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公共機関での手数料って何???

今日は昼過ぎから新しい免許証を受け取りに警察署に行きました。30分の講習を受けて免許証を受け取ることが出来ました。

結婚と同時に本籍を変更してました。それが免許証に反映されていないため、その手続きで受付に寄っていました。

家内の迎えが来るまでの間、椅子に座って待っていました。交通課には頻繁に免許証の更新の手続きに人が出入りしています。そして更新の説明の最後に必ず、

「手数料2500円になります。」と女子事務員が言っていました。

僕の頭の中はこの時《手数料》に反応してしまいました。


《役所》でも何かの書類を受け取る時、必ず《手数料》を請求されていました。以前は疑問も持たず言われるままに支払っていました。


しかし病気を患ってからは、生活の中で社会の不条理や理不尽を痛切に感じ始めて、その想いを強く感じる毎日です。


民間企業の場合は、利益を追求しないと存続し続くことは出来ません。だから手間や物品には料金が発生するでしょう。

しかし公共団体の場合、どうなのでしょうか。

経費は毎年毎年、把握できてるはずです。

それに伴って、予算をある程度的確に算出できるはずです。

その予算内で経費を収めるようにすれば、赤字は出ないはずです。全ての企業や家庭はそうしてるはずです。

にも関わらず、公共機関での、手数料と称しての金銭の請求は、税金に加えての《二重取り》です。


ただ免許証などの証明書は、写真や特別な型紙の費用やその作成を専門業者に外注する必要があるから、その請求であろうことは理解できます。

しかしその業者は組織内部での入札で決定されるのであろう。それは《談合》と言われる非合理で不名誉な集まりの中で。


このような《手数料》の請求は、警察や救急車を利用するたびに手数料を請求するような社会と同じでしょう。

と僕は思うのですが。

そのような経費は全て税金に組み込まれていますよね。

僕は住民票や戸籍証明書の取得、免許証の取得などは、日常生活を営む時に必要な経費だと思いますけど、どうなのでしょうか?


現在、ひと昔公共機関であった郵便局が民間の参入や時代の変革によって、赤字を出してしまい、経営が成り立たない局が多いと聞きます。

つぶれない、安定している職業として、利用者の立場を考えない過去の業務や慢心の連鎖が今現在の郵便局の結果なのです。


NTT、国鉄、日本たばこ、郵便局、昔公共機関の代表と言われる機関は経営が成り立たず、今は解体か民営化になっています。

しかもです。その業界内では国の後ろ盾もあって、怪物のように振る舞っていた企業も、今では百戦錬磨の民間企業に後塵を拝しています。


現在公共機関は、警察、消防局、学校、裁判所、役所くらいでしょうか。近い将来でもその母体は無くならないでしょう。

しかし数年後には現在よりも、

業務が縮小されて、民間委託に移行されていくことでしょう。

そして最終的に無くなる機関もあるかもしれません。


今日はここまで。ではまた。近藤浩二でした。


今日も2曲プレゼント。

カーペンターズでプリーズミスターポストマンです。

http://taiyohanasaku.waterblue.ws/koji/wp/music/PleaseMrPostman.mp3


ローリングストーズでジャンピングジャックフラッシュです。


http://taiyohanasaku.waterblue.ws/koji/wp/music/RollingStonesJumpingJackFlash.mp3

摩訶不思議な人々!!!

世の中にはほんとに本当に、摩訶不思議な人が居ますよね。

《理解に苦しみます。》


賃貸住宅を探している人が居ました。

「この物件は太陽光発電が付いているから無理。」

「だって、電磁波が怖いから。」だって。《もう、携帯電話使うな!!》

《だったら、電気が一切通っていない未開の土地で生活してみれば!》


また別のある人が食事に関して不平を抱いていました。

「オーガニックの食物しか口に入れません。」

「化学肥料や化学食品は危険だから。」《お前はばかか? 直に死ぬぞ!!》

《遠く離れた山里で一から種まいて育てて自分一人で生活してください。》


どちらも現代を生きている我々には、不可能ですよね。

文明社会から取り残されて文明の利機を手放さなければ、そして世間から完全に隔離され、自給自足をしたとしても生活を続けていけるかどうか?疑問です。


仮に電磁波が無い生活が可能であったとして、電気機器に囲まれた便利な生活を本当に全部手放すことが出来るでしょうか?

不便な生活によって、電磁波より身体によくない環境を、自分の身の回りに築くことにならないでしょうか?


またもし仮にオーガニックの食料だけの生活が可能であったとして、それだけで生きていくための栄養を過不足なく摂取できるでしょうか?

本当にそれで健康を維持できるでしょうか?


