なつぞら

日和(ひより)続きの今日この頃、毎朝泣かされています。じっ

ちゃん、ずるい。涙腺の崩壊の毎日です。歳をとるとほんとに

涙もろい。ところで涙もろくなるのは、過去の人生で、涙を流す

ような艱難辛苦(かんなんしんく)を数多く味わってきて、耐え

忍んできた証なのだそうです。それを天が、そのような苦しみを

持ったまま、黄泉(よみ)の国に逝ってほしくなくて、涙を流さ

せて浄化させるのです。そしてその過去を顕在か潜在意識の記憶

の中から取り除かせてるのです。老いてから、やっと天の許しを

得て、自分自身を癒して、美しい思いを抱いて、いつの日か還っ

て来てもらいたのです。戦争のせいで、両親を亡くし、孤児


(みなしご)になってばらばらに暮らすようになった三人兄妹。

北海道酪農家に住む、真ん中の姉(奥原なつ、広瀬すず)が、

人との出会いを通して、アニメの世界に魅せられ、成長していく

姿を感動的に描かれるであろう(まだ物語は始まったばかりなの

で、憶測の範囲です)夏の季節に向けて春から始まった「朝の

連続テレビ小説」。僕はとりわけ、気楽に観える、素敵な話が

大好きです。偶然の出会いが、これから始まる物語の幕開け

でした。そしてこの偶然の出会いの連続が、物語を動かして

いきます。話は逸れますが、人はよく世の中《偶然》はなく、

全ては《必然》なのですと言い切る人が居ますが、人間が

思いも及ばない《因果関係》で物事が決定されるならば、

《人智》の及ばないそれは、もはや人には成す術(すべ)

無しなので、必然なのではなく偶然なのでは? ただ自分が

説明出来ない結果の着地を、必然とすればスッキリするからかな


人生は間違いなく、ご縁の賜物です。世界中には知らない人がた

くさんいます。誰とご縁するかで、人生は大きく変化して行きま

す。その出会いは、偶然か必然か? ったく。まだはっきり

と全体像が見えてこないので、憶測の枠は出ませんが、多分、

テーマは《純粋》だけで人は生きられるのか? 様々な問題を

放棄した人間より、この問題と共に生きる人間を我々は愛し信じ

ます。人を信頼し、素直に正直に、優しく生きることは極めて

大切だとは思います。しかし現実は厳しい。そこで《純粋》の他

に柔軟な鎧を身にまとって、頑固で無愛想な人の心をも溶かし、

心を通い合わせていくのです。それは《謙虚》《忍耐》《節度》

《寛大》等であって、しかも何事にも惜しみなく愛情を注ぐので

す。その結果、多くの人々の心を動かしていくのです。人は

誰もが自分の《居場所》を求め、もがき苦しみ、息詰まる思いで

命を枯らすように、身もだえするのです。自分の足元が切り崩さ

れていくような不安感を覚えるのです。その結果人間は

自分が解決できていない問題を、他者を通じて解決しようとする

ようになるのです。自分は何もやらないまま、他人を羨

(うらや)んで、不満を募らせて、不機嫌をばらまいて

言い訳を重ねてしまうのです。ここでその《居場所》とは、

場所であったり、人間であったり、モノであったりするのです。

しかしとどのつまり、それは《心》以外あり得ません。それは

何かを真剣に思い続ける《自分の心》なのです。


人生を切り開く突破口は、ひょとするとすごく単純な事柄で解決

できるのかもしれません。人間の欲望と犯罪が渦巻く、この世の

中では、《純粋》な生き方だけでは世渡りができません。人は

はたまた、純粋な心は大切にしつつ、懐深く、度量の大きさが

必要です。周りの目を気にしないで自分本位に生きると、結果的

に社会から孤立するでしょう。


《素直さ》《飾らない美しさ》《裏表のない心》

不平不満文句を言わず、ひたむきに一生懸命に頑張る、に尽きる

のです。思ったことを何も考えず、 そのまま口に出すのは、

嫌われる人・・思ったことを伝えるのが怖くて、何も言わない

のは、忘れられる人・・思ったことを相手が受け取りやすく、

話すのが、好かれる人・・・ 自分はどれですか?


レイモンド・チャンドラーは、かくのたまいました。

「強くなければ生きていけない。

優しくなければ、生きる資格はない。」

彼風に申すなら、

「《愚か》では生きていけない。

《純粋》でなければ、生きる権利はない。しかし、

《ひたむき》でなければ、生き続けられない。」


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。PS I LOVE YOU.


この番組の主題歌、毎回素晴らしいです。毎日数回

番組放送時に、声に出して、身体ゆすって、リズムとりながら

歌っています。ストレス解消されます。


 

桜の散り際

どれほどの歳月が流れようが、どんなに寒い冬が来ても・・・

必ず春が訪れ桜が見れますよね。心が和みます。しかし命には

必ず終わりがあります。陽の光漂うその道脇に・・・ そして

大好きな風景に今日も風が吹いています。まるで悠久の風を

受けるように、歴史を紡ぐように咲き続けている桜。近くで、

はためいた旗がいつまでもなびいています。道端の至る所で

ピンクのじゅうたんが見られます。桜の木々から内なる声が

聞こえて来ました。「おいおいおいおい・・てめえたち、

この桜ふぶき、散らせるもんなら、散らせてみあがれ? 」

その時です。突然一陣の風が・・・「ヒューーン」見事に、

ひとひら、ふたひら、広げた手のひらの上に、次々に乗って

いきます。季節を肌で感じられる時節です。単調な自然にも、

その自然の中に身を委(ゆだ)ねれば、楽しい現象です。

陽の光に囲まれ、全身を少し冷たい風で吹き突かれながら、

大切なものを護り抜き、散り死んでいくモノ達がいます。

男は、死ぬ間際、空を見上げながら「楽しかったな」と呟き

ました。たまらない《ジン》とくる死に方だな、と、思います。

自然の大きな木を見ていると、確かに人間は育ちます。畏敬

の念、尊敬するモノってあります。自然は観るものではなく、

感じるモノです。観察するって感じる事。


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。P.S. I LOVE YOU.


