無題


強運


いきなりですが、いちごパンツ、ってご存知ですか?

そんなの簡単って思われたあなた、学生時代に

ちょっと、軽く勉強されたか、歴史に興味のある方ですね。

似たような言葉で、いちよむなしく、いやろっぱ、むしごろし、

これで、はっ、はっ、って分かるのでは。そうです、西暦の

語呂合わせなのです。仕事が終わって夕食前にBSテレビで


歴史学者の磯田道史氏が番組内で口にしたのを聞いて

驚いたのでした。磯田氏は、最近僕のお気に入りの人物で

博学多才であって、歴史に対する評価が斬新な切り口で、尊敬

とともに心惹かれる方なのですが、そんな大先生でも、歴史の

年表を、邪道ともいえる、語呂合わせで覚えていられることに

驚きとともに、この人も、僕と同じなのだと、とても嬉しく

なったのでした。ここで、いちごパンツとは1582

(天正10)年の事で、日本史史上重要な年なのです。


ひとつは明智光秀が織田信長を自刃に追い込んだ、本能寺の変。

もうひとつは織田・徳川軍が甲斐の武田勝頼を自害させた年。

織田・武田といった戦国時代をけん引した二大名家の滅亡が

同じ年に起こりその後、時代が大きくうねり始めだしました、

と言った、日本史史上意義深い分岐点のひとつなのです。

織田信長はまさに風雲児、それまでの日本人の価値観を、

根底からひっくり返し、能力と実力を重視して、地位や名誉、

肩書などはほとんど無価値だと考えていました。

その考え方は現代の人間にも通じる考え方なのです。


しかも新しもの好きでだけではなく、《本物》を見抜く力も

持っていた、神に選ばれた《魔王》なのでした。

一方武田勝頼は鎌倉時代から続く名門、戦国最強軍団を築いた

甲斐の虎こと、武田信玄の庶子(しょし)で甲斐武田家の当主。

聡明で領民思いで、父信玄時代より領土を拡大した名君でした。

ふたりとも時代の表舞台に出て、スポットライトを浴びたと

思ったら、突然姿を消した、《不運な英雄》なのです。そう、

ただ《運》がなかっただけなのでしょう。悲運の将なのでした。


長い日本史の歴史から見れば、彼らは、ほんの一瞬程しか

登場しないのですが、鋭く輝く閃光のような記憶と記録を

我々に深く刻みつけた英雄なのでした。逆に、長く光り、しかも

くっきりと地道に輝き続け、大きく花開き、天寿をまっとうした

勝ち組の英雄、秀吉、家康、等も存在しています。


彼らは決して派手さはありませんし、しかも保守的な活動ながら

も、地道に慎重に、かつ忍耐強く思慮深く案件に対処しました。

不思議なことに、彼らも目先の我欲に走りながらも、後世に

有益になるような功績を、数多く残しています。

悲しい最期と天寿をまっとうした英雄の違いは何なのでしょうか

それはただ《強運》と言えるのでは。どれほど能力があろうが

努力しようが善良であろうが、《強運》のある人には残念ながら

到底勝てないのが現実社会なのです。《運》のあるなしは

誰にも読めません。それが《競争社会》の原理、原則なのです。

現在大河ドラマ「西郷どん」放映中ですが、明治維新の新政府の

要人のほとんどは、その最期は暗殺か、自害です。

「神はサイコロを振らない」とはよく言われますが、それは

考えられる、全ての条件(科学的要因)がたとえ同じで

あったとしても、導き出される結果は決して同じではない

場合もあるのだそうです。どんな物事の結末にも、

人間にはもちろん、神様さえも、関わっていない不確かな要因

が存在するのです。そしてその不確かな要因が多少なりとも

その結果に影響を及ぼすとしたなら、我々は一体何を信じて

生きていけば良いのでしょうか? 各個人に委ねましょう。


何を信じる


先日、又吉直樹の番組ヘウレーカでの事。ある学者先生の話が

興味惹かれる内容でした。学生時代の宗教の授業時間。先生で

ある神父さんが、生徒の前で、聖書を手にして「今からここで、

人間の起源において、聖書が正しいのか、進化論が正しいのか、

議論をしなさい」っと言われて、聖書派と進化論派とに

分かれて、議論が始まったのでした。進化論派である学者先生

が「人間の起源の問題を、宗教で書かれている内容と科学書に

書かれている内容とではどちらが正しいでしょうか?」っと、

聖書派に問うたそうです。聖書派は反論できなかったのでした。

それを見ていた神父先生が、進化論派に対して「その点に

おいては、君たちが正しいのかもしれない。しかし

この世界の半分以上の数十億人は、この本である聖書に、

すがらないと、頼らないと、生きる指針としないと、

生きていけない人間なのです。しかもそれぞれの

人生において、この聖書を、心の糧(かて)にして、活きる