文明は人間の知恵が生み出した結晶の賜物なのです。

そして文明の利器を使ってこその人間なのです。それこそが人間たらしめているのです。

ですから我々は社会から切り離されて生き続けていくことは出来ないのです。


人間誰しも、時代の流れという《乗り物》に乗って生き続けているのです。自分たちだけが、そこを降りて生き続けていくことはできないのです。《乗りたくなければ、死ぬ以外にないのです。》


短絡的に物事の《善》と《悪》を決め付け無いで、もう少し多面的に、大局的に物事を観察して欲しいと思います。そうすれば行動範囲がもっと広がり、自由度も増えていくでしょう。


今日はここまで。ではまた。近藤浩二でした。

今日も2曲プレゼント。


アメリカでベンチュラハイウエイです。

http://taiyohanasaku.waterblue.ws/koji/wp/music/AmericaVenturaHighway.mp3


スティーリンダンでユアゴールドティース2です。

http://taiyohanasaku.waterblue.ws/koji/wp/music/SteelyDanYourGoldTeethII.mp3

障害者を抱える家族の本音

僕は10年前に脳疾患を患ってしまいました。

残念なことに後遺症で、左半身まひの状態のままなのです。

その結果、介護度1から5段階で軽い方の介護度2の認定を受けています。

《僕は今現在、障害者なのです。》


左手と左足の自由を奪われていますので、一人で出来ることは限られています。

したがって、誰かの助けがなければ、自分一人だけで生きていくことは不可能です。


最低限の食事でさえ、自分一人では準備できません。

《憲法で保障されている、人間として生きていくためには、健常者の同居人の家族が最低一人必要になるのです。》


当然潤沢なお金があれば、自分一人でもどこかに外食する。

または弁当や総菜等出来合いの食事を購入する。等によって食事は出来ます。

《お金で介護人等を雇えばすべて解決します》

《金の力は絶大です》


そう言った理由で僕は、介護人の手助けのレベルの必要性から介護度2という軽いレベルから2番目です。

介護する人の立場からの見解による、2番目に軽いレベルの人ですと評価されたのです。


一方障害者と同居する健常な家族には,

どの程度、負担になるのかは、障害者の僕には知る由もありませんでした。


しかしです。

本日より、障害者と同居する家族の負担を感じることが出来ました。


障害者が(どこに)、(どの程度)、障害を持っているのか、によって家族の感想は千差万別でしょう。


僕は今回、認知症の患者と一つ屋根の下、1日過ごしました。


本音を言わせて頂くならば、

「子どもか?」 「ばか?」 「あほ?」が正直な感想です。

《ある意味では子どもよりタチが悪い。》

現在僕は運動障害を抱えていますが、幸運なことに思考力、判断力などは普通です。そういう意味では、自分を《普通人》であると思っています。《でも誰かに否定されるかもです。》


認知症は2015年には約700万人、65歳以上の5人に1人の割合。現在はさらに増加し続けています。症状としては、

記憶力が減少して、さらには理解する力や判断する力がなくなって、社会生活や日常生活に支障が出てくるようになります。

それ以外は普通なのです。簡単な日常会話も特に差し障りありません。ただし、

《常識では理解不能の予測できない行動を起こします。》そして、

《日常生活において他人に迷惑をかけるときがあるのです。》


また幸運なことに先週末、知的障害者を持つ家族の出演される舞踊や演奏の伝統芸能を鑑賞させて頂きました。

そこに居合わせた彼ら彼女たちは、明るくて優しい、笑顔の素敵な、強い絆でつながっている人達でした。


今回一連のことや障害者と生活することで僕が気づかされことの一つに、

障害者は社会にとっての《障害》などでは決してなくて、むしろ逆に周りに《益》をもたらしている存在なのではないかと思わされました。


正直すぐに感じた感想は、邪魔くさい、面倒、ついていない等のマイナス感情でした。

時間が経って、わずかの期間後に感じた事は、

どういうことかと言えば、障害者が居ることによって、

周りの人たちが精神的に高められているように思われました。


我々は障害を持つ人と接することによって、普段当たり前と思っている行為や思考が、決して当たり前では無くて、特別なものかもしれないということに気づかされたということです。


普通なことが特別かもしれないという感謝の念が持てるようになりました。

あらゆる事柄に対して、耐え忍ぶという忍耐を学ぶことになりました。

命の大切さ、尊さ、個性の多様性、

人間の弱さ、強さを知ることが出来ました。

自分以外の人を全幅の信頼、信用する必要性。


今日はここまで。ではまた。近藤浩二でした。

今日も2曲プレゼント。


ビリージョエルでシーズガッタアウエイです。

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ビートルズでエブリリトルシングです。

http://taiyohanasaku.waterblue.ws/koji/wp/music/beatlesEveryLittleThing.mp3


 

「昔の名前で出ています」はもはや通用しない!!

