「thinking」カテゴリーアーカイブ

学問

今日は終日、ひとり家の中で、のんびりと過ごしていました。

大学生当時の事を思い出していました。大学ではほとんど勉強

しなかった僕ですが、印象深く覚えていることがあります。

数学の最初の授業でした。興味深い話でした。もう30年以上

前なので、しっかりと覚えてないので、少し補足しながら

記憶をひけらかします。残念ながら、結論が不明瞭です。


科学の進歩の根幹をなす学問は疑う余地が無く《数学》です。

数学(学問)を追究していくと、当然難易度が上がってきます。

そしてそれを理解できる人は減少していきます。その理由は

感覚として捉え難くなるからです。そして現実から離れて

より非現実に傾いていきます。(女性が数学が不得手なのは

男性よりも現実的だから、って今ならセクハラになりそうなの

と、女性の居ない男性だけの授業だったので、よく覚えていま

す。)そうなれば当然、日常生活には、不必要になって、

使う機会はなくなってしまいます。しかし

学問を発展させるためには、感覚では捉えにくい新しい発想が

必要になります。革新的な新しい《概念》です。


例を挙げましょう。古代(数千年前)には壁などに数字が

残されています。そこには、どこの遺跡にも《1》から

始まって数字が表現されています。その表現方法の基本は

「線のかず」で表しています。すると数字が大きくなれば、

その表現方法は困難を極めていきます。そして

ローマ数字にも当初は《1》から《9》までの9個しか

なかったのです。当時の人々には《ゼロ(0)》の

数字の発想がなかったのです。

何も無いものに、数字を付ける必要は無いとの考え方でした。

今我々が当たり前に使っているローマ数字の形は

《線のかず》ではなく《かどのかず》で表現されています。

《ゼロ》の数字を《0》と表現することを

発明したのは千年程前のインド人なのです。彼は

「人が居ない。」と否定的に表現する以外に

「人が0人居る。」と肯定的に表現したのです。

この《0》の発明によって、誰にも容易に無限に数字が

表現できるようになって、数学が飛躍的に著しく

発展したといいます。


小学生から中学生になるとき《マイナス》の新しい概念が

定義され、感覚的に、小さい数から大きい数でも例外なく

《マイナス》出来るようになって、いかなる場合でも

四則計算が可能になって、驚くほど、数式の表現が簡潔で

容易になったのです。現実的には受け入れ難いものですが。


高校数学はそれが、さらに複雑で難解になっていきます。

三角関数(サイン、コサイン、タンジェント)や

複素数、微積分、等です。ある時突然、

見たことのない言葉や数式が出てきて

身勝手に《定義》を宣言して、理論を進めていくのです。

誰でも戸惑ってしまいます。日常生活で突然

江戸時代から明治維新に変わったようなものでしょうか。

当時の人々は困惑してしまって、滑(なめ)らかに

物事は、運ばなかったでしょう。または環境変化で

急に雨が降らなくなって、雨季から乾季に変わって

しまったらどうでしょう?動物は生き延びることは如何に?

先生が言うには、幸運なことに、数学を学ぶことで、

当時のような、大きな歴史の転換点を、感じるような

貴重な体験が出来る。そしてその突然の変化を、上手に対応

出来たものたちが生き残っていけるのだ。そのものたちとは

どのようなものだったのか、を研究し考察する点において

学問は共通している、との話だったかな。最後のほうは

記憶が不鮮明です。悪しからず。でもなぜか納得させられた。


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。


フランス 対 クロアチア

優勝 フランス


 

極限(振れ幅)

台風が発生して、雨、雨、また雨。なおも雨、雨

そして雨。もううんざりだ、勘弁してくれ。

橋や山肌を破壊して、結界を取り除き、点在している家々の

枝分かれした道に流れ込み、道を川に変えて、茶色の濁流が

枯れ木や枯れ葉と、ともに自動車をも流している。

おそらく猫も犬も、にわとりも、あげくは人までも。

そんな現状の中、対岸の火事の如く、車に乗り込み

県内を渡り走った週末の日曜日。


もなかアイスとアイスコーヒーをお供に、ドライブ大好き

夫婦二人で車内で会話を楽しんでいました。絶えることなく

次々に変わる景色や話題もなんのその、

話し弾むこの上なき楽しさ。


あれこれと他愛のないことを、思い考える稚拙(ちせつ)

な頭脳。自分勝手な理屈で構築していく世界。

そんな世界を少し覗いてみましょう。「ようこそ。」


この世の中は2種類しか存在しない。

生物界、はオスかメス。

人間界、は男性か女性。

視界、は見えるものか見えないもの。

する側とされる側。与えられる者と奪われる者。

万物は有限か無限。このとき気付いたこと。

今まで無限だと思っていたものは

有限の集まりによる、無限ループの結果だということ。

この世が始まって、時間は永遠に終わらず、

流れ続けるでしょう。しかしその時間は、何か個々の持つ

有限と考えられる、時間のつながりで出来上がっているのです。

そして思い当たったこと。人間が生まれた理由の一つは、

物事は有限であることを思い知らされるためなのだと。


またこの世界のモノは、ほとんどが固有の振れ幅が存在します。

その振れ幅内で生かされて、存在させられています。

今走っている車にしても、材料の破壊限度を超えない範囲の、

力加減の釣り合いで、存在しています。車のスピードも

スピードメーターが振り切れない、範囲までしか出せないように

制限されています。これは万物すべてに当てはまります。

生き物にもその大きさや寿命には限度があります。

その振れ幅を超える時、そのモノは存在できなくなります。


しかし例外がありました。たびたび振れ幅を容赦なく

超えて存在するものの、ひとつが《自然》なのです。

自然は振れ幅を超えても、なおも、いつも、いつまでも

存在し続けます。今回の甚大(じんだい)な

被害が証拠でしょう。「今回はこの程度に抑えておこう」

「今日はこのぐらいにしておいてやろう」、っといった

「優しさ」や加減を、自然は持ち合わせていません。極限を

超えて、その強大さを、我々にまざまざと知らしめるのです。

まるで神様が何かの「うっぷん」を晴らすかのように。

雨を降らせ過ぎないように、地上を揺らせ過ぎないように

火山噴火を吐き出し過ぎないように、なんて考えが及びません。


しかし、《極限》が無く、最も恐ろしいものは、

人間の頭の中の思考、によって生み出されたモノなのです。

思想、嫉妬、欲望、などなど。


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。


 

