歴史(井伊直弼)

一期一会(いちごいちえ)ご存知ですよね。本当はもっと深遠で

人生にとって有益な教訓なのでしょうが要約すると、今この時は

生涯に一回しかないと考えて、そのことに専念する意味。

語源はもちろん、安土桃山時代の茶人、千利休の茶の湯の

心得にあったとされています。しかし最初に書物に記載した人物

は歴史上、大悪人と揶揄(やゆ)されていた、幕末のあの大老の

井伊直弼(なおすけ)なのでした。著書『茶湯一會集』の巻頭

には有名な「一期一会」があるのです。でもそんな彼も、

幕末期、多くの維新志士を断罪(だんざい)し、死に

至らしめたとして、明治維新以降、その評価は最悪でした。

しかしです。明治時代の終わりごろから、再評価されるよう

になったのです。なぜ? ここで日本史の再検証です。僕は今

歴史にはまっていて、隙間時間に様々なメディアで視聴を

楽しんでいます。この時間が「あっ、いいな」って

恍惚(こうこつ)としています。


近代日本史の大きな転換点のひとつ。通常、幕末

(約15年間)と言われる、武家政権の終焉(しゅうえん)

(1868年)のきっかけとなる事件。1853(嘉永6)年

(いやでござんす)黒船来航。米国ペリー率いる艦船4隻が

大統領の国書を携えて江戸湾浦賀(現在横須賀市)に寄港。

当時13代将軍、家定は病弱で国政は無理。老中首座の

阿部正弘(備後福山藩)は各藩に相談するも、開国派

(井伊直弼等)と反対派(水戸藩徳川斉昭等)の対立は激しく、

その対処に苦悩していました。そんな中、直弼は大老に

就任しました。その後米国総領事ハリスから早急に開国を

要求されました。諸藩に意見を求めるも、開国やむなしと

考えていた直弼は、反対派の説得に努めましたが、色よい返事が

得られず、特に徳川斉昭(なりあき)が強硬に反対して

いました。そのため回答を引き延ばしていましたが、都の天皇に

勅許(ちょっきょ)を得られないまま、調印してしまいました。


井伊直弼は彦根藩(今の滋賀県)で11代藩主、井伊直中の

14男として誕生しました。将来、藩主になれる見込みは

極めてありませんでした。しかし彼は世の中を恨んだり、出世の

夢を抱いたりしないで、ただひたすら埋もれ木のように

こもって、自分のなすべき事をやっていこうとしたのです。

宛行扶持(あてがいぶち)と言って、一方的に与えられるわずか

な手当てで、自分の住居を埋木庵(うもれぎあん)と呼んで

300俵で部屋住みとして、慎(つつ)ましく

暮らしていました。しかし幸運にも36歳で藩主になるまで

なすべき事は多岐にわたり、武芸では居合の新派を創設。

焼き物、能、狂言、最も傾倒したのが茶の湯で、禅に通じる

内なる心を重視して「一期一会」の言葉を残しました。

一方で庭に見える柳の木に強い愛着を持って自らの

雅号(ペンネーム)も「柳王舎(やなぎわのや)」と

名乗るほどに。というのも柳の木は、太い幹はしっかりと

地に足をつけて、しかし枝や葉は風の流れに逆らわずに、

優雅に流れる。そんな柳の姿にあこがれて、自分もそう

ありたいと考えていました。36歳の時、藩主の兄がなくなり、

兄弟のすべての兄が養子に出されていたため13代

彦根藩藩主になりました。彼は儒学者の教えから多くの家臣や

民衆に耳を傾けていきました。領内をくまなく視察し

生活困窮者にお金、食物を分け与えていました。直弼の歌。

恵までは あるべきものか 道のべに 迎える民の 慕う誠に

(慈しまずにいられるものか 道端で出迎えてくれる民が私を

慕う誠の心を思えば)逸話として、この歌に、かの吉田松陰は

感涙にむせび感激したそうです。だが運命とは残酷なものです。

直弼はそんな松蔭を無残にも殺してしまうのでした。


この頃日本近海に出没する外国船が増えていました。

彦根藩は三浦半島の警備を担わされたのです。しかし

250年間太平の世が続く中、武士の士気は下がり警備体制は

お粗末でした。直弼はその実態に強い衝撃を受けたのでした。

なおのこと、この時期に外国との戦争は、到底勝ち目がないこと

は十分認識していました。ここで直弼のとった行動を理解する

ため当時の世界情勢を把握していなければなりません。


18世紀後半、英国で産業革命が起こり、蒸気船が造られ

大きな船に大砲が搭載され、戦闘力が格段に向上しました。

1840年、清国は英国にアヘン戦争、フランスにアロー戦争で

敗れ、不平等条約を締結し、香港を割譲しました。米国は捕鯨の

目的で太平洋を航海中、拠点の必要から日本に貿易を(開国)