今日はかなり早起きしました。

58の春に思う

4月に入って、春真っ盛り。春うららかな晴天の空の下、視線の

先には、繰り広げられる花々の共演。薄青空色にはピンク色、

土色と緑色の中には、黄色や白色がほのかに浮かび出て、映え

上がっています。半分眠い状態から、目覚めました。のどかな

景色です。思いの全てが一瞬消えてしまいました。自然の事物は

人の心を鎮めてくれます。嫌なことを忘れさせ、心穏やかに

なれます。そして誰もがきっと、四季を実感させる、野に咲く

花々や、木々に散らばり、溢れ開く花弁を、同じように美しいと

心を残す者なら誰もが感じるのでしょう。誰にも心があるの

です。けれども奇妙な事に、そんな目の前の事象に関わらず、

人は自分の思考に常に苛(さいな)まれるのです。何気に歳を

重ねたからこそ、シンプルでなく、少し深い事を考えてし

まうのです。毎日ネットで見られる僕の誕生日占いによると、

「生命力にあふれ、積極的で行動力に富む」らしいのですが、

本当かな? 誕生日から数日が過ぎ、定数化できてしまい、

残されるであろう、自分の有限の人生。もう58にもなれば、


おそらく、毎日一日、一日が、神様からのプレゼントの様です。

だから、そんな日々は粗末に扱えないでしょう。ぞんざいに

扱えば、それこそ冒涜(ぼうとく)、大罪になってしまいます。

そこでふと考えてしまいました。もしこの世の中で、今、僕が居

る世界と、僕が居ない世界との間に、どれほどの隔たり、違いが

あるのだろうかな? 仮に隔たりがゼロだったら、どうしよう?

僕が居ても、居なくても、この世界が同じなのだろうか?

どうなんだろう? 答えは知る由もない。どれほど違うかで

僕の人間としての価値が決定されそうです。ずっこけて、はい

つくばって、突き飛ばされたり、すかされたりし続けている僕の

人生。どれだけの人に、どれほど影響を与えているのだろうか?

今回の誕生日をきっかけに、やり直しの人生もいいかも、って

思いました。今まで僕の人生、たまたま目の前にある事象を

ひとつひとつ、こつこつと、こなしていって、今があるのです。

常にあるのは、やるかやらないか、の二択だけなのです。

生き続けるためだけに、《やる》を選択し続けたのです。

人には、生きる道はふたつとありません。選べる道は

目の前にいっぱいありますが、実際に進める道はひとつ

しかありません。偶然の連続の流転(るてん)の末、今

僕の居るこの世界では、全ては《天の配剤》なのでしょう。

人とは欲深い生き物なのに、社会の中では奇妙なことに人々は、

自分の思い通りに、自分を生きることよりも、他人の目を気に

して、お互いが厳しく監視し合って、生きる世の中になってい

ます。となると、他人の評価で、人生の価値は決まってしまう

ものなのでしょうか。人の人生は、天皇であれ、誰であれ、

《その人の人生の価値は、その人生を送った人、その本人にしか

わからない》はずだと思います。社会の中で生きていかなけば

ならない運命ならば、その呪縛から逃れられないのか。何を

もって成功と呼ぶのでしょうか? 何をもって幸せと言うの

でしょうか? 何をもって不幸せと言うのでしょうか?

人の価値って何なのでしょうか? 人生って何なのでしょうか?

答えが出せない分、考えさせられます。いずれにしろ、

厚かましく生きて生かさせて頂きます。


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。PS I LOVE YOU.


読んでくれている《あなた(YOU)》が存在する限り、

この紙面には意義を見出せます。本当にありがとうございます。


 