小さな世界

子供の頃は、誰にも、夢や希望は、

身近に感じるものでしょう。そして、世の中はきっと、

単純で簡単だと思い込むでしょう。

でもこの世は、子供の自分たちが感じているほど

《小さな世界》ではなかったのでした。


大小様々なクリップ。とっても小さなミニカー。長短さまざま

のひも。さいころ。色鮮やかなビー玉。目を輝かせて見入る

小さい筒型の透明の器に入った、いっぱいの贅沢なガラクタ。

「アー、ブッ、ッブーー、ブーー、あれ、ふっふ、はっはは、

ほほほ、ひひひ。」「ぶ**、@@、+++、。」

ひたひたと、小さな手で、手探りして、ひとつ、ふたつ、

何かを取り出し、興味津々(しんしん)の様子で、心優しい

切れ長の目が、きりっと差すように見つめています。


幼児がひとりで、意味不明の言葉を、何やらつぶやきながら、

楽しそうに笑顔で戯れています。僕たちには彼の言葉は

決して、解することは出来ません。そうです。

子供は誰もが、ファンタジーを創作する、夢みる旅人なのです。


思うように勝手に走らない自動車。空を飛ばない飛行機。

そして時が、そっと彼の心の奥底に語り掛けるのです。

《物事はほとんど、自分の思い通りにならないことを》

時に、時間の経過とともに、業を煮やして、ふつふつと

うっぷんが、溜まったのか、容器をひっくり返して、

容器をその場の、机に押さえ込み、力の限り左右に

揺さぶってしまいました。「ガチャ、ガチャ、ガチャ。」

容器内にあった、中身のガラクタが、所かまわず、

四方八方に、飛び散らばってしまいました。

しかし彼は何一つ、臆することなく、万感(ばんかん)の笑顔を

僕に投げかけるのです。「ニタッ、ニタッ、エヘ。」

散らかった景色を、呆気に取られて見つめる僕。

小さな心に萌芽(ほうが)した、自由にならない世界を、

破壊したい欲求。一瞬、脳内の回路に、心ときめく快感が

ビリッ、ビリッっと走ったのです。


大人になれば誰もが感じる、夢の持ちづらい世界、

大好きな食物が食べることが、出来ない、

大好きな人と思う事が、出来ない。

行きたいと考えている場所に行くことが、出来ない、

出来ない事だらけの、不満足感いっぱいの世界。

自分の能力を他人と比較して、がっくりと肩を落とす

無能感と無力感。

言いたいことを言えずに思い悩む、自己表現の難しさ。

年を経て、面と向かって、誰も口にはしないけれど、

夢の世界とは、まったくかけ離れていることを

痛感することになる、現実の世界。


年を経てなおもそれをすると、他人はそれを

現実逃避、自己欺瞞(ぎまん)と非難する。

熱中している彼に話し掛けても、つれなく視線を

逸(そ)らせるだけです。しかも幼児である、

彼の孤独の遊戯は、まだまだ続くのです。


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。


 

早起きは三文の得

曇り空ながらも、雲の切れ間から柔らかい優しい陽光が部屋の

窓から差し込んでいた、清々(すがすが)しい朝の空間。


今朝9時前のこと。妻がファミリーサポートの仕事

を済ませ、玄関前で車をUターンさせて、

車庫に納め込みました。軽やかに車を降り、何か良いことでも

あったかのように帰って来て、玄関先で

僕を見かけて部屋に入るなり、口を開きました。

《妻》「最近膝(ひざ)、調子良いかい!!、

楽なんよね」(彼女はスキーのインストラクタ―の頃、

じん帯を切ってしまったのでした)

《僕》「よかったね」笑顔で答えました。

《妻》「なんでか、わかる??」

解っているでしょう、っとでも言わんばかりに、

問いかけられました。

《僕》「例のあれやろ」と答えました。

《妻》「よく解らないけど、そうなんよ」

間髪置かずに、かえってきました。

ここ数日前から、彼女は入浴後《全身、前後》の写真を撮って

《光カード》とやらを載せて《除霊》をすれば、

スッキリする、とかで続けています。(僕は心の中で眉を

ひそめています)。僕はゲン担(かつ)ぎのようなものだと

とらえています。(信じる者は救われますから)


取り立てて、何か特別な幸運があったわけでもありません。

しかし彼女の晴れ晴れしい顔で、一日の始まりを迎えました。

威勢の良い、気持ち良い表情を見せられると、こちらも何か

嬉しい気分にさせられてしまって、不思議と

その一日が、気分良く過ごせられます。

(喜びの笑顔は伝染しやすいのでしょうか)


最近、日の出とともに目を覚ませて玄関の部屋の中で、

朝日を浴びながら、その日を始めます。

目を閉じて、まぶたに朝日を感じていると、人間は生来

日の出とともに起きて、行動するように作られていることを

実感します。東に面したガラス窓の多い玄関の部屋で

小一時間本を読むことを日課にしています。

(今、時代小説にはまっています)ふと本を小脇に置いて、

眼鏡をはずし何も考えず、ボーッとすると、目にするものは、

ぼやけていますが、鳥のさえずりと車の通過音が、

ときおり鮮明に聞こえてきます。しかも五感が、

研(と)ぎ澄まされるように感じられてきます。

朝起きて、世の中の人と同様な習慣を、心掛け、

実践することで、気持ちが落ち着くのです。

そのおかげで、妻の《喜び》(ほんの少しの元気)を理解でき、

僕も喜ぶことが出来たのでしょう。たかが平凡な日常の1日に

張り合いが出るのです。(普段よりも早起きは、三文の得です)

「よーし、今日もがんばるぞー」って。


しかし現実の生活は今もって、心配事、不安や不満は

数えあげれば、尽きませんが、朝食前のこのいっとき、

《喜び》、《平安》を感じることができて

なんだか少し幸せなのです。


人の元気そうな顔つきを見るだけで、その訳を聞かなくても

喜ばしいことがあったことが理解できます。

現実には自分自身に、たとえ大きな金や仕事が入ってこなくても

気分だけでも、

他人の《喜び》も自分の《喜び》に感じられるようになれば

人は、人生の《喜び》には不自由しません。

を再発見した朝の出来事でした。


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。


 

#半分、青い

この4月から早起きが習慣になってきています。

8時前には目覚め、9時頃までNHKを視聴します。

日曜日を除く、毎日15分で物語が進行していくドラマ。

集中力が途切れない長さ、コマーシャルの無い心地よさ。

飽きの来ないように、1週間単位であらすじを移行させる

創意工夫。 自然と毎日チャンネルを合わせてしまう、

巧妙なわな。「ふ、ぎょ、ぎょ」。「やって、まった」。


「半分、青い」なんか不可解で、落ち着かないタイトルです。

でも毎日見いてると、これが面白いのです。

昭和の経済成長期に、岐阜県の田舎街で生まれた、

ひとりの女の子の、ひとつを除けば、平凡な日常を描いた物語。

家族、同級生、近隣住民等、彼女を取り巻く人々との交流と

古き良き昭和の時代背景とともに、展開される日常生活。

 

不運なことに、なんの落ち度もない彼女が、9歳の幼少時の

ある日突然、左耳の聴力を完全に失ってしまいます。

 

安直に、感傷に浸っている暇などありません。ここは地に

足をつけ、家族の気持ちを最優先に考えて、歯を食いしばって

踏ん張り抜くのでした。少女が、わずか9歳にもかかわらず、

妙に落ち着きはらって、無表情を装って、決して活力を

失うことなく、明るくユーモアたっぷりに、

常に前を向いて、希望に満ちた毎日を、ひるむことなく

たくましく、生きていく姿を描いた成長物語。


試練の時の始まりなのです。

半分の聴力を失い、今まで生きて来た世界が、半分になって

しまったように感じられる毎日。

それを空で例えるならば、頭上の空の、半分は「青空」、

でも残り半分は「曇り空」。と、

いった意味で「半分、青い」。

タイトルの持つ意味をなんとなく

分かったところで一気に時間が進む。

少女から女性に変貌するのです。

時に、少し《大人のような》、《ませた》

子供の発言に、口元が緩みます。

子役の子供の演技が卓越です。


実話なのか、作り話なのか、わかりません。

そんなことを、考えさせない間に、

心がうたれて、胸がいっぱいになるのです。

少女は、気落ちすることなく、今自分が、置かれている

自分の運命を、素直に受け入れ、その上で毎日を楽しんで

生きているのです。僕は思いました。

少女の言動を考えてみると、

人間は本当に弱い生き物であるんだ。っと同時に、

反面、人間はなんて強い生き物なんだ、であることに

驚かされます。そして生きていくために、人間に

本来、備わっている《たおやかさ》と《しなやかさ》を

痛感せずにはいられません。


人は今の自分を、素直に受け入れていれば、それだけで

十分幸せなのです。しかし不思議なことに

自分を楽しませることができていない時に、

人間は苛立ち、他人と比較してしまい、未来に不安を

覚えたりしてしまいます。そして

隣の芝生が青く見えた瞬間に不幸を感じます。

私たちの行動量が増えるのは、自分の心に

正直になったときだけです。思い出しましょう。

夜明け前の直前に、最も暗い時間がくる、ということを。

砂漠のことばで、人は地平線にやしの木が見えた時、

渇して死ぬ、ということを。


人間生きていくためには《友人、家族の手助け》が

必要不可欠です。

友人、家族のあり方を考えさせられる物語です。

《カミュ》の言葉がぴったりでしょう。

 