力として、生きて生かされているのです。そして君は、そういう

人間が存在していることを、理解してあげる努力をすると

君は将来立派な科学者になれます。」とおっしゃったそうです。

それぞれの個人にとっては、自分の人生において、世の中の

正しい事や完全なものだけが、必ずしも《正解》や

《信じるにたるもの》ではないのでしょう。


普遍的で誰もが《正しい》と考えられているものだけが

世の中の常識として信じられているのではないのです。たとえ

科学者であっても、世の中には、目に見えるものだけではなく、

目に見えないものへも思考を向ける柔軟性が、欠けてしまうと、

私たちは《目に見える、半分だけの、精神的に貧しい世界観》を

妄信的に生きることになってしまうのでしょう。

見えるものと見えないものには境界線などはなく

きっと、連続性の上で成り立っているのでしょう。


名言


・「たった一度の人生に何を刻むのか。

自分の生きた証を、何を持って語れるのか。」

by プロジェクト X、新リーダーの言葉

考えさせられました。

・「すべてこの世はこともなし」

by ロバート・ブラウニング

(神が天に居られるので、)世の中全体が平穏である


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。


 

下町ロケット

期待にたがわぬ、とはまさにこういうことを

言うのでしょう。予想を超える、対価を払ってもなおも

おつりが返って来るほどの、満足感で締めくくられました。

やっとゴースト編が終わったところなのに。物語はまだ始まった

ばかりなのです。またまた始まりました。零細企業の逆襲です。

テーマは「宇宙(そら)から大地へ」別の言葉で「ロケットから

農業機械へ」です。「週刊文春」連載ベストセラー小説です。


技術立国日本らしい、レベルの高い自分の技術に自信と誇りを

持った、でも商売下手でお人好しの人達の集まる中小企業、

佃製作所が、様々な苦難障害に直面しながらも、強い経営

理念と哲学を曲げることなく、たとえ壊れやすくて弱いながらも

一枚岩でも受けて立ち、全身全霊を傾けて、どうにか

乗り越えていくのです。ところが、ほっとしたのも、

つかの間です。あくどい輩は、執拗に留まる事無く、

否応なく小さな、ほころびを見つけては、想定外の手口で

攻撃を仕掛けられ、危うく切り崩されそうになります。

しかし崖っぷちの瀬戸際で、機転を利かせ、

はじき返し守りぬくのです。転じて反撃を繰り出し

最後には、勝利の雄叫びを上げるのです。


天才的で整合性のある、隙の無いストーリー展開と

物語の重要な分岐点での、絶妙な会話の駆け引き。

そして必然的に、どんでん返しで最後に勝利するなんて、

まさに池井戸作品の真骨頂なのです。どんな窮地に陥って、

先の見えない状況であっても、複雑で絡み合ったであろう

問題の糸が一気にほどけて、解決に導かれていくのです。


著者池井戸潤氏の作品の主人公は、誰もが共通して

思い描くであろう《善人》が《悪人》に必ず勝利します。

桁はずれのお人好しで、自分の事よりまず他人の事を

心配して、考慮して実践努力してしまうのです。今作も


自分が信じる《正義》のため、「困った人が居れば、見過ごせ

ない、救いの手を差し伸べる」と言った信念の行動原理が

存在するのです。解決の糸口の見つけ方は、人間の本心である、

心境の変化を詳細に描写することによって、物語を展開、

進行させていきます。そして最後の決め手は、我々人間が

《原点回帰》の行動をとった時に、初めて気付かされるのです。

その後、真理がさらに見えてきて、どれほど小さなきっかけ

であっても、突破口にして道が開かれる、と言った手法は、

まったくぶれずに顕在でした。


現代人が失いつつある、数字やお金だけでは表現出来ない

熱い《夢と情熱》だけが一番の才能で売りといった、

熱い善人による、勧善懲悪の物語なのです。こざかしい

《悪人》どもを心優しい《善人》達が、打ち砕いて

勝鬨(かちどき)を挙げる姿を見て、すっきり、スカッと

心晴れ晴れして、留飲(りゅういん)が一気に下がります。

しかるにその過程は紆余曲折で、戸惑いながら、彷徨

(さまよい)いながらも、人間の根源である《魂の尊厳》に

光が当てられ、人間の《良心》、《善》、《誠意》をとことん

信じ、自分の《正義》を貫いて生きる姿勢に感動して、共感する

仲間との痛快サクセスストーリーに僕も感涙(かんるい)に

くれるのでした。


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。


 