誕生日

そこは家から10分程のところでした。助手席に乗り込むと

妻が「今日おいちゃん、誕生日よ」と、同時に後ろを振り返ると

「おいちゃん、お誕生日おめでとう!!!」と5歳の女の子が

僕に笑顔を投げかけてくれました。時を置かず、2歳の弟君まで

も「あっ、おいちゃん、誕生日おめでとう!!!」と口にしたの

です。「ありがとうね、ふたりとも」と返すと、お姉ちゃんが

「ほんとは、プレゼントあげたいのに・・・」

「分かってたら、家から持って来たのに・・・」と大人顔負けの

ませたセリフに、感じやすい僕は正直泣きそうになりました。

幼稚園で躾(しつけ)の一環で覚えさせられたのでしょうが

初対面の大人の男性に、強制された訳でもないのに、なんの屈託

も無く反射的に口に出せるのです。《恐れいりやのきしぼじん》

一方最近、リハビリ通所で4月から誕生日祝いが突然取りやめに

なり、残念に思っていたところだっただけに、不意の心遣いに

感激いっぱいでした。どんな時代、どんな境遇であろうが、どん

な人生を送ろうが、誰もが持っている、本人の唯一無二の記念日

である誕生日。絶対、誰だって祝福されたいはず。


どこで、どんな風に祝うかは、個人によって様々でしょうが

想定内の演出は《ふーん、》て感じですが、まったく

予想だにしていない出来事に、僕の心は大きく揺さぶられま

した。数分後到着した場所は市民グラウンドに隣接した幼児

公園。僕はひとり車に残り、妻と子供達がふわふわドームで

戯れているのを眺めていました。風が強く肌寒かったのですが、

少し陽に当たろうと降車して、のそのそと杖をついて

歩いていると、お姉ちゃんが僕に近づいて来て、僕の顔を見なが

ら「大丈夫? 大丈夫?」って何度も聞いてくるのです。笑顔で

「うん、大丈夫よ!!」って答えそれでも、のそのそと歩いて

いると、今度は僕の少し後ろに回って、僕の左腰を軽く触って

「大丈夫。大丈夫」と声掛けをしながら一緒に歩いてくれたので

す。言葉に出来ないくらい感激、心動かされました。「ほんとに

ありがとうね。**ちゃん」と言って顔を覗き込みました。

二重瞼のパッチリおめ目に、バランスのとれた品性の良い、

とっても可愛い顔立ちにびっくりしました。性根が良いから、

素顔が素敵なのか、見た目が良いから、心根も良いのでしょ

うか、どちらにしても、早熟で、めんこい素敵な女の子との

出会いに感謝感激。夕食は居酒屋で乾杯。雇われ女性店員まで

も「なんにもないね・・・・ハッピーバースデー」て、祝福して

くれました。注目の新元号の話題より先に言ってもらえました。

歳をとらないと味わえない幸せもあることを再認識。


帰りの車中。僕らの近くまで身を乗り出して「おなら出た」

少しも悪びれる素振りも無く言い放ちました。その後

僕たちの会話の中で「はい、はい」と、どちらかが言うと

「はい、は一回」と、後ろから、突っ込んできます。

こうして僕たちはわずか半日で、とっても仲良しになりました。

これは人生おける、変動しうる幸福の最大値の、ひとつの出会い

といえるでしょう。58歳になった僕の人生。

まだまだあるじゃないか・・面白いじゃないか・・・

姿勢はエンジョイ。知識はぼちぼち。子供たちとのゆるふわ

交友関係。微笑ましくも、軽ーい関係であっても、人生を

色鮮やかに彩(いろど)るのでしょう。普通、幸せな人間は

自分に正直で素直です。そして自分の幸せに集中するもので

しょう。この素直な思いを正直に表現する人間を僕は愛します。

その上で、自分が「この人は素敵だ!」と思った人と出逢った

際に、恥ずかしくない自分でありたい。まだまだ人生の醍醐味

を見つけよう、探そう、求めよう、手を伸ばし続けよう、そこに

辿(たど)り着こう、まだまだ、いたずらに過ごしてなんか

いられない、安穏(あんのん)として居られない、と思いを

新たにした58回目の誕生日でした。ベストセラー

『七つの習慣』の著者は言っています。「 最も大切なこと

は、最も大切なことを、最も大切にすることである」今後は

これを実践していこう。人生には色々な生き方があります。

《自由に生きる》生き方だって、《豊かに生きる》生き方だっ

て、《自分らしく生きる》生き方だって、ただし無理をしないで

楽しみながら生きようと思っています。今後ともよろしくです。


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。PS I LOVE YOU.


