきたい

ひとりでは寂しいと言って、さまよっていた《酸素》という

特殊な元素が多くの命を紡(つむ)いできた歴史があるのです。


将来ある時、神様が何かの引き金を引いて、《自然の摂理》に

変化が起こり、想像できないような、我々人類の生活環境が

大きく変貌したとしたなら、人類はそれにうまく適応することは

出来るのだろうか? それとも人類はさらに何かに進化して

新しい地球の支配者が出現するのでしょうか? その時

我々人類は何の祖先とよばれるのでしょうか?

想像は尽きない。おっと、そろそろ行かなければ。


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。


追伸、ここで進化の原動力であり、だまされた感いっぱいの

「突然変異」とは? ググってみました。

生物やウイルスが持つ遺伝物質の質的・量的変化。および、

その変化によって生じる状態。らしい、なんか納得できないので

僕はこれに、因果関係の無い変化とも付け加えます。


 

 

 

(Blog to Soul)水素風呂と時代劇と音楽を愛する左半身麻痺の塾講師