僕の後ろを歩かないでくれ。僕は導かないかもしれない。

僕の前を歩かないでくれ。僕はついていかないかもしれない。

 

ただ僕と一緒に歩いて、友達でいてほしい。ー カミュ

 


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。


 

#美しく完璧

体感温度が上昇してやっと、ストーブとはしばらくお別れだ

《春が来た》なんて、嬉しい声が届いたはずなのに、

完璧に《春到来》を実感して、ブログ更新した途端に、

ストーブへの灯油を購入しなければ得ない、安易な結論を

考え直さなければ、ならない不思議な時節。

わずかな間ではあるが、寒さが和らいで、

温かくなり始め、過ごしやすいーと、

ーーーーー思ったと途端にーーーーー

突然舞い戻ってくる寒さ、

小さな喜びの衝撃波が一瞬で

《期待》から息詰まる《落胆》に変わった。

この《不安定極まりない気候》。


かのアインシュタインは、《自然界はすべて完璧で極めて

美しいはずである》といった、ようなことを述べている。

その天才が、のたまう、美しく完璧であるはずの自然の摂理に

おいて、この時節は人間には戸惑い、一筋縄(ひとすじなわ)

ではいかない、すぐに馴染むことの、理解できないそれは、

とらえどころがなく、シンプルには程遠く、複雑怪奇であろう。

《例外のないルールはない》とは言われるが今の季節は

例外なのかな?

しかるに 《不完全で不安定であろうと結論づけられる

この時節の自然界》。この自然の不安定に気持ちが揺れ踊る。

しかしながら一方で、近郊など近くの野原を眺めると

細流のほとり、いたるところで春色に色めいて、

人の心を、ときめかせ、癒し落ち着かせる、命の躍動を感じ

生きとして、生きるものを尊ぶ、自然の恩寵(おんちょう)。


人智を超えた自然界においてさえも、天才とは別に、

一般人には、美しく完璧とは思えないのです。

まして人為的に、簡単に影響される《経済現象》

においては《何をかいわんや》でしょう。

通常なら入学試験が終了して、新入生がにぎわうこの季節

入塾の問い合わせが多少でも、あってしかるべきなのだが。

少子化の影響と  《寄らば大樹の陰》といった《安心感》

を重んじる社会の風潮の関係からでしょう。


科学界で様々な完璧な理論を数多く構築した

アインシュタインでした。ここでそんな

彼の人生そのものは、美しく完璧であったのでしょうか。

晩年には世間に高く評価されましたが、厳しく逆風の

時代もあったようです。紆余曲折で山あり谷ありの

ドラマになりやすい、人間らしい魅力的な人生です。

人間の人生において、何をして《完璧》と判断するのか

意見の分かれるところでしょう。しかし順風満帆で

ない、無駄と思える経験も過ごしたことで、

様々の現象を第三者的に一歩引いて、

冷静に、大局的に、俯瞰(ふかん)して見たことで

名言も残し、人類への功績の大きさは計り知れない。

人間の人生は、完璧な数式などでは絶対表現できないのです。

不安定な天候の続く、この時節の自然界を、彼の観点から

完璧な科学で説明してほしいものです。

でないと留飲(りゅういん)が下がらない。

美しく、完璧と考えられている自然界においても

100パーセント説明のつかない現象もあるのでしょう。


自然界は完璧だから、こそ美しいのでしょう。

しかし自然界のように、

完璧で完全でしかも、美しい人生を送る人はいないのです。

であっても、誰の人生も《完璧》でなくても、きっと《美しい》

《意義深い》人生のはずです。


今日はここまで。近藤浩二でした。

洋楽紹介します。ではまた。


ジョージハリソンでマイスイートロードです。

1970年リリース。英米ともにNo1位の大ヒット。

大ヒットアルバム「オール シングス マスト パス」に収録。

単調な曲のため、何か物足りなさを感じる。味付けの妙の勝利。

ジョージハリソン最大のヒット曲。彼はすでに他界。

一粒種のダニエルはジョージに瓜二つ。

完成された作品のみが、売れるわけではない、

っといった一つの例。


 

カーペンターズで「遠い思い出」です。

1981年リリース。シングルカットせず。

アルバム「メイド イン アメリカ」に収録。

古き良き懐かしい、趣のある楽曲。

春にぴったりの飛び跳ねるような歌曲。


 

 

オリンピックの問題(不思議)

オリンピックが始まると、地上波テレビではどこの局も

オリンピックを放映します。日本人気質なのでしょうか?

嫌いじゃないですが、少々うんざりなのです。

それぞれのテレビ局が資金を出し合ってスポーツ専門の

チャンネルを2つ、3つ作って、時間帯とか競技ごとに

それぞれの局のキャスターや解説者に特色を出せば

通常のテレビ番組を変更なく放送出来るのではと

考えるのですが、これって素人の域を出ないのでしょうね?


改めまして、

羽生選手、小平選手の金メダル獲得本当に

おめでとうございます。個人的には

高梨沙羅選手の銅メダルほんとに良かった。

どの選手も、前回のソチからの裏話を聞くにつけ

怠け者の僕とは、やはり人間の《デキ》がこうも違う

ものかと感心、感嘆しています。

数年間湧き立つ「欲」のほとんどを

脇に置き去りにして、自分自身を自制する人間。

過酷な訓練を詰め込んだ毎日。


日向水(ひなたみず)の日など、1日たりとも送っていない

メダリストたち。少し鋭く、ひたむきさを感じさせる

目の輝き、太い太もも、引き締まったふくらはぎと胴体が

禁欲生活とすさまじい訓練の中で過ごしたであろう

青春時代を偲(しの)ばせる。僕自身、自分の

怠け心に《かつ》をいれて、同じ人間、僕にも

努力できるはず、しなければいけないと

気合いが入ります。


今回のオリンピック観てて痛切に感じたことがありました。

オリンピックってスポーツの祭典ですよね。いってみれば

運動会と同じようなもののはず。規模が学校、自治から

世界に広がっただけです。でも不思議なことに楽しくない。

わくわくしない。スタート前の緊張感が感じられない。

もちろん自分自身が参加していないといった大きな

前提の違いがあります。


メダル獲得に沸いている国内に、水を差す気は毛頭ありませんが

例えば、スピードスケート、

各々の選手が二人ずつ

別の時間帯にスタートして、

タイムの順番で順位を

競い合います。これが何かしっくりしません。

100メートル走のようにファイナリスト5、6人を

横1列に並べて、いっせいに走らせたら

分かりやすくて、面白い、より刺激的で興奮すると思うのですが

競技場の都合もあるのでしょうが、

出来ないはずはないでしょう。


文明の進歩と科学の発展で、あまりにも抜け目なく、

必要以上に効率化に取り組み過ぎている。

様々な事柄を削(そ)ぎ落として、簡素化してしまうのは

時間や作業の短縮化のため、やむえないとは思います。

しかしスポーツ本来の《魅力》を失わさせて、

ほしくはありません。

《強く》《速く》《遠くへ》《長く》《多く》《確実に》を

もっと単純に、簡単に、誰にでも、もっと分かりやすく、

あってほしのです。


本日のテレビで申されていましたが、金メダルを取った

小平奈緒選手のスピードスケートの走りを再現映像で見ると

スタートの時、細かく調べれば「フライング」の

可能性が大だとか。本当に最大限、文明の利器を活用するならば

すぐにやり直しにすべきところでしょう?