陽の気配が感じられるが、闇がまだ、少しずつ入り混じって

いる、春の明け方。まだまだ肌寒いため、布団の中でごそごそ、

夢うつつの内に時間がいたずらに過ぎて行く。とてつもなく

贅沢な目覚めを頂く。そんな寒の戻りの朝を迎えた誕生日。

ファーストペンギン

起業家と呼ばれる人たちがリスクを恐れず、リスクを背負って

新たな事業に挑むベンチャー精神の持ち主。とはネットで調べた

ファーストペンギンの説明。「語源」はペンギンの習性から生ま

れた言葉で、ビジネス界隈でよく用いられます。氷原にポカリと

穴が空いた時。ほとんどのペンギンは穴の周りに集まり、中を

のぞみ込み、中に、食料の魚は居ないか、天敵の大きな肉食獣は

居ないか、氷上から中の様子を窺(うかが)います。大多数の

ペンギンは食料の獲得よりも、命の危険を心配して、飛び込も

うとはしません。そこに笑みを浮かべ、スタスタ、ひょこひょこ

とやって来たのは、お腹を空かせた大胆不敵な一匹のペンギン。

奴は周りが顔を見合わせ、飛び込むのをためらっているのを

尻目に、ドボンって穴の中に飛び込むのです。この段階では


まだ周りのペンギンは、一匹も飛び込みません。目の前で飛び込

んだペンギンの、顛末(てんまつ)をうかがい注視しているの

です。奴が多くの魚を土産に持参して、無事に還って来るのか、

血だらけになって猛獣に食べられてしまうのか。その結末を

凝視、無事に魚を持って還った様子を観て、確実に安堵して、

食料にありつけるのを認識して、初めて一斉(いっせい)に

飛び込むのです。そうして誰もが食料にありつくことが

出来るのです。時には、最初のペンギンの動向を最後まで

確認せずとも、安全で魚をゲット出来るだろうと、5割以上の

見込みを信じて、2番目、3番目に飛び込むペンギンも存在しま

す。広く知られるようになったのは、NHK朝の連続ドラマ「あ

さが来た」で五代友厚がヒロインのあさに、ペンギンの写真を

見せ「ファーストペンギン」の大切さを説(と)いた時で

しょうか。先日半年間続いた朝ドラ、NHKドラマ「まんぷく」

のモデルの安藤百福さんは、まさにその「ファーストペンギン」


と言えるでしょう。閉塞していた時代に、風穴を開けて新しい

爽やかな風を吹かせて、人々を快くさせて、元気を与え幸福に

した者達。その呼び名はまさに強大な尊敬に値する称号なの

です。しかしです。歴史をさかのぼってみると、

彼らのほとんどは、その勇気と忍耐と労力に見合うだけの、

見返りを受け取ることは、大概ありませんでした。ハイリスク

なのにハイリターンじゃないのです。ファーストペンギンよりも

セカンドペンギン。セカンドペンギンよりサードペンギンの方

が繁栄を長く維持するのです。それぞれの時代にも誰にも役割

があるって事なのでしょうか? 新たな時代を切り開こうとする

ような人間は誰よりも早く、先に走り始めるのです。しかも2歩

も3歩も先を走りたがるのです。でも先走り過ぎ、頑張ってしま

うため、目先が見えない時があって、誰も歩いていない道という

ことも重なって、その道中は過酷を極め、嵐が襲い、遭難寸前で

す。結果、迷い込み、躓(つまづ)いて、倒れてしまう事が多い

のです。それは先駆者として、避けられない運命なのです。

2歩や3歩までも行かなくても、程良く半歩先に行く人間が、

2歩3歩先を行く者が倒れた様子を注意深く観察して、

学習するのです。それから同じ失敗をしないように改善案を

実行に移して、先駆者が落としてしまった、より美味しくて、

さらに大きい果実を拾い上げていくのです。二番手戦略の優位性

とでも言いましょうか。欧米の車企業より《トヨタ》。《アップ

ル》より《マイクロソフト》。《ソニー》より《松下電業》。

信長より秀吉、家康。等の歴史がそれを物語っています。しかし


何より喜ばしいことに、今も全世界で年間数億食売れ続けている

今世紀最大の発明品と言われるカップ麺の発明者の百福氏は、

日清食品の創業者で、生涯(享年96)現役の発明家。名実共に

成功した、偉大な実業家兼発明家。「ファーストペンギン」

として、真に活躍した数少ない成功者。ドラマでは多くの辛苦を

経験、飢えて豚並みに落ちぶれて、臭い飯を食べて生き延びたり

即席めんの類似品、粗悪品に悩まされ、利益を度外視して

即席めんの協会の立ち上げに尽力しました。ここで概して、


人間を含む全ての生物は、絶えず変化する不確実な環境に適応

しながら今日まで生き延びてきています。不確実な状況において

は、群れの誰かがチャレンジャーになって、不確実な現実と格闘

し、新たな活路を見出さなければなりません。もし全員が過度に

自己防衛本能を働かせ、不確実性を避けて、行動を起こさなけれ

ば、群れ全体が滅んでしまいます。このジレンマを乗り越えるた

めに、生物は進化の過程で《不確実性を好む脳》を発達させてき

たらしいことが、最近の脳科学研究で明らかになっています。


ドラマでは多くの大切な教訓を我々は得ることができます。

まずひとつは成功者の典型的な行動力と言えるでしょうか。

「言うは易く、行うは難し」ですが、

1とにかく挑戦してやってみる、少しでも可能性があれば何でも

実行してみるということ。つまり、《バカバカしい》とか《意味

がない》とか言って、やらずじまいなやつらは、結局そこまでし

て成長したくないという事。『やらない』という行動を通して、

無理してまで成長しなくても良いと言う自分を正当化しているの

です。2もうひとつは《世の中の役に立つ》と言う揺るがない信

念を曲げることなく貫いたのです。またそれが行動の源泉にも

なっているのです。

3・そしてどんな人の言葉にも耳を傾ける《謙虚》

4・《既成概念》に捕われない《柔軟な思考》

5・自信を持つのに根拠はいらない・・自分は出来ると思い込む

だけ・・ やれば出来る・・成し遂げるまで頑張る。

6・神経質過ぎるほどの注意力による《観察眼》等でしょうか。


昭和の時代には、人は結婚して子供を授かって、家族を作ること

に値打ちがありました。言うまでもなく、人間は、子孫を多く

残し、繁栄させることに本来の価値があります。しかるに、

平成の世であった時代には、科学の著しい進歩に伴って、日常

生活では、身の周りにはモノが、社会には、未だ矛盾が溢れか

えっていました。昭和から引き続き社会が豊かになったおかげ

で、人々の価値観は大きく移り変わっています。好むと好まざる

とに関わらず、日本中がこの価値観の変遷の波に飲み込まれてい

きました。結果、個人主義が蔓延し、結婚を望む若者が激減、

さらに子供の数も低減、かくして人口減少に歯止めがかかりませ

ん。詰まる所少子高齢化に起因する、労働人口減少等、多くの社

会問題が引き起こされてしまいます。平成からどんな時代に

変わっても、人は愛を渇望します。しかし深い愛ゆえに人は傷

つき、人を傷つけると言った罪を犯します。それでも人は愛を

求め続けます。平成を振り返れば、人々は常に大きな代償を

払い、それぞれの欲望と執着の中で生きてきました。大きな

喪失体験の連続。現在、効率と競争の冷たい社会だからこそ、

真に本当に必要なものは、《温もり》とか《信頼》や《安心》

なのです。人は心配や不安を抱えたままでは冷静になれません。

愛する人、会社、頼りにしていたものが崩れ落ちてしまいます。

真に頼りに出来るのは自分の思い、思考、気づき、真理だけで

す。だからこそ、今この瞬間にだけ気持ちを集中し、頭を休める

と、視野が広がり、周りが見えてきます。そして目の前の畑を

ひとつひとつ耕していけば良いのです。


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。PS I LOVE YOU.


新元号が発表される前夜に、少し平成を振り返ってみました。

才能

受験をまじかに控え、頑張っていた受験生が勉強中にやおら

口を開き「何かひとつ、何かの能力をくれるとしたら」

「先生、どんな能力が欲しいですか?」突然質問を受けて僕は

ちょっと困惑して答えに窮してしまいました。不思議なもので


現実には、本当に与えらる訳ではないのですが、真剣に

考え込んでしまったのです。ひとつだけって言われても

正直この歳(もうじき58歳)になると、どんな能力が欲しい

のか情けないことに、ひとつも思い浮かばなかったのです。

いまさら運動能力に優れた能力があっても、使い道がないし、

欲しい能力がひとつも思い付かなかったのです。戸惑っている


と彼がおもむろに「もしくれるとしたら僕は」

「努力できる、能力が欲しいですね」と、僕の目をしっかりと

見ながら言ったのです。さらにこうも付け加えました。

「努力が出来れば、どんな天才にも近づけると思うし」

《若いっていいな。子供って素晴らしいなって。》 正直

塾講師やっていて良かったなっ。と、思わされました。

若さとは、かくも素晴らしいことなのです。数年後今よりは

年を重ねながらも、現実を直視させられた彼が、自分を振り

返った時、ああっ、自分はこんなだったなあと懐かしさを覚える

だろうと思いました。努力しても報われないことの方が多い事を

まざまざと思い知らされた現実社会を経験する年齢になった時。


相手を見ながら、授業をやっていると不思議と「自分の欲望とか

自分の願望とか、そういうものがどうでもよくなってくるもの

なのです」そういう気持ちで勉強に向き合う時、自分が消えて、

透明ななにかだけが残ります。この、透明な『なにか』に触れた

くて、それを伝えたくて、僕は塾講師をやりたいと思うのです。

彼のそんな反応が嬉しくて塾講師であり続ける元気を得ました。


「トットちゃん」で黒柳徹子は言っています。文字と立場に頼り

過ぎた現代の教育は、子供達に、自然を心で見、神の囁きを

聞き、霊感に触れるというような、官能を衰退させている

のではないでしょうか? と 「古池や  蛙とびこむ  水の音」

間違いなく、古来より、池の中に蛙がとびこむ現象を見た者は、

きっと芭蕉だけでは、決してなかったでしょう。また湯気たぎる

鉄瓶を見た者や、木から林檎が落ちるのを見た者は、古今東西に

おいて絶対、ワット一人、ニュートン一人だけだったなんてこと

は、断じてあり得ないでしょう。つまり、物事、現象等全ては

見方次第だということです。要はその時に何を考えていたのか?

