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才能

受験をまじかに控え、頑張っていた受験生が勉強中にやおら

口を開き「何かひとつ、何かの能力をくれるとしたら」

「先生、どんな能力が欲しいですか?」突然質問を受けて僕は

ちょっと困惑して答えに窮してしまいました。不思議なもので


現実には、本当に与えらる訳ではないのですが、真剣に

考え込んでしまったのです。ひとつだけって言われても

正直この歳(もうじき58歳)になると、どんな能力が欲しい

のか情けないことに、ひとつも思い浮かばなかったのです。

いまさら運動能力に優れた能力があっても、使い道がないし、

欲しい能力がひとつも思い付かなかったのです。戸惑っている


と彼がおもむろに「もしくれるとしたら僕は」

「努力できる、能力が欲しいですね」と、僕の目をしっかりと

見ながら言ったのです。さらにこうも付け加えました。

「努力が出来れば、どんな天才にも近づけると思うし」

《若いっていいな。子供って素晴らしいなって。》 正直

塾講師やっていて良かったなっ。と、思わされました。

若さとは、かくも素晴らしいことなのです。数年後今よりは

年を重ねながらも、現実を直視させられた彼が、自分を振り

返った時、ああっ、自分はこんなだったなあと懐かしさを覚える

だろうと思いました。努力しても報われないことの方が多い事を

まざまざと思い知らされた現実社会を経験する年齢になった時。


相手を見ながら、授業をやっていると不思議と「自分の欲望とか

自分の願望とか、そういうものがどうでもよくなってくるもの

なのです」そういう気持ちで勉強に向き合う時、自分が消えて、

透明ななにかだけが残ります。この、透明な『なにか』に触れた

くて、それを伝えたくて、僕は塾講師をやりたいと思うのです。

彼のそんな反応が嬉しくて塾講師であり続ける元気を得ました。


「トットちゃん」で黒柳徹子は言っています。文字と立場に頼り

過ぎた現代の教育は、子供達に、自然を心で見、神の囁きを

聞き、霊感に触れるというような、官能を衰退させている

のではないでしょうか? と 「古池や  蛙とびこむ  水の音」

間違いなく、古来より、池の中に蛙がとびこむ現象を見た者は、

きっと芭蕉だけでは、決してなかったでしょう。また湯気たぎる

鉄瓶を見た者や、木から林檎が落ちるのを見た者は、古今東西に

おいて絶対、ワット一人、ニュートン一人だけだったなんてこと

は、断じてあり得ないでしょう。つまり、物事、現象等全ては

見方次第だということです。要はその時に何を考えていたのか?

どれだけ問題意識を持ち続けることができるのか? ってこと

でしょうか。それは「瞬間、瞬間の出来事を自分の思考と

いかに結びつけることが出来るかに着目することなのです。」

あなたが楽に簡単に、思考を紡いでいける《瞬間》はどういう

時が多いのか、に注目するわけです。こういった形で、

「自分がどういった《瞬間》にイメージ、要領をつかむことが

出来るのか?」に着目すると、きっと自分の才能が自覚出来るよ

うになるのでしょう。ここで、能力にも先天性と後天性があるで

しょう。言い換えるならば、生まれついて持っている遺伝性と

習慣や努力で身に付けた環境性の二つの能力に分けられます。

「努力出来る能力こそが天才足るゆえん」とか「何事において

も努力出来る人こそが、天才なのです」。って近い意味の

箴言(しんげん)が数多(あまた)存在します。


彼はそのことを知ってか、知らずか。どちらにしても、いまだ

若い彼が、今だけであっても《汗水流す》《心血を注ぐ》と

言った、「労力を惜しまない」「努力をすること」にためらい

も無く、いとわない若者であること。そして決して《棚ぼた》

式の幸運だけを、望んでいる者ではないことに安堵し、まだまだ

世の中希望が持てると同時に、明るい日本の未来が見えました。


トットちゃんはこうも言いました。「世に恐るべきは、目あれど

も美を知らず、耳あれども楽を聴かず、心あれども真を解せず、

感激せざれば、燃えもせず…の類である」 とも。《学問》は

《真理》を見つけ、解することを目的とします。《真理》は

《真実》から導かれます。そして、《真実》は正しく《観察》

することで明確になります。正しく《観察》することで、

《真実》を我々に(学問の本筋を損なうことなく)的確に忠実に

与えてくれます。この作業はおそらく途方も無く、しんどいもの

でしょう。でも今の彼には、この疲労感さえも、よろこびである

と感じられるかもしれません。目覚ましい技術革新によって


世界が常時繋がり、成熟した社会になった、平成の世に誕生した

若者。生まれた時から、過剰な食物。カラーテレビ、携帯電話、

果ては自動車さえも、ひとりに一台。社会の豊かさは人々に幸福

をもたらすと誰もが疑念の余地など、はさみません。しかし成熟

さは、人々をより生活しにくい社会へと、変革してはいないで

しょうか? 革新を生み出すのが極めて困難な時代になった

ようです。しかも決して眠らない街の誕生が、社会を人間を蝕

(むしば)み、個人主義を蔓延させてしまいました。これからの

時代に要求される能力は何でしょうか? それがどのような能力

であれ、未来を託される若者がどのような場合であっても、

努力することを、失敗しても決して諦めることなく、挑戦する

ことが出来る人間である限り、日本はもちろん世界も、人類の

未来は見通しが、まだまだ明るいと確信しました。この地上には

半ば無作為に、半ば秩序立てて、71臆もの人間が蠢(うごめ)