野暮用事で隣町で用事を済ませその隣町からの帰りの事でした。

車内で「あ、、、、@*+くん」と中学校が同じで近い年代の家内が一言。

「う、うそ!」「あんなじゃなかったろうに」。

どこからどこをどうのように見ても、あんなに冴えてない男じゃないでしょうに。

同級生の僕はどう考えても納得の出来ない彼の風貌とその雰囲気。


もし本当にその人が、家内の言ってる同級生の彼だとしたら

僕はとっても悲しくて切なくなりそうです。

学生時代に勉強やスポーツとも優秀でリーダーシップもあって、僕自身尊敬していた男性だったからです。

その彼が昔の面影は視るところもなく、少し肥えてしまい、自信なさげに暗くうつむき、何か辛そうに、人生に疲れ切っていてそうなのです。結果、どう見ても《敗北者》そのものなのです。


その時僕は絶対、僕の知っている彼であって欲しくないと強く思ったのでした。学生時代の彼の優秀なことを、知っている僕としては、より大きな世界で《成功者、勝利者》として名をはせて、故郷に錦を飾ってほしいと願っているのでした。


しかし彼の兄弟と同級生である家内が「間違いないよ」との発言により、僕は厳しい現実を受け入れて愕然としたのでした。

彼がどのようないきさつで、故郷に戻って来たのかは解りません。実際長男なので家を執る身ではあることはあるのですが。


でも考えてみれば、人の人生なんてある時期だけを、一緒に過ごすだけでは推し量れないものです。

《せんだんは双葉より芳し》とも言われますが、

《10歳で天才、神童と呼ばれ、二十歳過ぎればただの人》っても言われますからね。

幼少期には世間が小さいので、少しの才能と努力で頭角を現すことが出来ます。

歳を重ねれば世間が広がっていくので、頭角を現すのは少しづつ難しくなっていきます。社会人になれば、世間は全世界になるわけですから、少しくらいのレベルの才能では頭角を現すのは本当に困難なのです。

よって本当に才能《本物の才能》があって実力が伴わないと世間に認知されないでしょう。

逆に学生時代優秀でなくても、生き方によっては、社会に出てから活躍される方も数多く存在します。


ですから学生時代いくら優秀であっても、その後の人生が保証されるわけではありません。

また逆に学生時代にいくら評価が低くても、出会う人や運によって自分の人生を大きく花開かせる人もいますよね。

より良い人生を保証されるように、学生時代には勉強に励むわけですが、、、、現実はそう甘くはありません。《学生時代優秀であることに、こした事はありませんが》

また全く別の人の話を家族の人から聞くこともあって、

「昔の名前で出ています」はもはや通用しない現実を痛感しています。


実際のところ、どうなのかは本人から直接聞かないことには解りませんが。

僕ももう半世紀以上も、人間として生き続けています。ですから、外見を一見するだけでも、ある程度人の事は正しく判断できると思っています。


実際厳しい現実に直面して、右往左往して、もがいている人ほど、昔の輝いていた時代をよく口にしてしまいます。

そのような人がいたとすれば、現状の自分に不平不満を持っています。

くだんの彼とは、最近一言も話していないので事実は解りません。

しかもそのような人に限って、絶対に現在の自分の無能《実力の無さ》を認めようとしないのです。

そしてその原因を自分自身ではなく、別の何かや他人のせいにしているのです。


昔の自分のことを晴れ晴れしく語る人には気をつけましょう。

そして《過去の栄光は過ぎたこと》なのです。


《人は無自覚によって自分の地獄を掘るものなです。》

《無能な人はもはや無用なのです。》


すでに時代は混迷期に入っています。

厳しいようですがこれが現実なのだと、自分自身にとっても強く思わされた今日この頃でした。


今日はここまで、ではまた、近藤浩二でした。


きょうも2曲プレゼント


ポリスで見つめていたいです。

http://taiyohanasaku.waterblue.ws/koji/wp/music/police見つめていたい.mp3


クイーンでキラークイーンです。

http://taiyohanasaku.waterblue.ws/koji/wp/music/qweenkillerqueen.mp3


 

早すぎた天才?二コラテスラ

深夜スポーツニュースを見ようとテレビを点けました。

BSが映りました。もっと面白い番組でした。

BSって時々良い番組作りますよね。


「フランケンシュタインの誘惑」でした。

そこで話題に取り上げられていたのは、

稀代の天才発明家二コラテスラでした。


実は僕は初めて聞く名前でした。番組を視てびっくり仰天しました。

発明王でよく知られているエディソンをも、はるかに凌駕する天才発明家でした。


彼は19世紀中期に、現クロアチアで誕生しました。

生まれた時から特殊な能力があったそうです。

それは数学的問題の解決方法が数式として全体像が、工学における科学的発想が映像として、頭の中に明確に描画されたそうです。


《まさに生まれついての天才です》

しかし天才がゆえに一般人には理解されずに、実現されなかった構想も数多くありました。

生涯科学研究に捧げた人生です。しかも生涯独身です。

そして悲しい事に、誰にも見守れることなく、一人静かにホテルの一室で永眠しました。


目を見張るのは彼の残した功績の数々です。

現在の我々の生活の根幹をなす、ライフラインの基礎等も構築してます。

    • 発電所の送電システム
    • 蛍光灯の発明
    • 交流モーターのアイデアと発明
    • 無線通信のアイデアとその構築
    • ラジオやラジコンの発明