どれだけ問題意識を持ち続けることができるのか? ってこと

でしょうか。それは「瞬間、瞬間の出来事を自分の思考と

いかに結びつけることが出来るかに着目することなのです。」

あなたが楽に簡単に、思考を紡いでいける《瞬間》はどういう

時が多いのか、に注目するわけです。こういった形で、

「自分がどういった《瞬間》にイメージ、要領をつかむことが

出来るのか?」に着目すると、きっと自分の才能が自覚出来るよ

うになるのでしょう。ここで、能力にも先天性と後天性があるで

しょう。言い換えるならば、生まれついて持っている遺伝性と

習慣や努力で身に付けた環境性の二つの能力に分けられます。

「努力出来る能力こそが天才足るゆえん」とか「何事において

も努力出来る人こそが、天才なのです」。って近い意味の

箴言(しんげん)が数多(あまた)存在します。


彼はそのことを知ってか、知らずか。どちらにしても、いまだ

若い彼が、今だけであっても《汗水流す》《心血を注ぐ》と

言った、「労力を惜しまない」「努力をすること」にためらい

も無く、いとわない若者であること。そして決して《棚ぼた》

式の幸運だけを、望んでいる者ではないことに安堵し、まだまだ

世の中希望が持てると同時に、明るい日本の未来が見えました。


トットちゃんはこうも言いました。「世に恐るべきは、目あれど

も美を知らず、耳あれども楽を聴かず、心あれども真を解せず、

感激せざれば、燃えもせず…の類である」 とも。《学問》は

《真理》を見つけ、解することを目的とします。《真理》は

《真実》から導かれます。そして、《真実》は正しく《観察》

することで明確になります。正しく《観察》することで、

《真実》を我々に(学問の本筋を損なうことなく)的確に忠実に

与えてくれます。この作業はおそらく途方も無く、しんどいもの

でしょう。でも今の彼には、この疲労感さえも、よろこびである

と感じられるかもしれません。目覚ましい技術革新によって


世界が常時繋がり、成熟した社会になった、平成の世に誕生した

若者。生まれた時から、過剰な食物。カラーテレビ、携帯電話、

果ては自動車さえも、ひとりに一台。社会の豊かさは人々に幸福

をもたらすと誰もが疑念の余地など、はさみません。しかし成熟

さは、人々をより生活しにくい社会へと、変革してはいないで

しょうか? 革新を生み出すのが極めて困難な時代になった

ようです。しかも決して眠らない街の誕生が、社会を人間を蝕

(むしば)み、個人主義を蔓延させてしまいました。これからの

時代に要求される能力は何でしょうか? それがどのような能力

であれ、未来を託される若者がどのような場合であっても、

努力することを、失敗しても決して諦めることなく、挑戦する

ことが出来る人間である限り、日本はもちろん世界も、人類の

未来は見通しが、まだまだ明るいと確信しました。この地上には

半ば無作為に、半ば秩序立てて、71臆もの人間が蠢(うごめ)

いています。人々はそれぞれが、持つ能力を十二分に使える

ように、社会において、各々の役割によって、生かされて

生き続けています。エネルギーの無い所に、革新も変化も

生まれません。良い時も、楽しい時も、悲しい時も、

辛い時も、永遠に続くことはありません。何もかもが

終わってしまうと知っているからこそ、瞬間、瞬間目標に

向かって、しっかり自分で考えて、行動し努力を続ける若者が、

未来永劫、存在する時代であればからこそ今、この一瞬が

眩しく光り輝くのです。


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。P.S I LOVE YOU.