挑戦

もうじき、秋が深まり冬の訪れの兆しが見えてきます。

太陽が気持ちいい。日差しが最高。草木がなびいている。

うっそうとしてた山が、色づき始めています。秋晴の中、木の葉

やそよ吹く風にだって、幸せの肌触りを感じて嬉しくなります。

自然がじきに幻想的な紅葉を演出してくれます。そんな日に

我々夫婦が待ちわびていた人が現れました。週末の土曜日


穏やかな昼下がり、僕の一番の友人であり、教師でもある

二歳の幼児が、我が家に登場してくれました。我々が

一見すると何気ないモノ。でも彼のどんなモノにも向けられる

温かくて繊細なまなざし。「*@<@*+>」つぶやく。彼は

目の前の、どんな小さなモノであっても、想像の翼を広げます。

決して尽きるこの無い好奇心、色眼鏡と先入観を持たない真っ白

な概念。目にしたモノすべてが興味の対象。彼の小さな身体内に

激しく脈々と息づいている、意識のすべてを傾けていきます。

小高い山の中腹辺りの公園で腰かける。奇抜な飾り物を見つけ

近づき、観察しようとする。身体を滑らせ転倒し身体を撃つ。

痛みと恐怖心で、「エーン、エーン」しかしすぐに立ち直る。

失敗を恐れないで、挑戦し続ける者。死をも恐れないで、

生きるを探求する者。常に、ほとばしるように流れる気力。

一種の畏敬(いけい)に似たものさえ感じます。なぜなら、

自分にとことん素直で正直で、誰の目、さえ一切がっさい、

気にしない、思いついたら迷わず即行動します。まるで

《すべては自己責任》と、自分自身から行動をとりたがります。

人知れず喜び、挑(いど)み続けるその姿に、崇高(すうこう)

なもの、高貴なもの、献身的な何かが感じられます。軽食を


摂った後、後部座席に立ち、後方から景色を楽しんでいます。

帰路途中座席に立ったまま、手を伸ばした状態で、身体を支え

何かを耐え忍んでる様子で、突然口を閉ざしたままでした。

何かを感嘆するたびに、口を開く。でも、感じるままの気持ちと

思いはなかなか言葉に出来ません。我々には聞き取れない

事がほとんど。


彼は充足感が得られるのなら、何を差し出しても、失くしても

構わない。一方私達大人は多くの場合、大きなリスクをとらな

かったり、失敗を恐れたり、自分のコントロールできる範囲内で

行動をしようとするので、突き抜けるほどのモノを取得すること

はできません。私利私欲の影が見える、夢と野望への醜い執念。

世の中の矛盾を見過ごし、社会の理不尽を看過し、自分の

心が感じた違和感にも、立ち向かわないのです。幼児である彼は

自分の心に、激烈に忠実であり続けているのです。世間が

《終わり》だと思っているところが、彼には《始まり》

かもしれません。だからこの命枯れ果てたとしても、誰に

なんと思われたって、笑い飛ばすだけ。と思っているようです。

幼児である彼を見ているだけで元気をもらえます。人が評価

しようが、評価しまいが観察、挑戦をすることが子供の特性。

何か違和感感じて、投げ出したくなって、何もかも

しっくりしない、何かが足りなくて、眉をひそめる、

顔をしかめたくなることが、そこら中に転がっている

現実が私たちにはあります。それでは日常生活は過ごせたと

しても、面白みがない。挑戦なくして、人の成長はありません。

我々に、最も危険な行為は《自己満足》や《自己防衛》です。

自己の内に目を向けたり、広く熱心に学んだり、することは

いっぱいあります。ここで知行合一(ちこうごういつ)が大切。

おそらく、どれだけ《わからないこと》を信じられるか、そこに

飛び込めるか、どうかなのです。幼児は見えない感じる道を

行き、ありのままの人を、モノをすべてを受け入れていきます。

子供は絶妙なバランスを保ちながら、成長していきます。加えて

子供達は、ほんの少しの知恵と勇気を兼ね備え、そして

ほとんどが無欲であります。ただ幼児の挑戦は

ある意味《向こう見ず》の側面があるかもしれません。

と言っても、挑戦だけが現実を変える力があります。

人はもろいようですが、強いものです。しかも、

限界を超えることで、確かに人は強くなります。


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。


彼が突如無言になったのは、車酔いだったようです。顔色が

青白くなって、額と耳下に、冷や汗か脂汗をかき、おむつを

汚していたのでした。その後汚物を処理し、横にして休ませると

再び機嫌よく何かを遊び始めました。


分かった風に書いていますが、正直よく体感出来ていません。

でもここに書くことだけで、自分自身に言い聞かせるようで

あり、これが今の僕の挑戦なのです。