エジソンとは永遠のライバルでした。

二人は世紀の「電流戦争」で争いました。そしてテスラが勝利しました。

電流は初期の頃は「直流」が主流でした。電池、モーター、白熱球等、我々の生活の電気機器のほとんどが直流仕様でした。

しかも「直流」は電圧が一定で、流れる方向も一定で、《良い子》みたいに大変扱い易かったのです。

一方「交流」は電圧も流れる方向も不定期に変化するのです。《駄々っ子》みたいに、とっても取り扱い難かったのです。

しかし当時、電気の供給に問題があったのです。


電気の発電時は交流なのです。

電気機器の仕様のため、「交流」から「直流」に変換しなければなりません。この変換時に大きなエネルギーの損失があったのです。

テスラはこの様子を視て「交流」仕様の電気機器を作ろうと考えたのでした。

昔も現在もほとんどの機械には、モーターが使われています。

当時は「直流」のモーターしかありませんでした。

後に彼の世紀の大発明、《2相交流》モーターが生まれました。


加えて当時発電所からの送電は「直流」の低い電圧でした。

電圧が低いため、遠くの多くの場所に送電できません。

そのため電気機器を享受できない場所が多かったのです。

享受するためには発電所を数多く作る必要がありました。


一方「交流」送電ならば、高い電圧のままなので、遠くまで送電できます。そして電気機器の近くで「交流」のままで、電圧を落とせば良いので、損出が少なくて済むのです。

エジソンの提唱した「直流」送電とテスラの提唱する「交流」送電が争ったのです。そしてテスラが勝利しました。


現在の発電所の送電システムは「交流」送電ですよね。


また現在の我々の生活で、当たり前に使われている、無線通信や無線送電の基本もテスラが考えたものなのです。《すごいですよね》


そのおかげで我々は現在、ネットや携帯電話が不自由なく使えています。


加えてテスラは《地震発源器》や《殺人光線》なども考えていました。

「世界送電システム」と呼ばれる発電システムも構想していました。

しかし彼の考えたアイデアは常人には理解の範疇を大きく超えていたのでした。

その結果、理解されずに資金援助がもらえませんでした。

そして彼の多くの理論やアイデアは採用されないままで、時代に取り残されたのでした。《ほんとにもったいない。》


また彼のアイデアの中には猟奇的なものが、割と多かったのでした。

《地震発生源器》、《殺人光線》等です。

そのため狂信的な崇拝者もいました。

あのオオム真理教の浅原は、阪神淡路の震災を、テスラの地震発生器の理論で自分達が発生させたと主張していました。

《当然嘘です。》《自然現象でした。》


この二コラテスラって人、どうですか? みなさん、興味持たれましたか?


彼の人生は、どちらかと言えば、幸せではなく、不幸せだったかもしれません。

それは彼が科学や機械にはすこぶる精通していましたが、人間や経済には無頓着過ぎたのでした。《しかも妥協をよしとしませんでした。》

《それは天賦の才能というものの、代償だったのかも知れません。》


一方でエジソンは「天才ではなくて、才能を上手に使いこなして、愛のある人生を本当に享受して、愛される幸福な人生を送った」と思います。

テスラは《偏った》時代を先取りし過ぎた《本物》の天才だったのかもしれません。


もし二人の人生のどちらを選ぶかと問われるならば、

テスラのような天才には憧れますが、正直エジソンのような人生を送りたいと願うでしょうかね。


テスラは残念なことに、当時の時代には埋もれてしまいました。

しかしいつの時代にも、どのような分野においても、テスラのような《本物》の天才はきっと存在するでしょう。


そのためにも社会は常に門戸を開けていられるように、我々も万全の準備を怠らないでいたいものです。


未来を追い求めるもの?

それは人か? それとも科学か?


今日はここまで。ではまた、近藤浩二でした。

今日も2曲プレゼント

ハニードリッパーズで シー オブ ラブです。

http://taiyohanasaku.waterblue.ws/koji/wp/music/TheHoneydrippersSeaOfLove.mp3


エリック プラクトンでレイラ(アンプラグド)です。

http://taiyohanasaku.waterblue.ws/koji/wp/music/Layla.mp3


 

快感、快楽とは?!!