いています。人々はそれぞれが、持つ能力を十二分に使える

ように、社会において、各々の役割によって、生かされて

生き続けています。エネルギーの無い所に、革新も変化も

生まれません。良い時も、楽しい時も、悲しい時も、

辛い時も、永遠に続くことはありません。何もかもが

終わってしまうと知っているからこそ、瞬間、瞬間目標に

向かって、しっかり自分で考えて、行動し努力を続ける若者が、

未来永劫、存在する時代であればからこそ今、この一瞬が

眩しく光り輝くのです。


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。P.S I LOVE YOU.


誰もが心待ちにしている春の足音が、足元からもう聞こえて

来そうです。ようよう寒い夜が明けそうです。心地良い。

本当に過ごしやすい、穏やかで温かい毎日が続いています。

毎日がウキウキ感いっぱいです。そろそろ、こじゃれた格好で、

街に繰り出そうかな。明日が楽しみ。

健康

体調不良のため、《知的生活》からめっきり遠のいていました。

空き時間には、薄明りの下、昔の甘ずっぱい記憶と魂が溶け合っ

ていました。そんな中、音楽鑑賞か天井を眺めていました。ふと

思いました。天井の無い家に住んでみたい。趣のある星や月を

眺めながら、眠りに落ちることが出来れば、きっとこの上なく

幸せだろうな、なんて何気に考えていました。話を戻します。

今日は僕の仕事始めです。松の内の賑わいも遥かに過ぎ、

先日は正月で疲れたお腹を整えるため、七草粥を食しました。

おかげでようやく体調が回復し始めました。年末から正月にかけ

て酷使した胃腸を休ませ、野草の生薬効果を期待し、本来の

自己治癒力を回復させることを目的とします。しかしたとえ

どんなに節季に忠実に従って、食事や身体を気遣っても

病気や怪我をしない人は、この世には一人も居ません。

話をさかのぼること、想像するに、昨年末誰かからのウイルスが

僕にも襲った。熱を出して、咳にあえいで体調を崩して、

撃沈してしまい、食べることすら、面倒で億劫でした。世間で

言うところの《風邪ひき》ってやつです。僕も人並みに

病んでしまいました。久しぶりです。思い起こせば、数年ぶり。

これで僕が《バカ》でないことが証明できたんじゃないでしょうか。


改めて《健康》は何ものにも代え難い、今年も健康は一番です。

年を越しての、体調不良風邪は正直きつかったでした。しかも

内臓疲労から、僕の愛ある可愛い、くちびるははれ上がり

今もって食用ノリを貼ったようで、かさぶたが付いています。


その一日の間、食事をするために、一日じゅう必死で動く。

その食事でようやく翌日動けるだけのエネルギーを補充し、

また動いてその日の食事を摂取する。ただその日を生きる

ために、その日を過ごして居たのです。生命を維持するため

だけに生活していました。普通であれば、そこには不安と

苦悩しかありません。何の希望もなく、自分の身体から

沸き上がる自然治癒力が、苦しみから解放してくれるのを

待つだけでした。そのような人間の日常と、動物のそれとの

あいだに、どれほどの違いがあるというのでしょうか?