しかし誰も異議申し立てを訴えない。

《スポーツマンシップ》らしく潔(いさぎよ)い

と申しましょうか。でもこんな所だけは人間の不確かな感覚、

視覚判断に委(ゆだ)ねられている。

不思議です。誰が決定しているのでしょう?

《不確実》で《不正確》な判断基準の概念を

僕の頑固な脳が無視できないのだ。


10分の1秒程度なら大多数の人間の視覚でも正確に

判断できるでしょう。でも

100分の1秒だったら、大多数の人間の視覚だけでは

正確な判断を自信を持って言い切れないでしょう。

そこで機械に頼らざる得なくなるのです。

《有無を言わせない確実な証拠》なのです。

ある部分では文明の利器に、任せっきり、

ある部分では「《ある》個人の人間だけの視覚判断」に任せる。

微妙なところで、何かが大きく間違っている、

欠け落ちていると感じてしまうのは

良くない事なのでしょうか?


こんな最新技術が蔓延(まんえん)する、現代社会においてでも

最後の最後の判断は機械やロボットではなく人間、

スポーツにおいては審判なのです。審判はスポーツにおいては

絶対な存在、すなわち、その言葉は神の言葉と同等なのです。

そこには《心証》といった「私情」が許されないはずなのです。


そんな問題が発生し易い競技と言えば、もうひとつ

フィギュアスケートや体操競技です。これは

《美しさ》《華麗さ》《力強さ》《難易度》《確実さ》

といった機械だけでは、到底その判断を委ねられないものを

競い合っているのです。第三者の専門家の人達だけで

判断決定するのです。間違いなくそこには、100パーセント

個人の「好み」、「気分」、「偏見」、「思い込み」など

《心証》が大きく影響して、結果に反映されてしまうはずです。

確かに審判(神)の判断と、納得せざる得ないといけない

選手の潔(いさぎよ)さはスポーツマンらしく頭が下がります。

4年間365日の努力をたった、一回の一発勝負の

結果に委(ゆだ)ねる、ここで審判である専門家たちも、

おそらく選手と同様に4年間365日毎日

寝る間も惜しんで命を削って、判断する《審美眼》

を磨こうと、努力をしているとは到底思えません。

そのような、いっときの人間の判断で

選手たちの努力が犠牲になっているようで遺憾なのです。


出来ればもっと公明正大に

誰にも分かりやすく

判断できるような

誰でも納得できるように

審判基準を改良すべきだと、つくづく思います。

例えば、全く同じプログラムを決められた時間に

ピッタリと演じさせてみる、とか。

ジャンプの回転の《多さ》や《高さ》、《長さ》

を競い合う、とか。


ルールなので仕方がないのでしょうが、

後よく納得できないのが、ドーピング疑惑問題。

薬物使用の制限なのです。賛否はともかく、

せめてオリンピックの競技の中に薬物使用を

認めた競技が存在しても良いのではないのか?

人間の持つ潜在能力も含めて

100パーセント、200パーセント、300パーセント

出せれば、どれほどの可能性があるのか、

人間の持つ極限の能力を一度体感させてみたい

見てみたいのです。死なない程度で薬物使用を容認してほしい。

麻薬のような常習性や危険性の問題なのでしょうか。


麻薬まではいかなくても、創造性を増殖させたくて

何かの薬物を使用して、斬新(ざんしん)で革新的な

何かの理論を着想した人間が居たとしても

誰も薬物使用を疑って、ドーピング検査をするなんて

ことはないはずです。

そこの境目があいまいで、ほんと疑問符いっぱいです。

神による《絶対性》と機械による《非情性》の

あいまいな境目に存在するのが、人間の《温もり》なのです。

おそらく自己満足と社会貢献の違いなのかな。

でもそれだとしたら、スポーツ選手に失礼でしょう。


今日はここまで。近藤浩二でした。

洋楽紹介します。ではまた。


ホールアンドオーツでキス オン マイ リストです。

1981年リリース。三週連続全米No.1位。アルバム「ボイシズ」からシングルカット。テンポの良い軽快なポップソング。

アイ ラブ ユーと言う代わりに

「君のキスは僕の人生の最高のリストに入っているんだ」

って婉曲的に愛の告白をした楽曲。米国の男性コーラスヂュオ。

大ヒット曲多数あり。


 

ボニーレイットでナット ジ オンリー ウァンです。

1992年リリース。全米No.34位の中ヒット。

アルバム「ラックオブザドロー」からシングルカット。

米国の人気女性ギタリスト、シンガー。リズムアンドブルース

とカントリー色のある味わい深い楽曲。お気に入りです。

アルバムはグラミー受賞。必聴の価値ある歌手です。


 

エルトンジョンでネバーゴナフォールインラブアゲインです。

1980年リリース。シングルカットせず。アルバム「21 アット 33」に収録。秀逸のバラードです。


 

ロバートフラックで「やさしく歌って」です。

1973年リリース。5週連続全米No.1位の大ヒット。

アルバム「キリングミーソフトリー」からシングルカット。

原題「Killing me softly with

his song 」=「彼の歌で優しく殺して」の意味。

当時学生の頃、テレビでコーヒーのコマーシャルで

頻繁に流されていた。米国の女性ソウルボーカリスト。

間違いなく名曲です。聴きごたえのあるバラード曲。


 

 

理想の人生(欲)

つい先日テレビドラマの中で《綾瀬はるか》が自問自答していました。

「理想の夫婦って何?」

残念なことにその答え、忘れてしまったのです。

くだらないありふれた陳腐な内容だったような気がします。

僕ならサラダのドレッシングは、ごまだれの1種類で十分です。

あと入浴後にお酒の一杯でも、あればそれ以上は相手に求めません。


でも、ひねくれ者と言われる僕はその答えを

考える前に別な疑問が頭をよぎったのです。

「理想」の言葉に詳しい説明、絶対要るやろ!

「私だけの」とか、「一般の大多数の人達の」とか

「現在の自分にとって」とか

「未来永劫思い描き続ける」とか、

《誰が》と《いつ》と《どこで》を

思い描くかによって

捉え方が異なってきて、収拾がつかないでしょう。


と言うのも

「理想」というものは、あくまでも「理想」であって

それが「現実」になった途端に、それはもう、

もはや「理想」では無くなり「現実」なのです。

それがために、ひとたび「理想」が「現実」になると

新しい「理想」が思い描かき直されるものなのです。


こんな屁理屈(へりくつ)言う僕はやはり変わり者なのかな?

でも「屁理屈も理屈の親戚ですよ」と

かの杉下右京も、屁理屈言ってましたから。許してくだされ!


ですから「理想」はあくまで「理想」のままで

決してその「理想」が「現実」になってしまっては

だめだと思うのです。そうなった途端に、人は不思議と

さらに「不幸」を感じてしまう贅沢な生き物だから。

だから「理想」とは、

極めて実現可能ではあるけれども、

その時考えられる中で、最高の

「現実化」に最も近い「願望」

《あれはこうあって欲しい》

《自分はこんな風になりたい》

《自分はこういうモノが欲しい》

って考えにしてみましょう。


遅ればせながら、ここからが本題です。

今現在世界の70億人いや人類誕生から

全ての人間の中で自分の理想とする人生を

体現出来た人間は存在した、するのでしょうか?