僕は現在、週に2回リハビリに行っています。

そこでは柔道整復師によるストレッチや筋肉マッサージをの施術を受けています。

このストレッチとマッサージがこの上もなく快適なのです。

快適だけの言葉では伝えられないですね。

映画で薬師丸ひろ子が機関銃を打ちまくった後のセリフ。

気持ちが良くて、「あー、、、、か、い、か、ん、、、、」

《男の僕が味わうあの快感よりも何十倍の快感なのです。》

少しは解ってもらえたかな?


人が最も快感を感じる時はいつでしょうか?

ネットでこんな事が書かれていました。

万人が共通して感じる時は次のような時でしょう。

  • 好きなモノを好きなだけ食べられる時
  • 寝たいだけ寝れる時
  • SEXしている時

幸せを感じる時と同じときでもあるでしょうか?

でも少し違うかな? 違う気がします。

個人によって千差万別ですよね。


脳科学者の茂木健一郎氏の著書で

「自分には無理だと思っていたことが出来たとき、おこらないと思っていたことがおきたときに、もっともドーパミンが出る」

茂木健一郎『頭は「本の読み方」で磨かれる』, (2015)

脳科学的にはそうらしいです。

ちなみにドーパミンは快感を感じている時に出る物質です。

解ったようで、よく解らないですよね。


抽象的な例で言うと、あなたが何か今、夢を持っていて、それは周囲が「絶対に無理」ということがあったとしましょう。

それがかなえば、《とんでもない快感》を得ることができるということです。


ここで《とんでもない快感》ってどんなものなのでしょうか?

言葉では言い表せない、言い尽くせない、筆舌に尽くし難い、

とんでもない、ものなのです。《ほんとよくわかりません》

《生まれて初めて感じた心地よい感覚》

オリンピックの水泳競技で最年少で金メダルを獲得した岩崎恭子のせりふです。

《今まで生きてきて、一番幸せです。》

その時の彼女はまさに《ドーパミン》が大量発生していたでしょう。《とてつもない快感を味わっていたのです。》

僕が現在、リハビリテーションで受けている感覚が、まさにそれなのです。


しかしです。その感覚(快感)ですが、不思議なことに、

快感と同時に少し痛みを伴うのです。

そして必ず少し痛みが無いと快感を感じないのです。

上手く表現できませんが、《少し痛み》があって、そのすぐ後に《とてつもない快感》が訪れるのです。

それも少しの痛みなのです、(強くはありません。)痛みのそのむこう側にのみに、快感があるのです。

ここで言う痛みはある意味、《不快》です。《快感》とは正反対の感覚でしょう。


寒い冬を過ぎなければ、春が来ないように。

深い暗闇が過ぎなければ、明るい朝日が射さないように。


正反対の現象は極めて近い、裏と表の関係なのです。

それも極めて薄い境目です。

「毒」と「薬」は表裏一体。とも言います。

「善」と「悪」は表裏一体。とも言われます。


この不思議な現実、熟考の余地ありです。


今日はここまで。ではまた、近藤浩二でした。

今日は2曲プレゼント。

10ccでアイム ナット イン ラブです。

http://taiyohanasaku.waterblue.ws/koji/wp/music/IMNOTINLOVE10cc.mp3


ドゥービーブラザーズでリッスン テュー ザ ミュージックです。

http://taiyohanasaku.waterblue.ws/koji/wp/music/ListenToTheMusic.mp3

「善」と「悪」一体どっち? どっちも!

 

この世には善いことをしている「善人」が居てます。

しかしながらその裏で悪い事をする悪人の顔を持つ「悪人」も居てます。どちらも同じ人なのです。

善い事をたくさんする人でありながら、その一方で、同じ人が悪い事もいっぱいしてしまうことがあります。

これが肉体を持った人間の正体なのです。だからこそこの世は面白いのです。


僕が子供の頃から、いやはるか昔から、そう太古の頃からでしょう。「良い子、善い人になりなさい。」と教え続けられて人は育ってきたはずです。それが人間にとっての成長とでも万人が思い込んでいるかのごとくです。「悪人になりなさい。」なんて誰も言われたことはないはずです。

ということは、教えてもらわないと人間は、ついうっかり自然と悪い事をしてしまう生き物なのでしょう。

悪い事は教えてもらわなくても簡単にできますからね。生善説なんて嘘なのでしょうか?