誰もが心待ちにしている春の足音が、足元からもう聞こえて

来そうです。ようよう寒い夜が明けそうです。心地良い。

本当に過ごしやすい、穏やかで温かい毎日が続いています。

毎日がウキウキ感いっぱいです。そろそろ、こじゃれた格好で、

街に繰り出そうかな。明日が楽しみ。

ボヘミアン・ラプソディー

何の予定も無い日曜日って、まさに人生最高の一日ですよね。

そんな日にドライブの勢いで、道すがら、映画館で映画観るの

って、不意打ちの吉報の如く、気分が頂点まで盛り上がり

ました。しかもその映画が思いがけず、目覚ましく素敵だと

したら、その気分はグランドスラムで優勝する以上のひと時でしょうか。


クイーン (Queen)は英国四人組のロックバンドで、「世界で最も

売れたアーティスト」として名を連ねています。そのバンドの

リードボーカルで、既にエイズで他界(享年45)したフレ

ディー・マーキュリーの半生を、敬意を持って、以外に割と

忠実に描いたこの映画、日本国内で興行収入100億円を突破

しました。85年ライブエイドの入場シーンから始まり、最後は

そのライブエイドの熱いステージで余韻を残し、フェイドアウト

していって、ドントストップ゚ミーナウのBGと共に、エンドロー

ルで幕を閉じます。過去の映像と、映画のために、新しく

撮影したそれと、テクノロジーで上手くつないでいました。

もちろん、メンバーの誰一人、新たに出演していませんが、

ギタリストは、まさに本人と見間違うほどの激似でした。

他3人は、間に合わせにしては、差し当たり、及第点でしょう。


映画のテーマは、彼の生き方を理解できなかった家族や、ゲイで

バイセクシャルの彼を受け入れられない恋人との、悲しい決別。

彼の金に群がる人達と、酒とドラッグにおぼれて、精神を病んで

しまい、大切なバンド仲間やビジネス仲間と仲たがいして

しまい、襲いかかる極度の孤独感から来る恐怖。彼の才能を

見抜けず、口惜しがる権威者を尻目に、スターダムに上り詰める

彼らのほとばしり、はじける人並み外れた、才能から生み

出された名曲の数々。


彼は本当の意味で、《天才》なのです。それもここまで来ると、

もはや人間ではないのです。そのような人は、ある意味《鬼才》

であり《魔物》なのでしょう。頭の中のねじが何本も抜け落ちて

いて、常軌をはるかに逸脱しています。凡人の僕達には、理解に

苦しむ事ばかりでしょうか。社会には馴染まない、不適合者と

言わざる得ません。こんな時、ほんとに凡人で良かったと思える

瞬間。映画を通しての感想。


おそらく主題は天才でスーパースターの《苦悩》なのです。

富と名声を手に入れ、望むものはすべて手に入ると思われる

スターも我々と同じ人間、心の内側では、なぜか不安で、

何かに怯(おび)え、孤独にさいなまれていたのです。

そして当時不治の病気のエイズの宣告を受けて、自分の命の限り

ある、ともしびを悟って初めて《真実》に気が付くのでした。

それは本当に大切なものは何なのか。自分の生まれて来た意味

とは? その答えは、両親や兄弟姉妹であり真実の友人と仲間で

あるのだ、と悟っても、もう失ってしまった時間は取り戻せ

ない。自分は、死ぬまでパフォーマーであり続け、人の魂を揺り

動かしていくとの思いであり、かつて父の口癖だった

「善き思い、善き言葉、善き行い」を思い起こすのでした。

我々は誰もが、なにかのために命を燃やすその姿に、

得も言われぬ、美しさを感じるのです。加えて、

真っ直ぐで、愚かで、愛しくて、哀しい、純粋な命の

煌(きらめ)きに、どうしようもなく惹かれてしまうのです。

一番美しい行為は『命を燃やし続ける』ことだと思います。

しかもすべての美しいものには必然的に、悲しみを内包して

いるものです。


一番は、ひとえにクイーン (Queen)の楽曲の素晴らしさを再認識

するに至りました。ひとたび曲が流れると、監督の意図する物語

やテーマは頭から吹っ飛び、彼らの音楽に、ただただのめり

込んで行きました。映画館は小さいながらも、さながら一瞬で

コンサート会場に変貌しました。この映画絶対、映画館で鑑賞

すべき映画です。断言します。レンタルでDVDなんて、

愚(ぐ)の骨頂ですよ。そこのあなた。いやー、映画って

ほんとに良いモノですね。それではまたご一緒に楽しみま

しょう。さよなら、さよなら、さよなら。

とにかく、風が吹き抜けていました。「ゴーン」。


僕は今は亡きフレディーマーキュリーを偲んで、目頭が

熱くなり、心の中で泣いていました。これはひとりの英国人

男性が亡くなったといった、物語だけでは済まされない

音楽界にとって、人類にとっても、とても大きな損失なのです。

「音楽の力って、すごいな」と感じる夕刻でした。


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。P.S I LOVE YOU.


6分余りの長い曲「ボヘミアンラプソディー」近年の英国の

アンケート調査で「後世に残すべき一曲」で堂々

NO.1に輝くほどの名曲なのです。一聴の価値ありです。


 

言葉足らず

1;この歳(57歳)になると、他人から「おとうさん」

ってよく呼ばれます。

僕は既婚者ですが、子供はひとりもいません。

2;小さな子供を連れていると「おじいちゃん」っと

も呼ばれます。子供が居ないので。当然孫は居ません。

3;「トイレ 流す時は ボタンを押して下さい」

って注意書きがありました。トイレなんか当然流れません。

流れるのは水です。こういった内容、今週で3回ありました。

ちぐはぐなやりとりです。何かしっくりしません。

こういった経験皆さんありませんか?

当然どれも誰もが理解出来るでしょう。当たり前ですが

僕にも理解できます。でも、天邪鬼(あまのじゃく)で、

0か100か、の性格の僕には、モヤモヤが背中

を走って、玉虫色でグレイゾーンに突入して、99%

(100%じゃないのは宝くじのような感じ)当たらない石を、

投げたくなるのです。結果、気になって仕方ないのです。


聞くところによると、人間の話す会話の80%は意味の無い

言葉だそうです。だから見ず知らずの誰とでも違和感なく、

挨拶を交わすことが出来てしまうのです。といった意味では、

意味の無い言葉は、便利ではあります。残りの20%すら

意味の無い時もあります。にも関わらず、言葉だけを交わす人

はいっぱい。コミュニュケーションって一体何なのでしょう?


あいさつ等、いつもそこにあるものは、当たり前すぎて、さほど

気にしない上に、深く考えないため、少しの変化等には気付か

ないものです。それは気付かない間に、沁みついてしまっている

クセのせいで、思考回路が《マンネリ》や《型どおり》に

陥っているのでしょう。変わり映えのしない新鮮味の無い日常に

足りないものや望むものを出しきること、軽いスキンシップ、

小さな些細なことに、手を抜いてはいけないポイントが

あるのだと再認識しました。そして視点を変えてみて、

少し思い直してみれば、良いのかもしれません。もちろん気に

して、深刻になり過ぎても、意味の無いことは分かっています。


そこで、誰かと意思疎通を図る場合や、相手に何かを伝えようと

するには当然《言葉》が人間にとっては、最善のツールです。

ここで優しさは大切です。思いやりも大事です。よって

人間関係において「嫌われないこと」とか「不快感を与えない

こと」は必要です。であっても、最優先であるのは

「自分の思いを伝えること」です。寒さで固まり、行き届かない

思いやりと底の浅い思慮。結果、出て来てしまうのは、

得も言われぬ不協和音なのかもしれません。心のない言葉は

空虚であり、心のある言葉は(どれだけ表現力に乏しいもの

だとしても)心に刺さります。上手い下手ではありません。

大事なのは相手への敬意(愛とも言い換えれます)だと


思います。ここに至って、歴史的観点から、人間のふたつの

行動原理が見て取れます。ひとつは人間の思考傾向は、人間の

本質が、つくづく《性善説》に基づいていることを証明して

います。言い換えれば、あまねく出会う人は、私である自分を、

悪意を持って、攻撃するものでは決して無いのであって、

例外なく誰もが、好意的に、優しく親しみを持って、

出会えたことに感謝を示そうしている、と相手のことを、

考えているのでしょう。もうひとつは、生物界において、

生態系のバランスの保持と維持のため、また数の論理

(食物連鎖)の上で、特に動物は、争いは避けられず、

殺し合いを余儀なくされてしまいます。しかしながら、

知能の高い動物(人間)こそ、食料の確保や種の保存のために、

戦争は例外として、生死を賭けてまで、争わない方が、

得策であることを思い知ったのです。それから学んだことは、

相手に、敵意を見せない示さない、平和的友好が最善な手段

なのだと、身に染みて痛感したのです。ですから、どのような

言葉であっても、人はお互いにとって、都合の良いように

解釈して、平和的に受け入れているのでしょう。だとすれば、

コミュニュケーションには完璧な言葉は必要ないということ

なのでしょう。加えて、


日本人は《言葉の縁起》をとても大事にしています。

結婚式では「別れる」「切れる」の言葉は、ご法度(はっと)