幸運なことに、思考力が単細胞並みに、欠落しているおかげで

プラス思考も無いかわりに、マイナス思考も思い浮かばない、

といった《ケガの功名》にあやかりました。


《人間は考える葦である》と言われますが、僕は体調不良の間、

そのカタゴリー外の生物でいたようです。思考力が完全停止

してしまいました。そのせいで、人間である前の、本能だけで

動く動物のような、すさんだ日々を送っていました。これは逆

に、本当に貴重な体験でした。人間は高度の知能を所有するが

ゆえに他の動物と一線を画しています。知性と本能の能力の加減

によらず動物は、死の危険に直接関わる、目に見える外敵には

予防も含め、知恵と本能で割と容易に防御出来ます。一方

死に直接関わっていないためか、直接目には見えないためか、

目には見えない小さな外敵には対処を怠りがちです。しかも

その予防には目も手も行き届いていません。自然界には目には

見えぬ恐ろしい微生物が、無尽蔵にはびこっています。奴らは

自分の住かを拡大しようと、執念深く常に隙を伺っています。

しかし正月すら酒を断ったこの身には、なんの《うまみ》も

無いと、おそらく嫌気がさして、ここの所、僕から退散したよう

です。ーー「ざまあみろ」--少し気を抜くと、弱った身体は、

あおりを食って、ウイルス等に簡単に侵入を許し、健康を害して

しまいます。すんでの所で、かろうじてまだ人間である

おかげで、わずかな知力で対処することができました。風邪への

抵抗力は、身体から《酸性》を除し《アルカリ性》に傾ける必要

のために、柑橘系の果物(みかん)を大量に摂取しました。


おそらくその程度の知恵が無くても、生物の本能ってやつは

とんでもなく優秀で、尊敬以上の畏(おそ)れ多い、意識を持っ

た《存在》なのです。もし想いが乗れば、人間は変化を嫌うた

め、流れに任せて楽な方を選択しそうです。一度外敵に侵入され

衰弱した身体を無理に酷使しない方が、身体は楽でしょう。

でも本能に従順な身体は、生命維持のため、外敵に対して、

野放し状態にできずに、なんと立ち向かうのです、しかも

戦うのです。生物の細胞の本質は、どのような環境にあっても、

不利な状況の中でも、勝てそうもない戦いにも挑み、前に進んで

いくのです。現実の世界であったならば、人間は無理に障害を

克服しようとしないで回避しようとするでしょう。なぜなら、

障害を克服しようとする戦いこそが、目的に向かって進んでいく

ため、凄まじい活力を必要とするからなのです。生命組織の防衛

のためには、生物には排除の理論が働きます。生命の維持のため

には、どのような敵にも、立ち向かって戦い抜くのです。しかも

その戦いは、決して諦めることもなく、努力し続けます。

無理だ、「不可能」と言われながらも、障害を乗り越えなければ

ならないのです。それは限界を超えるような、のっぴきならない

戦いなのです。生物の本質は、常にそれを心得て、対処している

のです。これを《狂気》と言わずして、何を狂気と言おうか。

このことはまさに、生物の矜持(きょうじ)なのです。


あなたの中に何かがあれば、あなたにそれだけの価値があれば、

道は必ず開けるものなのです。生物はそのように創造されている

モノなのです。現実社会で、障害に遮(さえぎ)られると、途端

に勇気や気力はしぼんでしまい、歯を食いしばる、といった

精神力を保つのは難しいことです。体調を崩し、弱り切った身体

が、日ごと回復に向かっていることに感謝して、奇跡のような、

本能の成せる《御業》に自分自身の強い想いも、重ね合わせて

いました。何事においても、都合のいい状況や環境が整うのを

待っているものには、決して何事も成すことはできません。

無理だと言われながらも「不可能」をやり通し、障害を乗り越え

ていくモノこそが、どのような世界でも通用することができるの

です。を、再度学んだ今年の正月でした。自分自身が考える以上

に、内なる本当の自分が、自分を一番よく分かっているのです。


今日はここまで。近藤浩二でした。

久しぶりに文章を書くと、やはり想像以上に

疲れてしまいました。今日はもう寝よう。

疲労の上で、病気に付け入れられる、隙を与えてしまったこと

は空白の年末を過ごすことになった、ひとつの契機でした。


ではまた。PS I love you.