現実社会のこの世では「善人」ほど生き難い社会はないのです。

最近のベストセラーに「嫌われる勇気」と呼ばれる本があります。読んでないのでよく解りませんが、誰からも好かれようと「良い人」になろうとしても駄目です。時には嫌われてもいいから「悪い人」になる勇気を持ちなさい。おそらくそのようなことを推奨する本でしょう。


芸能人のような好感度の要因が人気度に影響を与える社会では「善い人」であることが重要でしょう。

「善人」であることが前提である職業も存在します。医者、教師、政治家、宗教家等は、本当はエゴによる欲はかなぐり捨てて、どんなときでも「善人」として生きなければならないはずです。ですから昔から聖なる職業、聖職と呼ばれて当人の人柄抜きで尊敬されていたものです。ところが昨今を賑わせている世間の話題は聖職と呼ばれていた人たちの虚偽の雨嵐です。これなんてまだまだ氷山の一角ですよね。

法律に抵触しない範囲内での「悪」ほど始末に悪いものはありません。巷にあふれかえっています。


それはともかく現在、我々の生きている一般社会においては「悪い人」の方がどちらかと言えば「善い人」より生きやすいはずです。


物欲、金銭欲、名誉欲、権力欲、、、、、これらの欲をある程度持っていないとこの世では生きていけないのです。

これらはある意味、闇の部分、暗黒面の部分が支配しています。そしてその闇の力、暗黒の力はこの世では「善」の持つ光、陽の力よりも、はるかにパワフルで力強いものです。それは普段、闇は光によって隠れているためどのようなものが存在しているのかが把握できないため不気味なのです。表面的には普段は、光、「善」だけのような人もいてますが、本質的には付き合えば、闇、「悪」であるという人が居てます。最も注意すべき人ですよね。


昔から太極図というものの考え方が存在します。僕はこの考え方がいつの時代にも正しい考え方の一つであると思っています。


「悪」は絶対的に悪いものではないのです。

光があるから闇が生まれ、闇があるということは光がある証拠なのです。


陰の中には陽があり、陽の中には陰がある。

陰極まれば陽になり、陽極まれば陰になる。

二項は決して対立して存在するものではないのです。


「善」と「悪」はどちらも大切なものであります。そしてそのどちらも使えてこその人間なのです。


しかしながら我々はその二つを絶対にその使うべき状況を、見誤って使うことは決して許されないのです。

それを肝に銘じて「善」と「悪」の二つを使い分けて人生を享受しましょう。


今日はここまで。ではまた、近藤浩二でした。

今日は最後に一曲プレゼント、ドンヘンリーでハートオブザマターです。



http://taiyohanasaku.waterblue.ws/koji/wp/music/the heart of the matter.mp3

睡眠!?

一昨日 夜中に目が覚めてから、なかなか寝付けませんでした。あれこれと色々と思考が頭を駆け巡ります。ほとんど眠ることなく一時間後に起き上がりました。


時計を見ると朝の5時でした。

ここ最近パソコンの初期化をしたのですが、うまく処理できなくて何度も挑戦しており、ネットで調査を繰り返し試行錯誤の疲労は半端じゃありません。

現在我が家には使用できるパソコンが3台あります。しかしそれぞれのパソコンには互換性がなく、windowsme、windows7、windows8の三種類。しかも購入時の書類やディスクが紛失しているのです。


自分達の管理の甘さを痛感しています。


その続きの作業を朝5時から始めました。それから食事、リハビリ、仕事、入浴等で横になることもなく、気が付くと夜の11時過ぎ心地よい疲労感とともに睡魔が襲ってきました。


昨日は夜中に一度も目が覚めることなく昼前の11時に目が覚めました。睡眠時間連続12時間でした。

何にも捉われることなく睡眠に没頭しました。ほんとに爆睡状態。


睡眠には浅い眠りのレム睡眠と、深い眠りのノンレム睡眠があります。
眠りにつくと、まずノンレム睡眠があらわれ、次に浅い眠りのレム睡眠へと移行します。私たちの眠りはこれら性質の異なる2種類の睡眠で構成されており、約90分周期で一晩に4~5回、一定のリズムで繰り返されています。


僕は今まで不眠症なんて贅沢な心の苦しみに煩ったことはありません。

不眠症なんてまったく悩む意味の無い悩みですよね。


そのため眠れなくて苦しかった経験もありません。

眠れない時は眠らないだけなのです。

その時にやっておこうと思った事柄をやるだけなのです。

すると眠るべき時に自然と眠りにつけます。


生物学的には、睡眠は脳を深く眠らせて、精神的な疲労を回復する大切な営みなのです。

昔から「寝る子は育つ」といいますが、脳が深い眠りに入ると成長ホルモンが分泌されることもわかっています。この成長ホルモンは細胞の新陳代謝を促して、皮膚や筋肉、骨などを成長させたり、日中の活動で傷ついた筋肉や内臓などを効率よく修復する働きがあります。

いってみれば、睡眠は身体と脳の再生工場のようなもの。

私たちは、心と身体の健康を保つために眠る必要があるのです。


以前はダブルのサイズのマットを敷いて家内と二人で8畳の部屋で寝ていました。

最近は部屋の広さが同じ8畳の部屋でシングルのサイズのマットで一人で寝ています。


睡眠でも重要なことはどこで眠るかではないのです。

誰と眠るかなのです。


今日はここまで。ではまた、近藤浩二でした。


 

安定は良いことなのか!?