一部の成功者と言われる人達や歴史に名を残した

者たちならその可能性はあるでしょう。

彼らは少なくとも、自分の願望のいくつかを

現実化した者たちであったはずなのだから。

現在仮に自分の人生において、あの時に戻って

もしやり直せるとしたなら、って

誰でも考える時ってあるでしょう。

少なくとも僕には、たまにあります。

そんな思考を持った時点で今のあなたの

人生は、理想の、自分の思い描く人生とは程遠い証拠でしょう。

でもってそんな時って、一体全体どのような

理想の人生を思い描いているのでしょうか?


輪廻転生(りんねてんせい)という事柄が

自由自在に実現できるなら、

誰だって絶対金持ちの家の子供に生まれたい、はずでしょう

だって人生の問題のほとんどは残念な事に

「お金」で解決出来てしまいますから。

どうしたって人間の問題の

根源は「欲」が原因でしょうから。

そしてその「欲」のほとんどは

「お金」で解決できてしまいます。

しかし本当に大切な事柄は、不思議なことに

「お金」だけでは解決出来ません。

と言っても、お金持ちに生まれたなら

「理想の人生」を送れる可能性は極めて高くなります。


人間生まれて最初に思い抱き

生涯持ち続ける欲望は《食欲》でしょう。

しかしこれは一時的なもので

一度満足すれば次の欲望まで必ず

タイムラグが必要になります。

その次は《性欲》です。でもこれは

生活環境や年齢、体調によって

その強弱は影響を受けます。

これも次の「欲」まで少しのタイムラグが必要になります。


人間の3大欲の最後は

《名誉欲》あるいは《支配欲》です。

この「欲」は先の二つの「欲」とは少し異なります。

先の二つの「欲」は一度欲しても

その大きさには限界が存在します。

しかるにその「欲」に自制心を

働かせることが可能なことになります。

言い換えれば「欲」が無くなる時間があるのです。

「もう十二分に満足したから」、

「もう要らない」、「もう必要ない」

って思えるのです。

しかし《名誉欲》や《支配欲》には

際限(最後のキリ)が存在しません。

したがって、死してなおも

自分の支配下に置きたいといった

おぞましいまでの束縛を要求してしまうのです。

自分の陵墓(りょうぼ)に

中国の皇帝やエジプトの王様のように

兵馬や装飾品を配したり、

強大にしたりしてしまう人達がそれです。


そうすると《食欲》と《性欲》は

ある程度自分自身で

制御(コントロール)が可能です。

別の形で代用も出来てしまうものです。

そう考えてみると結局

《支配欲》や《名誉欲》を

ある程度制御(コントロール)出来れば

我々のような普通の人間であっても

理想の人生を送ることは可能と

結論づけることが出来そうです。

でもやはりお金持ちであることに

越したことはないのです。


身も蓋(ふた)もない話になりますが、理想の人生が

どのようなモノであれ

お金があれば手に入れられる可能性が高いのです。

そうなのです。この世は「お金」がもの言う世界なのです。

「え、お金がモノ言う。お金はモノを言ったりしません。」

「お金がモノ言ったら、銀行がうるさくて、かないませんで。」

「そんなこと言ったら、おうじょうしまっせ!」

おっと、おあとがよろしいようで。


僕の同級生で、がんばり屋の彼女は

小学生の時から成績が一番

でも平均寿命のはるか手前の

40代に病気で、愛する我が子の

成長も見届けられず

帰らぬ旅に飛び出しました。彼女は

死期に宝くじに当たったようなもの。

こればっかりは、お金だけでは

いかんとも、し難い、

人生には「強運」も必要。

でも彼女、来世にはきっと、とんでもない

お金持ちに生まれて

何不自由ない人生が待ってるはず。

僕はそう信じたい。


3次元の、この現実の世界では

「魂」は様々な人生を通して

まるで、でこぼこの道をならすみたいに

壮大な計画の下

辻褄(つじつま)を合わせるように

画策しているはずです。


しかしもっと高次な次元になると

あなたも、きっと入ったことのある

魔法の世界もあるみたい。

《サリーや奥様も、ハリーも》

「あなたによろしく」って言ってたわよ!


あと様々な次元が入り混じってる

《パラレルワールド》とか

《トリプルワールド》や

《マルチワールド》など

もちろん誰もが体験した事あるはず。

そこでは「思考」だけが唯一の

移動の手段なのです。

理解できないと

置いてきぼりをくらうのです!


「開けてはだめ」って言われたのに

開けたばかりに玉手箱に閉じ込められた

浦島太郎。未だに閉じ込められてるみたいです。

それから時計が読めなくて馬車に乗り遅れた

シンデレラ。

あと、小人(こびと)の人権を認めなかっただけに今もって

眠っている白雪姫。二人とも、今も

おとぎの世界に閉じ込められてるって、うわさです!


今日はここまで。近藤浩二でした。

洋楽3曲紹介します。ではまた。


Mでポップミュージュックです。

1979年リリース。全英、全米ともにno.1位獲得。

英国のロビン・スコット&サポートバンドで『M』は形成されています。グループではなく単なる音楽ユニットでした。

テクノミュージックの分野のポップの基本となる楽曲。


オリビアニュートンジョンでマジックです。

1980年リリース。4週連続全米no.1位。映画「ザナドゥ」の挿入歌。サウンドトラック「ザナドゥ」より先行シングルカット。まさに魔法の世界を感じさせる曲調。しかもオリビアの「妖艶」を醸し出した楽曲。ミュージックビデオを鑑賞すれば彼女の魅力を堪能出来ます。盟友のジョンファラーの作品。

恋に落ち入っている二人はまるで魔法にかかっているような状態。女性が男性を誘惑している大人のエッチな歌曲。

当時彼女は、《見た目》(外観、容姿)が僕にとってまさに理想の女性でした。その後「フィジカル」で《いやらしさ》パワー

全開でまだ大学生で若かった僕は完全にノックアウトされました。


ボストンでピースオブマインドです。

1978年リリース。全米no.38位。アルバム「幻想飛行」からシングルカット。一曲目「宇宙の彼方へ(More than a feeling)」フェードアウト終了後、乾いたギターのストロークから始まりエレキギターで刻む、軽快なリズムのハードロック。

作者のトムショルツの人生観が現れた楽曲。当時彼はエリートコースから一流カメラ会社のポラロイド社に在職中。


今日もおまけでエルトンジョンでホンキーキャットです。

1972年リリース。全米no.8位。アルバム「ホンキーシャトー」からシングルカット。

黄金コンビのバニートーピン(歌詞lyrics)とエルトン(曲music)との共作。

軽快なテンポのピアノから始まり終始同じリズムで歌われ続ける。とっても明るく楽しく、気分が爽快になる楽曲。


 

優しさとは何??

あなたは普段どのような時に、

「怒り」を 感じますか?

大抵のことは考え方によって

「スルー」できる

はずなのだろうと思います。

僕は人間としての「器」が小さいのでしょうか?