師走

今年最後であろう晴れ間の広がる週末の日曜日。東予地方の

西条市から南予地方八幡浜市まで2時間強のロングドライブ

のため、休日なのに早起きの予定。昔から目覚ましは

使用しなくても、目覚めることはできるのですが、身体と気分が

乗らないので、タイマーで音楽を流す”STAYIN ALIVE”数十秒後

には、坊主の説法で諭されたように、スッキリくっきりとなって

さらにカカオいっぱい、カフェイン抜きのチョコレート一片を

口に含み、車に乗り込みました。高速に入ると、そこかしこに

色づいた錦柄の山々が見渡せました。もう当然、見頃を逃した

山の斜面の紅葉。イチョウの黄色やぶなの濃い黄色。さらには

もみじやカエデの赤色。いまだ見どころの多さで魅了して

くれました。パーキングで降車して、のんべりと少し歩くと

吹き渡る風は思いの外、ひんやりとして、すでのところで

冬の到来が身体全体、五感全てで感じさせられました。

もうひと月もすれば新年を迎えます。


先ごろ24節気のひとつ、大雪(たいせつ)だったそうです。

参考までに次の節気は12月下旬の冬至(とうじ)です。小雪、

大雪、冬至の順。北方のシベリアから上空に寒気が流れ込み、

冬型の気圧配置、西高東低がわずかに見られ、本格的な冬の

足音が聞こえ始めました。自然界においては、各地で雪が舞い

落ち、積雪があったそうです。クマが冬眠のため穴に隠れる、

鮭が群がり川を遡上(そじょう)する、山鳥が鳴かなくなる、

にらが芽を出し始める、などが観察できます。今年も

春夏秋冬、それぞれの季節の中で様々な表情がありました。

動物達は、それぞれの持つたくましさで、年を重ねて生き続けて

いきます。我が家に目を向けると、師走も数日過ぎたので、


気分を盛り上げるため、クリスマスツリーを出しました。

残念ながら、我が家にはサンタク、ロースはやって来ません。

せいぜい、豚、ロースが関の山でしょう。

であっても、クリスマスケーキやクリスマス用の

骨付きチキンの宣伝メロディーを耳にしたり、

クリスマスツリー特有のクリスマス色である、赤色、緑色を

目にすると、不思議と、本当に心うきうきワクワク、幸せな気分

いっぱいになります。焼肉を食べると幸せホルモンと言われる

ドーパミンが脳内に分泌されるそうです。また男である僕は、

何も無くても、若くて美人な女性を目にするだけでも、とっても

幸福な気分になれます。毎年、年末になると、まもなく一年が

終わってしまうというのに、子供の頃からなぜか心躍り、明るい

気分になっていた僕なのでした。しかも気分が落ち着き、

ささやかな幸せを大切に、ひとり胸に抱きしめていました。


赤色は食欲を促進させ、青色は食欲を減衰させます。このように

《色や音》に人の心理は強く影響を受けます。歳のせいか最近は

茶色系統の食事に傾いています。ところで週末日曜日は教会で、

クリスマスのゴスペルコンサートで心癒され、

元気をいっぱいもらえました。そこでは自分たち好み、

でも遊び心のある、穏やかで創造的な演出のコンサート。

想像以上に強く美しいものでした。聴き手を音楽に近づける力が

すごいのです。この時期にとても響くものを持っていました。

しかも目にも嬉しい、赤や緑など色とりどりいっぱいに

飾りつけされて、若い女性も多く、何かきらめく心惹かれる

ほんとに心豊かな幸福感で満たされました。年末は疲れや

気の緩みから体調を崩しやすいものです。こういう時期だから

こそ、心に響くものに触れたくなるのです。


《成功》という言葉と関係の無い、無条件の幸福感は

愚直(ぐちょく)な人間をひとつぐらい、高次の次元に

引き上げてくれます。そのことで穏やかでない感情は、

不思議と消え去ってしまいました。《色と音》は人間を

誘惑します。また外出して買い物が出来ない僕は、

最近、安直で安価なネット購買が増えました。

あれも欲しい、これも欲しい、でも消費、いや浪費は金銭的な

罰を招きます。僕はそんな欲にけがれたわが身を恥じて

虚しくなっていました。そんな感情とどうにか上手く共存して

生活していました。でも今ではそんな物欲も、先日の

休日のちょっとした幸福感、安堵感で不思議と

霧消(むしょう)してしまいました。

人の愛情、様々な自然の表情、街の色や音、それらが僕に、

元気、活力を与えてくれたのです。


最後に、示唆(しさ)に富み、うんちくのある言葉を

「『一体どれだけ努力すればよいか」という人があるが、「君は

人生を何だと思うか』と反問したい。努力して創造していく

間こそ、人生なのである。」 御木徳近 元PL教団の教主


今日はここまで。近藤浩二でした。ではまた。毎日の生活や

未来に希望がつながる、実りある今日を過ごせますように。

生活とは、活きる力のことなのです。活力が花を咲かせます。


挑戦

もうじき、秋が深まり冬の訪れの兆しが見えてきます。

太陽が気持ちいい。日差しが最高。草木がなびいている。

うっそうとしてた山が、色づき始めています。秋晴の中、木の葉

やそよ吹く風にだって、幸せの肌触りを感じて嬉しくなります。

自然がじきに幻想的な紅葉を演出してくれます。そんな日に

我々夫婦が待ちわびていた人が現れました。週末の土曜日


穏やかな昼下がり、僕の一番の友人であり、教師でもある

二歳の幼児が、我が家に登場してくれました。我々が

一見すると何気ないモノ。でも彼のどんなモノにも向けられる

温かくて繊細なまなざし。「*@<@*+>」つぶやく。彼は

目の前の、どんな小さなモノであっても、想像の翼を広げます。

決して尽きるこの無い好奇心、色眼鏡と先入観を持たない真っ白

な概念。目にしたモノすべてが興味の対象。彼の小さな身体内に

激しく脈々と息づいている、意識のすべてを傾けていきます。

小高い山の中腹辺りの公園で腰かける。奇抜な飾り物を見つけ

近づき、観察しようとする。身体を滑らせ転倒し身体を撃つ。

痛みと恐怖心で、「エーン、エーン」しかしすぐに立ち直る。

失敗を恐れないで、挑戦し続ける者。死をも恐れないで、

生きるを探求する者。常に、ほとばしるように流れる気力。

一種の畏敬(いけい)に似たものさえ感じます。なぜなら、

自分にとことん素直で正直で、誰の目、さえ一切がっさい、

気にしない、思いついたら迷わず即行動します。まるで

《すべては自己責任》と、自分自身から行動をとりたがります。

人知れず喜び、挑(いど)み続けるその姿に、崇高(すうこう)