実は僕は今左半身まひで、生活していくためにはリハビリが欠かせませんが、生きている事自体がリハビリしているようなものです。


最近、リハビリを変更しました。

以前は病院配下での訪問リハビリを施術してもらっていました。正直な感想では「ダメですね。」

熱意が感じられません。改善の見通しが見えてきません。

3年程続けました。そろそろ潮時かな、と思っていた時に近所に民間のリハビリ所の新設の予定の話がありました。体験を受けて後直ぐに移ることに決めました。

これが思いの外、良いのです。中小の民間経営たる所以でしょうか。


大きな病院にとっては我々難病患者はていの良いお得意様なのです。

死ななければ、生きてる限りはお客様なのです。

治らなくて当たり前、現状維持で十分、少しでも改善すれば儲けものと患者も医師も考えているのです。

もちろん患者である我々は完治することを望んでいるのは言うには及ばずです。

しかしながら我々患者を取り巻く人達は生きているだけで十分と思っているのが現状でしょう。

定期的に行われる定期検診がその最たる例でしょう。

「何か困ったことはありますか?」「特に、ありません。」「今まで通り生活できていますか?」「はい」

通り一遍等の質疑応答に、マニュアルにのっとった処方箋を出し10個ほどの薬を受け取り帰宅。時には強制的に機械診断、血液調査をされるまま。

しかもです。予約しているにもかかわらず、一時間遅れは当たり前です。

そして待たされた挙句がマニュアルに従っての薬の処方箋です。

病状が改善する道理がありません。


医師の側にも医者としての本道が抜けているように思えてなりません。

もう治らないと考えているようです。死ななければ良いでしょう。現状維持で十分でしょう。

悪化するのだけは防ぎましょう。

そのためには薬を飲み続けてください。

なにせ良くなった、前例がないのですから。とでも言いたいようです。


本当に優秀な医者など必要ありません。今の医者に倫理観を求めても無駄です。

このような医療現場が当たり前の日本こそ人工知能ロボットで十分です。


生活習慣病患者を抱え込む人数が、病院の収入との間に相関関係があるのです。

多く抱え込む病院が儲かり、病院が大きくなっていくのです。

大きくなったから安定するのです。安定するから挑戦しないのです。現状維持を望むのです。サービスの質が低下していくのです。

少ないと儲かりません。そのため大きくなりません。安定しません。サービスの質の向上を目指すのです。革新が生まれるかもしれません。


ほんとに、安定することは良いことなのでしょうか?

成長を続けている社会では誰でも望むことでしょう。

しかし成長が止まってしまった社会においては、安定は障害、障壁になるのです。


医は仁術とは遠い昔の話です。

やはり、医は算術なのです。


大きな病院には期待するのはやめにしましょう。

それでリハビリを変更しました。

今後の医療のさらなる大きな発展、革新を望む者には大きな安定した病院などは望みません。必要ありません。


良くなるかもしれない、改善するかもしれないという期待感を、持てる医療や社会の形成を期待して止みません。


ここに現代医学の根幹をなす、ヒポクラテスの誓いを載せます。

医の神アポロンアスクレーピオスヒギエイアパナケイア、及び全ての神々よ。私自身の能力と判断に従って、この誓約を守ることを誓う。

  • この医術を教えてくれた師を実の親のように敬い、自らの財産を分け与えて、必要ある時には助ける。
  • 師の子孫を自身の兄弟のように見て、彼らが学ばんとすれば報酬なしにこの術を教える。
  • 著作講義その他あらゆる方法で、医術の知識を師や自らの息子、また、医の規則に則って誓約で結ばれている弟子達に分かち与え、それ以外の誰にも与えない。
  • 自身の能力と判断に従って、患者に利すると思う治療法を選択し、害と知る治療法を決して選択しない。
  • 依頼されても人を殺すを与えない。
  • 同様に婦人を流産させる道具を与えない。
  • 生涯を純粋神聖を貫き、医術を行う。
  • どんな家を訪れる時もそこの自由人奴隷の相違を問わず、不正を犯すことなく、医術を行う。
  • 医に関するか否かに関わらず、他人の生活についての秘密を遵守する。

この誓いを守り続ける限り、私は人生と医術とを享受し、全ての人から尊敬されるであろう!
しかし、万が一、この誓いを破る時、私はその反対の運命を賜るだろう。


下手に手術などして生死を決定させるより、生かさず、殺さずが病院の儲ける方法なのです。

現在では医者になる動機は人助けをしたいからではないのです。

容易く金が儲かり、他人から尊敬されるからなのです。


医療費削減の一番効果的なことはとにかく生活習慣病を減らすことですが、そうなると医師の儲けが少なくなり、医師業界に暗雲が立ち込め、甘い汁を吸えなくなる輩が困惑してしまうのです。