●食堂内に集団で席を陣取り

騒いで騒々(そうぞう)しい人達を

迷惑そうに睨(にら)みつけます。

相手は悪ぶれることもなく、

不思議と睨(にら)み返してきます。

●順番待ちのため、列にならんで待っています。

強引に列に、割(わ)け入ってくる人がいました。

少し睨(にら)むように見ます。

相手は険しい表情でこちらを強くにらみ返してきます。

●車を安全走行中、後ろにピッタリくっつけて煽(あお)って迫ってきます。

不意にブレーキを踏み危険を知らせます。

相手はアクセルをふかして加速して

ぎりぎりで追い越して、通り過ぎ去ります。

「あんなやつ、事故起こしてしまえ!」イラってして心で思います。

●集団行動で集合時間に戻って来ません。連絡が取れません。

長時間後、悪ぶれる様子もなく、にやけた顔して

戻って無言で席に着きます。


あなたの周りにも、こんな人いませんか?

不思議な事に誰一人、注意や文句ひとつ言いません。

僕はすぐに顔や言動に

「怒りの感情」が出てしまいます。

僕の知り合いの中には

自分自身を無くしてしまえば、

「怒りの感情」が無くなるのだそうです。

そんな神さまみたいな人は稀(まれ)でしょう。

また別の人は「神が裁(さば)く」と言い切ります。

しかし「神が裁く」ことはまずありません。

ほとんどが「泣き寝入り」でしょう。


これはただ単に

みんなが優しいのでしょうか?

いや、絶対違うはずです。

通常の常識を持ち得た人なら

誰もが「共通で持つ怒りの感情」を

共有できるはずです。

まるで「加害者」が

「被害者」顔(づら)している状況なのです。

相手が明らかに法律に触れている

行動なら何かの対処もあるのでしょう。

しかし残念ながら、それは自分の心証(しんしょう)でしかないのです。


ひと昔前なら、話題にもならなかった事柄も

「ハラスメント」といった言葉の出現以来、

ちょっとした事柄でも社会的に

問題視されるように,、なり始めました。

普通なら優しい気持ちで許せる事でも、

行動を起こした人によって、

不快に感じたり、

逆に、好意的に感じる事があります。

それは「被害者」側が「優しい」とか、

「許容範囲が広い」とかの問題では無いのでしょう。

行動をした人が、《何をした》のでは無く

《誰かなのか》が問題なだけなのです。

実際僕も相手が、

強面(こわもて)で反社会勢力や

地位や権力のある人達なら

絶対沈黙を貫き、何事も無かったかのように

「泣き寝入り」するでしょうから。


「被害者」が自身の優しさの許容範囲に

「その加害者」がいないだけ。

それはただ、自身の「好き」か「嫌いか」

の違いだけ。

非常に冷酷に見えるあの人も、

非常に残忍に見えるあの集団も、

彼ら自身だったり、

彼らの家族だったり、

彼らの国だったり、

彼らの宗教だったり

に対してはとても優しいはず。

 

 

とても温和で、気が弱くて、

誰かに強く言い切られると

反論したくても

口を間一文字(まいちもんじ)に閉じて

黙ってうつむいて

我慢してしまうほどの彼は

警官を父に持つ妻と

小さな幼い可愛い女の子と

つつましいながらも一国一城のあるじ。

家族にも誰にも、とっても優しく

何をされても、何を言われても

にっこり微笑み返すだけです。

最近の事です。

妻や娘が、

悪いやつらと迷惑者に

いわれのない「迷惑やいじめ」を被(こうむ)っています。

彼は、

家族からも愛されている

近所でも誰にも

丁重に頭を下げる

挨拶もしっかりできる

世間でもとっても

優しいと、評判の良い

模範のような亭主なのです。

自分では納得してませんが、

地元の高校を卒業後

大きな企業内で単純な流れ作業の仕事に就いて

飽き飽きしらがらも、日々満足して

幸福に過ごしているようです。

しかしただ、理屈に合わない

理不尽な要求や

法律に抵触しない、

裁(さば)かれない

他人に迷惑を掛けるような

行動を起こす人達を

絶対許すことが出来ません。

彼は迷惑者と悪いやつらに

「殺意」を抱きました。

その衝動はもう止められそうにありません。

正義感の強い、

自称「正義の味方」が

夜になると

「天罰」を下すといって

妻や娘に迷惑といじめや、悪さをする

法で裁(さば)けない悪いやつらを

一撃必殺であの世へ送る

「殺人」を数多く重ねて行きました。

ある日の夜、彼の「殺人」を知った妻と娘が

彼の「殺人」をどうしたものかと

悩み苦しんでいました。

そして妻と娘は、彼の殺人を

誰かに止めてもらいたくて

警察に彼を売りました。

ある日とうとう逮捕されました。裁判になりました。

精神障害者と判断されて無罪放免。

また同様な「殺人」を繰り返して再逮捕。

今度こそ、妻も娘も

刑務所に入ってもらうことを

強く望んでいました。

裁判になりましたが、

精神障害者で、また無罪放免。

ある日の夜、娘が再度

父親の殺人を見てしまい

心優しい彼女は悩み苦しみました。

数日過ぎました。

父親はなおも、殺人を繰り返します。

ある日の夜、父親は、

父親の「殺人」を止めようと

誰にも優しい、自分の娘に

殺されてしまいました。

家族にはとっても優しい娘も、

父と同じ精神障害者で

父親の気持ちを理解して

迷惑者や悪いやつらに強い「殺意」を抱きます。

その衝動を止めることが出来ずに、

父親と同じように

迷惑者や悪いやつらを成敗します。

息子と祖母は彼女を止めたくて

警察に売ります。逮捕されました。

しかし裁判では

精神障害者で無罪放免。

しかしある日、息子が

非常に優しい母親の殺人を、

再度見てしまいました。彼はどうしたものかと

悩み苦しみました。

息子も精神障害者です。

迷惑者や悪いやつらを許すことは出来ません。

誰にも優しい息子も

この世にはびこる

「悪」を嫌悪していました。

迷惑者や悪いやつらに、

母親や祖父と同様な

「殺意」を抱きました。

しかし彼は祖母に相談をして、衝動を抑えていました。

しかし悪いやつらの迷惑行為は無くなりません。

いっそう、悪質になっていました。

もう「殺人」の衝動は

止められそうにありません。

毎晩考えました。

彼は祖父と母親の殺人を

よく理解していました。

母親の殺人はなおも続いています。

どうしたものかと、思い悩んでいました。

ようやく結論を出しました。

翌日彼は

母親を殺して、

首をつりました。

同じ日に悪いやつらも

ほとんど事故で死んでしまいました。

一人残された年老いた祖母は

死んでいった者たちを

弔(とむら)おうと剃髪(ていはつ)して

出家して「尼」になりました。

そして死ぬまでみんなの

菩提(ぼだい)を弔(とむら)いました。

 

《これはあくまでフィクションです。》

さてここで問題です。

誰が一番優しい人なのでしょうか?