で決して口にはしません。しかし、強気でも弱気でも

「目は口ほどに物を言う」って言われます。ことに恋愛なんて

賭けなきゃ。自分を投げ出さなきゃ。始まりませんよね。

思いを伝える難しさと、伝わらないもどかしさへの一喜一憂は、

当人にとっては、おおげさでなく死活問題です。大概思い描いた

筋書とは裏腹に、意志疎通が、滑らかになされないのです。

その結果、悲しい結末で、袂(たもと)を分(わか)つのです。

おそらく、人間関係には言語能力、日本語力、語彙(ごい)力

などよりも断然、想像力が求められるのではないでしょうか。


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。P.S I LOVE YOU.


 

健康

体調不良のため、《知的生活》からめっきり遠のいていました。

空き時間には、薄明りの下、昔の甘ずっぱい記憶と魂が溶け合っ

ていました。そんな中、音楽鑑賞か天井を眺めていました。ふと

思いました。天井の無い家に住んでみたい。趣のある星や月を

眺めながら、眠りに落ちることが出来れば、きっとこの上なく

幸せだろうな、なんて何気に考えていました。話を戻します。

今日は僕の仕事始めです。松の内の賑わいも遥かに過ぎ、

先日は正月で疲れたお腹を整えるため、七草粥を食しました。

おかげでようやく体調が回復し始めました。年末から正月にかけ

て酷使した胃腸を休ませ、野草の生薬効果を期待し、本来の

自己治癒力を回復させることを目的とします。しかしたとえ

どんなに節季に忠実に従って、食事や身体を気遣っても

病気や怪我をしない人は、この世には一人も居ません。

話をさかのぼること、想像するに、昨年末誰かからのウイルスが

僕にも襲った。熱を出して、咳にあえいで体調を崩して、

撃沈してしまい、食べることすら、面倒で億劫でした。世間で

言うところの《風邪ひき》ってやつです。僕も人並みに

病んでしまいました。久しぶりです。思い起こせば、数年ぶり。

これで僕が《バカ》でないことが証明できたんじゃないでしょうか。


改めて《健康》は何ものにも代え難い、今年も健康は一番です。

年を越しての、体調不良風邪は正直きつかったでした。しかも

内臓疲労から、僕の愛ある可愛い、くちびるははれ上がり

今もって食用ノリを貼ったようで、かさぶたが付いています。


その一日の間、食事をするために、一日じゅう必死で動く。

その食事でようやく翌日動けるだけのエネルギーを補充し、

また動いてその日の食事を摂取する。ただその日を生きる

ために、その日を過ごして居たのです。生命を維持するため

だけに生活していました。普通であれば、そこには不安と

苦悩しかありません。何の希望もなく、自分の身体から

沸き上がる自然治癒力が、苦しみから解放してくれるのを

待つだけでした。そのような人間の日常と、動物のそれとの

あいだに、どれほどの違いがあるというのでしょうか?