しかし今のままでは医療業界の発展はなさそうです。

本当に高い志を持って医学の発展を望む医師や研究家も数多くいると思います。しかし、一部の悪しき守銭奴たちによって発展が阻まれている事があることも事実です。

まったくもって遺憾の極みです。


そのようなこともあって、僕は大きな後ろ盾のある所とは極力関わらず、小さくても志を持って頑張る者を応援したいと思いますし、そのような人達のサービスを受けたいと思っています。


安定が良いのかどうかは「自分で考えて自分で答えをだすものなのです」

今日はここまで、ではまた、近藤浩二でした。


 

フランチャイズ方式

先日の日曜日、おにぎりを作って東へドライブへと出かけました。


車を走らせること2時間余り、うどん県香川県に突入し20年前に知り合った友人の経営するコンビニエンスストアーに立ち寄るつもりが、確かにそこの場所にあったはずの店が別の職種の店に変わっていました。

仕方なくそこを通り過ぎ瀬戸大橋の四国側のすそのの公園で、一休みしました。キャンディー購入して、一路帰路へ。


帰り道、もう一度知り合いの店を見つけだそうと目を皿のようにしましたが、やはり見つけだせません。

そして二人で儲からなくなったから辞めたのだと認識しました。コンビニ店はフランチャイズ方式でお金のかかるシステムだから、契約更新の時に解約したのであろうと勝手に結論づけました。


実は15年ほど前ですが、家内の所属していたカイロプラクティックの団体もフランチャイズ展開されていて、我々が大変な苦労をしたことを思い出しました。

そんなこともあり、フランチャイズ方式には親会社だけが儲かるようになっているように感じていました。

実際にはそんなこともないのでしょうが。


ここでフランチャイズ方式とは、加盟店契約をすればさまざまな特典がもらえる方式です。

一番のメリットは商標が使えることでしょう。

無名の店舗には誰も寄り付きませんが、誰でも知っている有名店舗には宣伝をしなくても人が自然と集まるのです。

2番めのメリットは生産、商品、流通が利用できる点でしょう。製造工場を持たなくても多種多様な商品が、安価で早く手に入ることです。

3番めは経営戦略を立ててくれて経営指導をしていただけることです。


良いことばかりで誰も失敗しないようですが、職種によっては商品の均一化が図れないこともあります。

また当然社会の景気に左右されるので経済的な体力がないと、資金ショートをおこしてすぐに経営が立ちいかなくなります。

一番の欠点は売上に応じて数パーセントの金額を支払わなければならないため、損益のバランスとなる売上金額が普通の小売店に比べ高く設定されることです。

したがって、売上をかなり上げないと利益を確保することが出来ないのです。

となるとより忙しくなって人手が不足しないように、人件費がかさむようになるのです。

またコンビニ店の場合、社会問題になっている食品の大量のごみ問題です。まだ十分に食することのできる食品を捨てなければいけない規約は受け入れられない方もいるでしょう。


20年前ならコンビニ店も過渡期で市場は広く需要に応えるにはまだまだその数の不足は否めませんでした。

しかしここ数年の間に爆発的に広がってしまい、供給が需要を上回ってしまいました。その結果過当競争になってしまいました。ここを切り抜けて生き残るためには、なおいっそうのアイデアと努力と忍耐が必要です。このような現状に耐えられなくなったのでしょう。


僕らはくだんの知り合いは正しい選択をしたのだと思っています。

どのような商品でも、あれば必ず売れる時代は終わりました。

まして品物を右から左に流すだけで儲かる時代も終わっています。


どんな時代にも、付加価値のあるオンリーワンの商品を適正な価格で早く、安全に消費者に届け続けてこそ生産者も潤い、消費者も満足でき、社会も豊かになっていくものだと思います。

みんながウインウインの関係こそが誰もが願う社会構造であって健全な社会なのだと思います。


ある市場を早く広げる戦略ではフランチャイズ方式は画期的な方法でしょう。

しかしある程度広がってしまえば募集して増やしても廃業する人が後を絶たないのです。

被害者を作らないためにも企業側もある一定数まで増えれば健全な社会作りのために、募集をやめて違った展開を考えるべきではないかと思っています。

際限なく店舗を増やしても市場は宇宙のように無尽蔵に大きく広がっていかないのですから。

近頃は利益優先型で自分たちの保身のためだけに事業を行っている企業が多いような気がしています。


そんなことを考えながら、久しぶりに息抜きできた日曜日でした。

今日はここまで、ではまた、近藤浩二でした。