答えは、、、、、

みんな全て、同様に優しい人なのです。


「優しい」は、

誰かと比較して

論じる「形容詞」ではないものなのです。

個人各々が主観的に感じる、

ある人に向けて感じた

単純な「感情」なのです。


ある人や動物に優しくない人でも

ある特定の人には優しいはずなのです。

自身の家族には絶対に。きっと。

Aさんが優しいと思う方もいれば、
Aさんほど酷(ひど)い人はいないと
思う人もいるでしょう。

Bさんが好きと思う人もいれば、
Bさんが嫌いと
言う方もいるでしょう。

つまり、その人自体が本質的に
「優しい、好き」と
思わせる性質を持っているだけなのです。

「Aさんは好き」
「Aさんは優しい」
「Bさんは嫌い」
「Bさんは優しくない、酷い人」

当たり前のことですが、
この事実を意識できるかどうかで
大きく感じ方が変わってくると思います。


一方で、別の考え方があります。

「騒音、不公平、ズル、煽(あお)り、非常識。」など。
その物事自体が、ネガティブな

特質を持っている という

考え方だと思います。

私達の価値観が

物事の捉(とら)え方が、

「感情」を 左右している

だけであるということです。

でもそれも正しいはず。


動物嫌いで犬や猫に優しくない人が、

人に対して優しくないわけでもない。

人は特別に自分には

優しくしてもらいたいと

思ってしまう贅沢な生き物だから。

他の人よりも自分が愛されてると感じる時に、

相手が誰であっても、

この人は優しい人と思ってしまう困った生き物だから。

だから、優しい人であるのはとても難しい。


誰まで、何にまで、優しくするかという

優しさの許容範囲をどのように

判断するのかが難しい。

その物事が悪いと捉えてしまうと

相手が誰であろうが、
自分にコントロールが出来ないように
なってしまいます。

「騒音、非常識、ずる、煽り、非常識」が
悪いのではなく、

「自分のアプローチが正常では無いのでは?」

という考え方に変換することによって
コントロールが自分に戻ってきます。

《罪》を憎んで「人」を憎まず。ってやつ


法治国家であろうが、なかろうが

この世の中で絶対的に

一元論で「悪い」、「悪」と断言できるのは

「殺人」、「殺し」だけでしょう。

それ以外は大概やり直しが出来ます。


人を変えようとする前に自分を変えろ
とは、よく言われますが、
それは物事への取り組み方にも
当てはまるのでは
ないでしょうか?

物事が悪いと思う前に自分の
取り組み方が悪いのではないかという
考えにシフトすると新しく見えてくる
ものがあると思います。

「非常識、嫌いだ、迷惑だ」と思うと

不快で苦しいですが、

「他の人はどう感じているのだろう?」
という疑問に変換することで新たな
道が見えてくるかもしれません。

どうせ生きていくなら出来るだけ
楽(らく)して、楽しめる方法を模索していきましょう!

でも正直、僕にはとても無理だろうな

《やる前から頭で結論出してしまう、僕の悪い癖(くせ)》


自分は博愛主義者に

なりきろうとする人ではなく、

優しい人間であろうとして、

でもなかなか優しい人間になれないって

日々葛藤(かっとう)して

悩んで苦しんでる人こそが、

僕は本当に優しい人なんだって思う。

だから、僕はそういう人にこそ優しくありたい。


今日はここまで。近藤浩二でした。

今日も洋楽3曲紹介します。ではまた。


スティーリーダンでダーティーワークです。

1972年リリース。シングルカットされていません。

彼らのファーストアルバム「キャントバイアスリル」のA面2曲目。決して有名ではありませんが、《ほんわか》した聴きやすい楽曲。ボーカルはドナルドフェイゲンじゃ無くて、デビットパーマーって人。すぐにグループ脱退します。米国のロックバンド。

時節に合わせて様々な音楽形態のミュージシャンを参加構成。最盛期にはジャズ色の濃い音作り。名盤アルバム多数。

「プリッツルロジック」、「エイジャ」、の2作は名盤。必聴の価値あり。代表曲「リキの電話番号」、「ペグ」など多数。

人気女性芸人「ブルゾンちえみ」のテーマミュージックとは同名異曲。


ジャーニーでドントストップビリービンです。

1981年リリース。全米No.9位。2弾シングルカット。

アルバム「エスケイプ」のA面一曲目。アルバム「エスケイプ」は全世界で大ヒット。「信じることをやめるな」ボーカルのスティーブペリーとキーボード奏者のマイケルケインとの共作。

スティーブが電話越しで父親からの言葉「Don’t stop believin’」が頭から離れず、曲のタイトルが決定。

マイケルと単調なコード進行で普通の人々の日常を話題に物語展開。構成はユニークで単純。同じメロディーの繰り返し。ただ単に歌詞とリズムの強弱、音の高い低いを変えているだけ。

大学生時代、僕の隣の住人で「中島みゆき」しか聞かない同級生の彼がこの曲を頻繁に流していたのだろう。部屋の隙間から音がもれていた。帰宅時にほぼ毎日流れていました。

ニールショーンにギターがかっこいい。


カーペンターズで見つめ合う恋です。

1976年リリース。全米No.12位。カバー曲。

アルバム「見つめあう恋」から先行シングルカット。

原曲はハーマンズハーミッツが1967年発表。

原題は「A kind of hush」。恋人との幸福の歌。

hush=静けさ。「ある種の静けさ」=「二人だけの世界」との意味。恋人と二人だけになった時に、お互いがちょっと黙った時の沈黙の瞬間。=「a kind of hush」

カバー曲多数。世間でいう所のオールディーズです。

中学生当時、日曜の昼間人気のラジオ番組から頻繁に流れて、まったりと緩やかな時間を過ごしていました。優しいメロディー。


今日はおまけで哀愁帯びた、味わい深い名曲を。

ダンフォーゲルバーグで懐かしい恋人の歌です。

1981年リリース。全米No.9位。先行シングル発売。

2枚組アルバム「イノセントエイジ」に収録。

原題は「same old lang syne」

収録曲はどれも秀逸。聴き応え十二分のアルバム。「イノセントエイジ」。「バンドリーダーの贈り物」。「run for the roses」。「same old lang syne」等など。印象深い歌詞の一部です。本人は既に他界。

イブの夜に昔の恋人に偶然再会。過去と現在に乾杯!再会を誓い合って、彼女を見送った後、帰ろうとしたら、、、雪が雨に変わって、、ここでサックスの哀愁あるメロディーが、、、。絶対に名曲だと思います。良かったら、アルバムで通して聴いて欲しい。


人生で最高に感じる幸福感とは??

小学校の同級生に会いました。

同級会以来でした。

彼から、ある同級生の「死」を知らされました。

遺書のない「自殺」でした。

これで僕の身の周りで自殺者は二人目でした。

人はなぜ生きているのだろうか?


ただ「殺されなかっただけ。」と言えるのでは。

何かの病気、何かの事故、飢餓(きが)に、他人に、自分に、なのだ。

一部の人達を除いて、

ほとんどの人達は、特別な「生」や、

「死」の実感も無く

ただ漠然と眠って、食して、

何かの目的に向かって行動して

の繰り返しではないのでしょうか?

三島由紀夫は「《もう死んでしまうかもしれない》と言った

極限状態を経験しないと

《本当に生きているという実感》や、

《生きることの本質》は知り得ない」と、言う様な事を

発言していたように記憶している。


ある哲学者が「不幸を知らない者は本当の幸福も知ることは出来ない。」と言っていたが、どうなのだろう。

相反する二つの事柄をどちらも経験してみないことには、

物事の《本質》を知ることは出来ないのかもしれない。

だから「幸福」の本質を知るには、

「不幸」も知り得た者にしか理解出来ないのかもしれない。

ただ漠然と緊張感無く生活している時に、

最も幸せそうな時には

人は本当の幸福は味わえないのかもしれない。

最高のぜいの限りを尽くした食事を摂(と)ったもしても。

最高に愛した人と結ばれたとしても。

苦しく辛い努力の果てに栄光を勝ち得たとしても。

何万人に祝福、称賛されたとしても。

どれもまだ経験したこと無いモノばかりで

それだけで十分幸福を実感できそうではあるのだが。


思うに、最高の幸福感は、

● 医者に余命を宣告されて死んでしまうまでの間に

味わったほんの小さな幸福感を、、、、、

● 戦争中に今日か明日かもしれない「死」の恐怖の最中に

味わう美味しい食事を、、、、、

● もう死んでしまおうと決意して死んでしまうまでに

味わった快楽を、、、、、

言い換えるなら。

死に際(きわ)に口にする、

「末期の水」の一口の美味しさ。

逝(い)く間際(まぎわ)に、故(ゆえ)あって結ばれなかった

愛する人と

結ばれた恍惚感(こうこつかん)。


ってことは、もう既に死んでいった者しか

本当の幸福感は味わえてないのかもしれない。

そうするとくだんの彼は

本当の幸福を味わうことが

出来たのだろうか?