なもの、高貴なもの、献身的な何かが感じられます。軽食を


摂った後、後部座席に立ち、後方から景色を楽しんでいます。

帰路途中座席に立ったまま、手を伸ばした状態で、身体を支え

何かを耐え忍んでる様子で、突然口を閉ざしたままでした。

何かを感嘆するたびに、口を開く。でも、感じるままの気持ちと

思いはなかなか言葉に出来ません。我々には聞き取れない

事がほとんど。


彼は充足感が得られるのなら、何を差し出しても、失くしても

構わない。一方私達大人は多くの場合、大きなリスクをとらな

かったり、失敗を恐れたり、自分のコントロールできる範囲内で

行動をしようとするので、突き抜けるほどのモノを取得すること

はできません。私利私欲の影が見える、夢と野望への醜い執念。

世の中の矛盾を見過ごし、社会の理不尽を看過し、自分の

心が感じた違和感にも、立ち向かわないのです。幼児である彼は

自分の心に、激烈に忠実であり続けているのです。世間が

《終わり》だと思っているところが、彼には《始まり》

かもしれません。だからこの命枯れ果てたとしても、誰に

なんと思われたって、笑い飛ばすだけ。と思っているようです。

幼児である彼を見ているだけで元気をもらえます。人が評価

しようが、評価しまいが観察、挑戦をすることが子供の特性。

何か違和感感じて、投げ出したくなって、何もかも

しっくりしない、何かが足りなくて、眉をひそめる、

顔をしかめたくなることが、そこら中に転がっている

現実が私たちにはあります。それでは日常生活は過ごせたと

しても、面白みがない。挑戦なくして、人の成長はありません。

我々に、最も危険な行為は《自己満足》や《自己防衛》です。

自己の内に目を向けたり、広く熱心に学んだり、することは

いっぱいあります。ここで知行合一(ちこうごういつ)が大切。

おそらく、どれだけ《わからないこと》を信じられるか、そこに

飛び込めるか、どうかなのです。幼児は見えない感じる道を

行き、ありのままの人を、モノをすべてを受け入れていきます。

子供は絶妙なバランスを保ちながら、成長していきます。加えて

子供達は、ほんの少しの知恵と勇気を兼ね備え、そして

ほとんどが無欲であります。ただ幼児の挑戦は

ある意味《向こう見ず》の側面があるかもしれません。

と言っても、挑戦だけが現実を変える力があります。

人はもろいようですが、強いものです。しかも、

限界を超えることで、確かに人は強くなります。


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。


彼が突如無言になったのは、車酔いだったようです。顔色が

青白くなって、額と耳下に、冷や汗か脂汗をかき、おむつを

汚していたのでした。その後汚物を処理し、横にして休ませると

再び機嫌よく何かを遊び始めました。


分かった風に書いていますが、正直よく体感出来ていません。

でもここに書くことだけで、自分自身に言い聞かせるようで

あり、これが今の僕の挑戦なのです。


 

思い出

今朝の事。起きがけのコーヒーを、起き抜けのお茶に変更して

トイレでスッキリを感じて、「今日も調子が良いぞ」って

玄関に向かっている僕の背後から、妻の声が

「***さん、亡くなったって、、、」「ええっ」

上がっていた士気が、一気にふやけてしまいました。


僕の母親よりわずかに年上だったでしょうか。二年程前まで

数十年間我が家の近所に居を構え、旦那さんを亡くしてからは

ひとり暮らしをしていて、毎週妻の施術を受けられていた、

僕のお気に入りの《おばさん》でした。その穏やかで

優しい眼差(まなざ)し、ゆっくり、ゆったりとした

気取らない動作と飾らないしゃべり口調が、本当に

心いやされる、得(え)も言われぬ、心和(なご)まされる、

ご内儀(ないぎ)、おかみさんだったのでした。

ずっと昔から(僕が生まれる前から)知っている誰かのような人

数年前より物忘れが発症し始め、東京在住の息子さんの

世話にと、引っ越しされた数年後の便りが

《死の報告》とは寂しい限りです。特別に何かを話し、

何かをして頂いた、僕の人生の何かを変えたわけでもないし、

取り立てて僕自身の《何か》ではないのですが不思議と、

決して忘れられない懐かしい存在なのでした。


人生のすべてはやがて煙のように消えて無くなってしまいます。

でも《いつか》は、それらのすべては素晴らしい

《思い出》となって、きっとよみがえって来るはずです。

どのような形であれ。必ず。


今日はここまで。近藤浩二でした。ではまた。

今日は在りし日の***おばさんを思い出しながら、、、


施術後に「楽になった。ありがとう。」っと、またコーヒー

と菓子を召し上がって「美味しかった。ありがとう。」って

玄関を立ち去って行く小さな姿が思い出されます。拝。


 

喧嘩(けんか)