幸運なことに、思考力が単細胞並みに、欠落しているおかげで

プラス思考も無いかわりに、マイナス思考も思い浮かばない、

といった《ケガの功名》にあやかりました。


《人間は考える葦である》と言われますが、僕は体調不良の間、

そのカタゴリー外の生物でいたようです。思考力が完全停止

してしまいました。そのせいで、人間である前の、本能だけで

動く動物のような、すさんだ日々を送っていました。これは逆

に、本当に貴重な体験でした。人間は高度の知能を所有するが

ゆえに他の動物と一線を画しています。知性と本能の能力の加減

によらず動物は、死の危険に直接関わる、目に見える外敵には

予防も含め、知恵と本能で割と容易に防御出来ます。一方

死に直接関わっていないためか、直接目には見えないためか、

目には見えない小さな外敵には対処を怠りがちです。しかも

その予防には目も手も行き届いていません。自然界には目には

見えぬ恐ろしい微生物が、無尽蔵にはびこっています。奴らは

自分の住かを拡大しようと、執念深く常に隙を伺っています。

しかし正月すら酒を断ったこの身には、なんの《うまみ》も

無いと、おそらく嫌気がさして、ここの所、僕から退散したよう

です。ーー「ざまあみろ」--少し気を抜くと、弱った身体は、

あおりを食って、ウイルス等に簡単に侵入を許し、健康を害して

しまいます。すんでの所で、かろうじてまだ人間である

おかげで、わずかな知力で対処することができました。風邪への

抵抗力は、身体から《酸性》を除し《アルカリ性》に傾ける必要

のために、柑橘系の果物(みかん)を大量に摂取しました。


おそらくその程度の知恵が無くても、生物の本能ってやつは

とんでもなく優秀で、尊敬以上の畏(おそ)れ多い、意識を持っ

た《存在》なのです。もし想いが乗れば、人間は変化を嫌うた

め、流れに任せて楽な方を選択しそうです。一度外敵に侵入され

衰弱した身体を無理に酷使しない方が、身体は楽でしょう。

でも本能に従順な身体は、生命維持のため、外敵に対して、

野放し状態にできずに、なんと立ち向かうのです、しかも

戦うのです。生物の細胞の本質は、どのような環境にあっても、

不利な状況の中でも、勝てそうもない戦いにも挑み、前に進んで

いくのです。現実の世界であったならば、人間は無理に障害を

克服しようとしないで回避しようとするでしょう。なぜなら、

障害を克服しようとする戦いこそが、目的に向かって進んでいく

ため、凄まじい活力を必要とするからなのです。生命組織の防衛

のためには、生物には排除の理論が働きます。生命の維持のため

には、どのような敵にも、立ち向かって戦い抜くのです。しかも

その戦いは、決して諦めることもなく、努力し続けます。

無理だ、「不可能」と言われながらも、障害を乗り越えなければ

ならないのです。それは限界を超えるような、のっぴきならない

戦いなのです。生物の本質は、常にそれを心得て、対処している

のです。これを《狂気》と言わずして、何を狂気と言おうか。

このことはまさに、生物の矜持(きょうじ)なのです。


あなたの中に何かがあれば、あなたにそれだけの価値があれば、

道は必ず開けるものなのです。生物はそのように創造されている

モノなのです。現実社会で、障害に遮(さえぎ)られると、途端

に勇気や気力はしぼんでしまい、歯を食いしばる、といった

精神力を保つのは難しいことです。体調を崩し、弱り切った身体

が、日ごと回復に向かっていることに感謝して、奇跡のような、

本能の成せる《御業》に自分自身の強い想いも、重ね合わせて

いました。何事においても、都合のいい状況や環境が整うのを

待っているものには、決して何事も成すことはできません。

無理だと言われながらも「不可能」をやり通し、障害を乗り越え

ていくモノこそが、どのような世界でも通用することができるの

です。を、再度学んだ今年の正月でした。自分自身が考える以上

に、内なる本当の自分が、自分を一番よく分かっているのです。


今日はここまで。近藤浩二でした。

久しぶりに文章を書くと、やはり想像以上に

疲れてしまいました。今日はもう寝よう。

疲労の上で、病気に付け入れられる、隙を与えてしまったこと

は空白の年末を過ごすことになった、ひとつの契機でした。


ではまた。PS I love you.

師走

今年最後であろう晴れ間の広がる週末の日曜日。東予地方の

西条市から南予地方八幡浜市まで2時間強のロングドライブ

のため、休日なのに早起きの予定。昔から目覚ましは

使用しなくても、目覚めることはできるのですが、身体と気分が

乗らないので、タイマーで音楽を流す”STAYIN ALIVE”数十秒後

には、坊主の説法で諭されたように、スッキリくっきりとなって

さらにカカオいっぱい、カフェイン抜きのチョコレート一片を

口に含み、車に乗り込みました。高速に入ると、そこかしこに

色づいた錦柄の山々が見渡せました。もう当然、見頃を逃した

山の斜面の紅葉。イチョウの黄色やぶなの濃い黄色。さらには

もみじやカエデの赤色。いまだ見どころの多さで魅了して

くれました。パーキングで降車して、のんべりと少し歩くと

吹き渡る風は思いの外、ひんやりとして、すでのところで

冬の到来が身体全体、五感全てで感じさせられました。

もうひと月もすれば新年を迎えます。


先ごろ24節気のひとつ、大雪(たいせつ)だったそうです。

参考までに次の節気は12月下旬の冬至(とうじ)です。小雪、

大雪、冬至の順。北方のシベリアから上空に寒気が流れ込み、

冬型の気圧配置、西高東低がわずかに見られ、本格的な冬の

足音が聞こえ始めました。自然界においては、各地で雪が舞い

落ち、積雪があったそうです。クマが冬眠のため穴に隠れる、

鮭が群がり川を遡上(そじょう)する、山鳥が鳴かなくなる、

にらが芽を出し始める、などが観察できます。今年も

春夏秋冬、それぞれの季節の中で様々な表情がありました。

動物達は、それぞれの持つたくましさで、年を重ねて生き続けて

いきます。我が家に目を向けると、師走も数日過ぎたので、


気分を盛り上げるため、クリスマスツリーを出しました。

残念ながら、我が家にはサンタク、ロースはやって来ません。

せいぜい、豚、ロースが関の山でしょう。

であっても、クリスマスケーキやクリスマス用の

骨付きチキンの宣伝メロディーを耳にしたり、

クリスマスツリー特有のクリスマス色である、赤色、緑色を

目にすると、不思議と、本当に心うきうきワクワク、幸せな気分

いっぱいになります。焼肉を食べると幸せホルモンと言われる

ドーパミンが脳内に分泌されるそうです。また男である僕は、

何も無くても、若くて美人な女性を目にするだけでも、とっても

幸福な気分になれます。毎年、年末になると、まもなく一年が

終わってしまうというのに、子供の頃からなぜか心躍り、明るい

気分になっていた僕なのでした。しかも気分が落ち着き、

ささやかな幸せを大切に、ひとり胸に抱きしめていました。


赤色は食欲を促進させ、青色は食欲を減衰させます。このように

《色や音》に人の心理は強く影響を受けます。歳のせいか最近は

茶色系統の食事に傾いています。ところで週末日曜日は教会で、

クリスマスのゴスペルコンサートで心癒され、

元気をいっぱいもらえました。そこでは自分たち好み、

でも遊び心のある、穏やかで創造的な演出のコンサート。

想像以上に強く美しいものでした。聴き手を音楽に近づける力が

すごいのです。この時期にとても響くものを持っていました。

しかも目にも嬉しい、赤や緑など色とりどりいっぱいに

飾りつけされて、若い女性も多く、何かきらめく心惹かれる

ほんとに心豊かな幸福感で満たされました。年末は疲れや

気の緩みから体調を崩しやすいものです。こういう時期だから

こそ、心に響くものに触れたくなるのです。


《成功》という言葉と関係の無い、無条件の幸福感は

愚直(ぐちょく)な人間をひとつぐらい、高次の次元に

引き上げてくれます。そのことで穏やかでない感情は、

不思議と消え去ってしまいました。《色と音》は人間を

誘惑します。また外出して買い物が出来ない僕は、

最近、安直で安価なネット購買が増えました。

あれも欲しい、これも欲しい、でも消費、いや浪費は金銭的な

罰を招きます。僕はそんな欲にけがれたわが身を恥じて

虚しくなっていました。そんな感情とどうにか上手く共存して

生活していました。でも今ではそんな物欲も、先日の

休日のちょっとした幸福感、安堵感で不思議と

霧消(むしょう)してしまいました。

人の愛情、様々な自然の表情、街の色や音、それらが僕に、

元気、活力を与えてくれたのです。


最後に、示唆(しさ)に富み、うんちくのある言葉を

「『一体どれだけ努力すればよいか」という人があるが、「君は

人生を何だと思うか』と反問したい。努力して創造していく

間こそ、人生なのである。」 御木徳近 元PL教団の教主


今日はここまで。近藤浩二でした。ではまた。毎日の生活や

未来に希望がつながる、実りある今日を過ごせますように。

生活とは、活きる力のことなのです。活力が花を咲かせます。


(Blog to Soul)水素風呂と時代劇と音楽を愛する左半身麻痺の塾講師