死にいく彼には、問うことは出来ない。

しかも逝(い)った彼にも、

問うことは、もう出来ない。

その幸福感やまだ視(み)ない世界を

実感出来たり、見ることが出来るのは

先に逝(い)った者たちの

「特権」なのかもしれない気がする。

それはそれでとっても

虚しい、寂しい気がする。

「幸福」の定義がどうであれ、

比較や比喩でしか

体感し難い感情なのかもしれない。

物事は知れば知るほど

相対的な表現が多くなる気がする。

言葉が「曖昧(あいまい)」である限り、

「幸福」の定義は人によってまちまちなのです。

ですから言葉で表現されれば

個人各々(おのおの)の思い描く景色は十人十色。

物事を絶対的に特定することは、

言葉だけでは困難なのですから。

どこまで行っても「もやもや感」は永遠に残ります。

 

ある貧困で、みすぼらしい賃貸住宅に住んでいる、

日雇いの肉体労働者の、男が毎日

一杯のお酒を飲むため

お金を毎日計算して支出をやりくりしているとする。

そのお金のやりくりの計画に抜けがない。完璧だったとする。

毎日仕事終わりに必ず

百円程の安いお酒を

購入するだけのお金の余裕があって

その生活に滞(とどこお)りがない。

わずかだがもっと美味しいお酒を飲めるように、

貯金も少し出来るようになった。

だがあるときその男は

肝臓を悪くしてお酒を飲めなくなった。

悪い事に医者の見立てによれば

完治は困難とのことであった。

困り果てた男は直してくれる病院を探し始めた。

一週間ほど経ってその病院が見つかった。

仕事も辞めて2週間ほど

入院して節制に努めた。

療養はひと月順調に進み、

完治のあかつきには

また美味しいお酒が飲めるものと、

わくわくしていた。

しかし入院1か月で医者が、

やぶ医者だと判明した。

やぶ医者は金目当てのやり手で、

うまくお金を男から、かすめ取っていた。

そして目標額が貯まると、

行方をくらました。

男は絶望的な気持ちになり

精神的ショックから

何もする気が起こらない。

しかもまだ肝臓の調子が良くない。

財産がなくなり、お酒を買うお金どころか

家賃を払うお金ももうない。

つまりお酒ばかりか眠る場所もない。

明日には家賃取りがやってくる。

そんななか、男は家路に向かう。

家の前のお酒の自動販売機の前に立ち尽くして、雄たけびを上げる。

自暴自棄(じぼうじき)になって、

家に入るとお酒の瓶を拾い集めて、

おちょこ一杯のお酒が集まった。

男は一気に飲み干した。

今日、明日肝臓を悪くして、

死んでしまうかもしれない瀬戸際で飲む

飲酒行為は数秒で終わったが、

その美味しさは、

かつて毎日

仕事終わりに飲むお酒より

はるかに美味しい気持ち良いものであった。

そのとき男は

毎日仕事終わりに飲む

飲酒行為の習慣にこそ、

不幸の元凶があったと知るが、

同時に、

幸福の本質も知るのである。

それは予定調和のなかには、

幸福の真実はないという真理である。

「’本物の幸福は、計算された渦中(かちゅう)にはなく、

明日も生きられるかどうか、

分からないとなったときの

極限状態にある。」

男は、また明日

生きていく希望が生まれたのであった。


《最初の案はこちらでした》

男は、様態が急変して

恍惚(こうこつ)の表情を浮かべて

静かに息を引き取った。


世間が認める組織に

自分も加われば人生は保証される可能性は高い。

けれどもその場所に

自分の幸福が無いとしたなら、、、。

苦労なのか楽なのか

どうかは、ともかくとして、

今、目の前の幸福を

先送りしていく計画性を

認知して、仕事をすることを

世間では「安定」と呼ぶのだそうだ。

「アリとキリギリス」で

アリのような人生が幸福で、

キリギリスは幸福では

無いとは言い切れないでしょう。

僕はアリのような時期も

キリギリスのような時期も経験しました。

出来れば、キリギリスのような人生を送ることが

出来るならそれが一番

幸福なのだろうと思います。

自分自身の幸福を認めてくれる人だけを

友達と呼べばいいのです。

馬鹿にする人からは

立ち去って行けばいい。

あなたの人生では、

あなたが世界で一番

大切な人なのだから。


最後に幸福に関する名言を記述して終わりにします。

じっくり噛(か)みしめて下さい。

ネットでググッてコピペします。


「人間最高の幸福とは何か」「幸せに死ぬことだ」

by アンティステヌス

この世の生活の幸福を求める私たちの計画はすべて幻想なのである。

by ルソー

 目の見える人間は、見えるという幸福を知らずにいる。

by ジッド

幸福は夢にすぎず、苦痛は現実である。

by ワイルド

 人は自分が幸福であることを知らないから不幸なのである。

by ドストエフスキー

  幸福には翼がある。つないでおくことは難しい

by シラー

 世の中には幸福も不幸もない。ただ、考え方で

どうにでもなるものだ。

by シェイクスピア


今日はここまで。近藤浩二でした。

今日も洋楽3曲紹介します。ではまた。


ビリージョエルでストレンジャーです。

1978年リリース。アルバム「ストレンジャー」の同名タイトル曲。米国ではシングルカットされてません。日本でのみシングルカット。アルバム「ストレンジャー」は超大ヒット。

どの曲も「起承転結」の物語が在ってほんとに名曲ぞろい。

だまされ無いですから、洋楽嫌いじゃ無い人は絶対聴くべきアルバム。

ピアノと口笛でしんみり始まり、その後エレキギターでロックしてます。

最後はイントロの余韻を残したまま、

で持ってピアノと口笛で終了します。

その後もイントロのピアノと口笛が少しの間、頭から離れない。

夜のとばりで口笛吹くなんて不謹慎だ、なんて当時思っていました。一方でこんな美しいメロディー吹いてみたいと、

一人で練習したりしたもんです。今もって出来ないでいてます。


シカゴでノーテルラバーです。

1978年リリース。息の長いスマッシュヒット。

アルバム「ホットストリート」からのセカンドシングルカット。

ボーカルのピートセテラ等メンバー3人の共作。バラード曲。

「no tell=(人に秘密など)伏せておく。秘密にしておく。」から、

「no tell lover」で「人に言えない恋人」の意味。

いくつかのメロディーを組み合わせて作られたのだろう。

でも洗練されたセンスの高さ、ハイソなムードを感じる優れた歌曲。

1967年米国シカゴで結成された、老舗(しにせ)のブラスロックバンド。


イーグルスで偽りの瞳(ラインアイズ)です。

1975年リリース。アルバム「呪われた夜」からファーストシングルカット。全米NO.2位の大ヒット。リードボーカルでリーダーのグレンフライは病気で数年前に既に他界。

カントリーフレーバーの香り漂う、聴きやすいライトなロック。

歌詞がメロディーによく乗っており、歌詞の理解出来ない人にも受け入れ易い歌曲。

「嘘をつこうとしている瞳」は隠し通せない、

「笑顔は薄っぺらなごまかし」っといった内容の歌詞。