朝夕ともに涼しいというより、すっかり冬かと勘違いするほど

寒くなってしまいました。数日前、昼前の11時過ぎ車に

乗り込み、昼食を兼ね、隣町へと新鮮卵を購入に出発します。


秋晴れの中、草をなびかせる、でも穏やかな風、空には薄く

静かにたなびく雲、草木がもうじき色付き始める季節が迫って

来ています。秋の柔らかい光に導かれ、低い位置に

視線が移りました。ほんのりと肌寒く、車中から心地良く

秋景色を眺めていました。青空と取り囲む古い家並み、

川べりを走行中、うっすらと、緩やかに、わずかに

揺れ動く白い穂先が僕の視界を捉(とら)えました。

次の瞬間「ススキがいっぱい」確信が持てずとも、

思わず声が、、「あれ、ススキで?」いきなり聞かれて、

泡(あわ)食ってしまって、声が上ずってしまいました。

「えっ、、っと、、」、、押し込まれて、自尊心が

傷つきたくない僕は、しどろもどろと言い訳がましく

「ススキ科か、、ススキの仲間の植物やろ、、」との自己弁護に

走って、自己嫌悪が襲い掛かっていると「えっ、、ほんとに?」

と再度尋ねられ、さらに自己弁護を重ね塗りしてしまいました。

「そんなの、本人に聞いてみないと、分からないでしょ、、」

そんな僕の発言に嫌気がさしたのか妻の逆襲が始まりました。

「もう、ほんとに素直じゃないのね。大嫌い。」

「もっと素直になりなさい。」その時二人の視界に

本当の《ススキ》らしき一群が見えました。

「あれが、ススキですよ。」妻が強い口調で自慢気に

言い切っていました。僕にもなんとなく納得できましたが

なんだかその正当性が認められず、悔しくて抵抗しました。

「君はススキさんですか?」ダイコン役者が絵空事を論じます。

「私はススキではなくて、、鈴木ですよ」とオチをつけました。

「よく間違えられるのよ。気を付けてね。」「あっ、そっだね」


僕たち夫婦はつまらない、些細(ささい)な事でよく

揉(も)めます。お互い聞き流せば、済むことを生来の

負けず嫌いがそうさせるのでしょう。バカみたいです。その後

本気で喧嘩になって言い争いに至ります。良く言えば《本音》

でぶつかり合います。結果どちらも折れないから、互いを

ののしり合ってしばらくの間、沈黙になります。《時間》の経過

だけが、ふたりの《かすがい》として存在しているのです。でも

これで20年近く今もって365日二人だけで生活しています。


本音で傷つくならば構わない。でも、嘘で傷つくのならば

いたたまれない。理屈では理解できても、悪態をつかずには

いられない。これが人間の悲しいサガです。しかし互いに

相手をよく理解し合っているのでしょう。加えて根本的に人間を

愛しているのだなと思います。それは《本音》でぶつかり合う

からなのです。自分は勝たず、相手も負かさず、敬意を払って

《虚》(嘘)ではなく《誠》(本音)を振りかざす限りは、

相手を切っても、傷つけても、血は流れません。


得てしてとかく、我々は自分の正当性を言い張って

しまいがちです。しかし一方の正当性の反対は

《また別の正当性》であることを引き合いに出すまでもなく、

論争は相手に歩み寄る気持ちが、無い限り、平行線なのです。

夫婦喧嘩はたいがいこれでしょう。したがって結論は、

第三者が、客観的に下す以外に答えは出ません。結局

ほとんどの人は残念ながら、その言葉に、

生き方が追いついていないものです。


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。今日も楽しんで書けました。


 

夏の終わり(秋の始まり)

寝床の東に面する窓から、すでに7時前に眩しい朝の

光が差し込む明るい部屋。祝日の今朝、仕方なく目を覚ます。

なんだかスッキリしない。昼前に少し外出。川沿いに

走行して山側に上昇する。一区切り、程よい所で降車する。


外では肌寒い、ひんやりとした心地よい風がそよそよと

吹き抜ける。透明度の高い穏やかな川の水のせせらぎ。

鳥のさえずりも聞こえる。トンボが群生して出現する。

ここからが本番。風が爽やかな、なだらかな道を歩く。

暑くはないがわずかに、汗ばんできた、歩き回って少し

息はあがっているのに、この上なく幸せな気持ちに包まれる。

6畳ほどの広さの小高い山の脇の展望台から市街一面を見渡す。

「めっちゃ、きれい。」「見渡す範囲があなたの領地です。」

領主時代に言われた言葉が頭をよぎる。上を見る。


まばゆいばかりの青空。真っ白い雲。雨によって浄化された

かのような空気。ところどころ彼岸花の赤が目に入る。

秋めいてきた、木々の色鮮やかな青い山。

白い雲が陽光によって、光が乱反射して刻々と色が変わる。

そよぐ風もひんやり、虫の音が聞こえてきます。空と山が

織りなす絶景。まるで絵画の額縁から、切り抜いたような景色。

人の心を癒し元気にさせてくれる自然。反対に、言い尽くせ

ないほどいっぱいに、人を疲れさせる、突発的な

自然災害があった今年の夏。


自然の景色がほんのりと濃い。日常では有名飲食店で

さんまが定食に横たわる。夏の終わりを告げる

兆候(ちょうこう)を感じる。

今はもう9月の半ば、本当に夏が終わり

秋の始まりを実感する。お金より欲しいもののひとつ。

心の平安、充足を与えてくれる、僕の大好きな秋という季節。

秋はすべてが彩られる季節。秋は終わりではなく、冬を通して

春へとつなぐ大切な季節。暑気が払われ、華やいで、活気ある

人や街。山から華やいでいる市街を眺望する。山の上から

思い入れの場所を子細(しさい)に観察する。高校まで

生まれ育った僕の唯一の故郷(ふるさと)の眺望。

♪ うさぎ追いしかの川 ♪ がふと口から洩れる。期間限定の

楽園。あと2ヶ月もすれば、せわしない冬支度を迎えます。

なんだか、わびしい、ものかなしい、せつない、が入り混じった

複雑な気分になったメランコリーな夏の終わり秋の日中でした。

人間は変わらなくても、大自然は常に変わっていきます。

そんな自然がもたらす恵みに、大いに感謝して生きていこう。


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。


 

仕事(労働)

前回の続き。竹田恒泰氏いわく、仕事には2種類あります。

ひとつは《お金を追いかける》仕事。

もうひとつは《お金がついてくる》仕事。


東北大震災後の翌年のこと。為替は超円高。ふたつの企業の

トップの経営方針の両極端な考え。トヨタ自動車では

「国内で生産を続け、国内で販売を促進させたい。」一方某

有名安価家電メイカ―では「出来る限り、海外に工場を

移転していきたい」と。セオリーで言えば、円高では

貿易戦略は困難になりますよね。海外販売は国内の販売価格

より割高になるためです。反対に海外の賃金は国内より

割安になります。通常ならば後者の経営方針でしょうか。


しかしその後、トヨタは上場以来最高の増収増益。片や

家電メイカ―は中国に身売りといった結果に。その結果の違いの

原因は? 目先の利益に飛びつこうとした企業と製造企業の

経営理念である「ものづくり」の王道に立ち還った企業の

差である。との事。なるへそ。経営って難しい。


困難で試練の時だからこそ、むしろ目先ではなく、長い目で

《さらに良い製品》を作ろうと、技術をより研鑽(けんさん)