望んでいました。当初は紳士的であった米国も、早急

(さっきゅう)な回答を出せない日本に徐々に苛立ち、

力づくで開国させようと考え初めていました。

直弼の判断は正しかったのです。《歴史は思想が造る》そうです

当時武士は朱子学を熱心に学んでいました。朱子学とは中国から

の学問です。「中華思想」が根底にあります。中華思想は

自分たちが一番。他から学ぶこと無し。との考えが主流。

開国などもってのほか、なおのこと、家康を神と仰ぐ

御三家の水戸藩は当然、諸藩の藩主の多数は開国反対でした。


彦根藩、井伊家は大河ドラマの女城主、井伊直虎にあって

養子であった、徳川四天王のひとり、井伊直政が初代藩主

でした。すなわち、井伊家は徳川幕府260年を支えた

名門でした。幕政の重要ポストを担い続けていました。

改めて、直弼の下した開国と言う決断は今から考えても正し

かったのです。たとえ諸藩の意見をまとめることが

できなかっても、天皇の勅許を得られずともです。

特筆すべきは当時の彼の心情が書物に残って

いるのです。----しばらくは戦争を避け貿易

を行うべきである。勇威を海外に振るうことができる

ようになれば、内外共に充実し、かえって皇国安泰に

なるはずである。---- と。実際その後、時代は直弼の

想像通りになっています。しかし不幸にも当時の時代の

流れが、彼を《赤鬼》と呼ばれるまでに、ならしめたのです。

ひとつは14代将軍継嗣(けいし)問題において

徳川斉昭との対立です。さらには、戊午(ぼご)の密勅と

言われる、孝明天皇が水戸藩に勅書を送った、前代未聞の

事件でした。古き良き伝統を重んじる直弼は、天皇に

このような行動をとらせた、良くない危険分子が、

はびこっている、世情を正すべきだと、

多くの維新志士を捕縛し、処罰してしまいました。

世にいう「安政の大獄」です。これにより彼の評価を地に

落としめ、自分の命運すら尽きさせたのです。水戸藩浪士による

「桜田門外の変」でした。当日命の危険は予測できていて

警護の者を増やすように進言されたにも関わらず、警護の

人数は規則で決まっていると、あくまで伝統を守ろうと

こだわったのです。暗殺前日に詠んだ辞世の歌です。

咲きかけし  たけき心の 花ふさはーーーー

ーーーー散りてぞいとど  の匂ひぬる

道半(なか)ばではあるが、国を想ってきた熱い自分の気持ち

は、自分の死後、きっと後世に理解されるだろう。直弼は自分が

もうすぐ殺されると解っていたのです。

むしろ死ぬ気だったのでしょう。なんて哀れで、みじめな人生!


歴史を知っている我々は、当時日本国を外国の侵略から救った

者は坂本龍馬であり西郷隆盛といった、薩長土肥の志士たち、

だけであったと考えがちですが、時代の状況をしっかり把握して

たとえ独裁者と揶揄されようと、リーダーとしての、決断力

と実行力を持ち合わせていた直弼の存在は無視できません。


直弼にとって不幸だったのは、彼の良い所でもあり悪い所でも

あるのでしょうが、移り変わる時代の中、変わるべき、

変えるべきところを、伝統にこだわり過ぎて、固辞して

変わらなかった、変えなかったところに、直弼の天命を

視た気がします。でも私的には、敬意を持てて大好きな人。


伝統さえ守れば、徳川幕府も日本国も守られ、ひいては民衆も

守られると信じて疑わなかった、頑固さも「安政の大獄」

といった日本史上まれな、非道に走らせた要因だったの

でしょう。いやー歴史って面白いですね。


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。


 

地球事変(酸素)

 

諸説はありますが、地球が誕生して約46億年。

人類が誕生して650万年から300万年。勉強になる?