して「ものづくり」日本、の原点に立ち返り《お値段以上》を

地道に提供し続けたからこそ、賢い消費者を失わなかった。

「お金もうけ」と恋愛は同じで、追いかければ追いかけるほどに

相手(お金)は逃げてしまう。押し過ぎず退(ひ)いてみよう。


もう一度「ものづくり」日本の精神《決して手を抜かない》

《お値段以上》、《最善を尽くす》、《最良品を》の精神を、

見つめ直そう。まずは時間をさかのぼって歴史を見てみよう。


・昭和時代に群馬県ローム層で岩宿遺跡(磨製石器)の発見。

「人の手によって磨きかけられた」約3万年前旧石器時代の石器

人類最古の「人の手による加工技術の産物」

・1853年ペリー来航の時代から貿易で資産を貯蓄し始める。

以前は米本位制でお米が通貨替わりだった。これ以降お金

(銀か金)が、米に変わって通貨として真に認識され始め

流通し、容易に貯蓄出来るようになる。お米は採れた時が最も

価値が高く、時間の経過とともに価値が下がり、貯蓄しても

価値がきわめて薄い。しかも残ってしまえば、

残るほどに流通価格が下がる。米本位制度が崩壊し始める。

・世界一の優秀な絹織物を厳格な管理と緻密な製造工程によって

光沢があり強靭な製品を作り続け本家中国をしのぎ世界に販売。

・チャイナと呼ばれる陶磁器も元祖中国を超え世界に認知。

歴史が古くは先祖から手先が器用で「ものづくり」の

才能があった。事を物語っている。


最後にまとめとして、日本の持つ強さの秘密は

    1. 日本人の勤勉と完璧主義。
    2. 製品に対する強いこだわり。
    3. ひたむきに仕事に取り組む姿勢。
    4. 「ものづくり」に対して仲間が同じ方向を見ている。
    5. 強いきずなで結ばれたチームワークの良さ。
    6. トップからボトムまで以心伝心の関係。

日本人は、いったん仕事を頼まれれば、たとえ

報酬が少なくても、最悪もらえなくても決して

手を抜くことなく、完璧なものを作り、納入するのです。

むしろ見返りがまったく無ければ、無いほど不思議と

より完全で完璧な仕事をしようとするのです。逆に

そういう人間が尊敬を集め、評価される社会なのです。


日本国が世界で最貧国から世界有数の経済大国に

なった背景には上述が、考えられるが、その精神性の根底に

根付いているのは、江戸時代に広まった《武士道》なのです。

ひとことで言えば《世のため、他人(ひと)のため》の

《利己(りこ)》でなく《利他(りた)》の精神なのです。

幕末当時、英国人が日本にやってきたとき片田舎の

食うや食わずの貧しい農民でさえ、礼儀正しく、規律正しく

生活していることに、驚愕(きょうがく)したそうだ。

英国人が当時日記に記載していたそうな。

衣食足りて礼節を知る、が通説だが、日本人は

衣食足りなくても礼節を知る、国民なのです。


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。


 

究極の幸せ

本日の午後講演会に参加しました。無料で聴講者50名程。

地方銀行の愛媛銀行主催による、わが町西条市にある

経営者の集まりである「ひめぎん会」20周年記念の

呼び物で「日本人はなぜ世界で一番人気があるのか」と題した

作家竹田恒泰氏による約90分間のお話しでした。平日の昼間。


大変興味深い内容で、たとえ話しをされ構成がしっかりしており

しかも新鮮な内容の上に、分かりやすく腹の底にしっかり

落とし込まれる、腑(ふ)に落ちるほど、論理的で納得できる

合点のいく事柄でした。しかも笑いありで、面白い。

あっという間。もっと聞きたいと思わせる、

これぞまさにプロの仕事。本当にすごい。カンペなし、天才。

きっと主催者も安い講演料と思ったはず。金額は知りません。

コストパフォーマンス最高。僕なら50万でも呼びたい。


印象に残った事柄は多々ありました。紹介できる内容には

限度があります。僕の記憶力だけが頼りです。今回は

ひとつだけで勘弁をして下さい。また明日書き加えます。

経済会主催です。話のほとんどは経済に関する内容でした。

今世間は不況です。世間を取り巻く状況は厳しいです。

しかしそれでも現在、日本は世界でアメリカ、中国に次いで

経済大国第3位です。今後日本の経済はどうなるのか?

敗戦国日本が、なぜ戦勝国、英国、ロシアを抑えて

経済大国になれたのか? その理由の独自の分析と

今後の課題と、我々が取るべき行動を、歴史的側面から

提示されていました。要因は様々でしょうが、


人間の精神性にその謎を解くカギがあるのではと。

ひとつは《労働》、《仕事》とは何か? 言葉の持つ意味の

捉え方に違いがあるのでしょう。との事でした。

聖書による《労働》は人間にとって犯した罪の《償い》

と考える人間。一方《労働》を自分自身の《生きがい》

や《利他》として考える人間との相違なのです。との事。


例えばここで、一万円の仕事を頼まれたとしたなら、

きっちり一万円の仕事をしようとして、した人間。

一万円以上の仕事をしようとして、してくれた人間。

一万円以下の仕事しかしない人間。

どの人間に仕事を依頼したいですか? どの人間が将来

豊かになるでしょうか? もちろん言わずもがなですね?


最後に結局、究極の幸福とは? と問われました。長生きが

短命より幸福とは限らない。その人の最後(逝く時)が重要。

経済会の集まりの話でしたが、お金では無い。もちろん

貯金残高の多さでは無い。功績の多さでも無い。それは

《惜しまれて》逝くことです。誰もが悲しんで遺憾(いかん)に

思われて死んでしまう人が一番幸福な人生を送った人なのです。

さくらももこ先生、うーん、えーん。悲しい。拝。


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。


追伸、、大雨、台風、地震など自然災害で生活を破壊されていく

災害大国でもある日本。《災害防止予防工学》なる新しい学問を

一刻も早く確立させて、自然にされるままでなく

自然に、対抗していく方にも考えを考え直す必要があるのでは

、、、。とは僕の考え。でないと数年後、人類の文明は破滅する

予感が、、、。例えば、台風が発生した時にミサイルか何かで

発生雲を消滅させる、など。でも実現不可能な夢の話かな。


 

自分らしさ

ーーーーどうすればいいのだろう?

ーーーー何処を見ればいいのだろう?

ーーーー何を口にすればいいのだろう?

ーーーー正しい答えが分からないよ。結果彼が出した答えとは?

なぜか困惑している様子です。普段の彼と、どこか違う風です。


お盆以来、我々夫婦に、とっても嬉しい訪問客でした。

あと数日で2歳の誕生日を迎えるその幼児は、

徐々に脳が発達しつつあるのでしょう。思いの外、

知恵も付いています。話せる言葉も増えてきました。

彼の思いが、正確な言葉となって、我々に伝わって来ています。

行動に伴って、同時に言葉も観察できます。すごく面白い。

覚え初めの《言葉》と、覚え初めの《マージャン》は

すぐにでも、使いたがる。の言葉通り。

言葉を覚えた喜びと、自然な本能による欲求なのでしょう。

「ブー、ブー、いっぱい。ちょうちょ。赤。青。」

覚えたモノを目にすると、その名前や特徴を口にして

我々に確認、承認を求めているようです。事あるごとに、

何かを見つけては、「見て、見て」って。呼ばれます。

いつもの席に座ってから、言葉を出し続けています。


ところが約一時間後のこと。妻が用事で外出するので、

左半身不自由な僕だけでは不安もあって、妻の姪子である、

ひいき目に見ても、若くてきれいな女性が、入れ替わりで

部屋に入って来ました。幼児は初対面の彼女をちらりっと

見たと思ったら、恥ずかしいのか、うつむいたままで、

急に無言で、おとなしくなってしまいました。

しばらくの間あれほど、うるさく開いてた口が、

閉じられたままです。静かです。しかも身体も

ほとんど動きません。動かせないのでしょう。


《何か》が彼の行動を押さえつけてしまいました。幼児は、

わずかの間に成長し続けている《身体》と《頭》と《心》。

「いい子」になるようにと、願っている周囲の大人たち。

周りの大人と社会の都合に合わせるように育ってきた幼児。

そこで、今まで、そうなろうと応えていた幼児。

でも今回、どうすればいいのか、分からない、表現出来ない、

突然初めて出くわした《感情》。その後なぜだか

分からないが彼は、自分の顎(あご)を

テーブルに叩きつけていました。不思議なことに、彼はまだ

2歳弱にも関わらず、自分で自分を痛めつける

自傷(じしょう)行為をしていました。自分で処理できない心の

不安やもどかしさを、落ち着かせようと

本能が衝動でさせているのでしょう。


他人はそれを、《悪》としての、《人見知り》の一言で

片づけようとします。僕は、彼の、

その凍り付くような無言や行動停止、

「それこそ」が、本当の彼自身《自分らしさ》だと思います。

脳の回路を通過しないで、「心のままに」《フリーズ》した

身体と言葉は、本能からの《感情》による行為なのです。


人は生まれてから、周りの大人の都合の良いように

知識や常識を植え付けられて、一人前の人間のごとく

育っていきます。それこそが本当の《成長》とでも

あるかのごとく。そしてそういった子供が社会では

優秀で良い子と考えられています。しかし昨今(さっこん)

閉塞してしまった社会を打破しようと、《ナンバーワン》より

《オンリーワン》のうたい文句とともに

《個性》や《自分らしさ》が見直されようとしています。


おそらく姪子の、美人女性特有の風貌や雰囲気が幼児の

本能の何かを強く刺激したのでしょう。その刺激は、

思考(理性)による行為を、抑制させるほど強烈で

あったのでした。僕は

「いいぞ、その調子だ。それを大切に育って行けーー。」と

身勝手に思いました。それが***お前特有の持ち味なのだぞ。

社会や大人たちの都合(常識)に無理して合わせるな。

自分を貫け。無理して社交的である必要は無い。人見知り結構。

そしていつまでも、自分らしさを貫いて、いつの日か

社会の《規格外》と呼ばれろって願った今宵(こよい)でした。


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。