昨日視聴したお気に入りのチャンネル、BSプレミアムの番組

「ギガ・ミステリー(地球事変)」って本当に面白い。

知的好奇心がくすぐられる。こちょこちょ、こちょこちょ。


ご存知のように、自身で栄養を作成できない、我々動物は

酸素を取り入れて、食物(有機物)をエネルギーに

変換して生命を維持しています。視点を変えれば、この地球上で

大きなターニングポイントは約27億年前、深海から吹き出す熱

水付近で何かのきっかけ(突然変異)で出現した

「シアノバクテリア」と呼ばれる微生物の果たした

役割なのです。彼らは太陽光で光合成をして自ら栄養を作って

生活するのだが、光合成の副産物として酸素を水中に

放出します。太陽光さえあれば、生きていける彼らは

これといって天敵が存在しなかったこともあって、陸付近の

海水中に無尽蔵に増殖しました。これによって彼らの放出した

酸素が海水及び地球上に充満しました。


高酸素濃度になったおかげで約5億年前に最初の、そこそこの

大きさの海生動物である、えびやカニの仲間である、三葉虫が

出現しました。これが人類誕生の広い意味での起源なのです。

さらに背骨を持った魚類が出現します。この後、生物は

海中から陸上へも、生活の場を変えていきます。


27億年以前には陸上は、太陽光の紫外線が強過ぎて生物が

生息できませんでした。しかし「シアノバクテリア」の

おかげで当時陸上は、高酸素濃度(約50%)でした。

同時に太陽に近い場所で、酸素が紫外線と反応して多くの

オゾンが出来ました。そのためオゾンによって太陽光の

紫外線が遮(さえぎ)られて、陸上で生物が生活できる

ようになったのです。さらに植物も陸上に繁殖し、

陸上は緑いっぱいで覆われていました。

そのため、陸上では酸素濃度はさらに上がり約85%まで

高くなりました。その結果動物は、多様化と大型化へと

変貌しました。その後2億5千年前に恐竜が出現しました。

しかし天変地異のため、植物の多くが死に絶えてしまいました。

そのため酸素濃度は下がり、低酸素濃度になり恐竜の多くは

生きることが出来なくなりました。ここで進化がありました。

気のうと呼ばれる呼吸器官を持った鳥類の出現でした。同時期

爬虫(はちゅう)類から、突然変異で進化した人類の祖先に

あたる、低酸素濃度(約21%)でも生きていける、

ネズミのような、身体の小さな哺乳動物も出現しました。


650万年前、霊長類が現れ、180万年前ホモサピエンスが

来ました。そして20万年前、旧人類から新人類へと進化して

現在の人類に最も近い人間が低酸素濃度(約21%)内で

今も生き続けています。


地球上で命が、突然変異という進化の最後の切り札で誕生して

以来、気の遠くなるような長い年月をかけて、様々な厳しい環境

にも適応して、進化を繰り返し、現在のような多種多様な生物が

共存共栄しています。しかしその陰には、誰かと結びつきたい

ひとりでは寂しいと言って、さまよっていた《酸素》という

特殊な元素が多くの命を紡(つむ)いできた歴史があるのです。


将来ある時、神様が何かの引き金を引いて、《自然の摂理》に

変化が起こり、想像できないような、我々人類の生活環境が

大きく変貌したとしたなら、人類はそれにうまく適応することは

出来るのだろうか? それとも人類はさらに何かに進化して

新しい地球の支配者が出現するのでしょうか? その時

我々人類は何の祖先とよばれるのでしょうか?

想像は尽きない。おっと、そろそろ行かなければ。


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。


追伸、ここで進化の原動力であり、だまされた感いっぱいの

「突然変異」とは? ググってみました。

生物やウイルスが持つ遺伝物質の質的・量的変化。および、

その変化によって生じる状態。らしい、なんか納得できないので

僕はこれに、因果関係の無い変化とも付け加えます。


 

 

 

夏の終わり(秋の始まり)

寝床の東に面する窓から、すでに7時前に眩しい朝の

光が差し込む明るい部屋。祝日の今朝、仕方なく目を覚ます。

なんだかスッキリしない。昼前に少し外出。川沿いに

走行して山側に上昇する。一区切り、程よい所で降車する。


外では肌寒い、ひんやりとした心地よい風がそよそよと

吹き抜ける。透明度の高い穏やかな川の水のせせらぎ。

鳥のさえずりも聞こえる。トンボが群生して出現する。

ここからが本番。風が爽やかな、なだらかな道を歩く。

暑くはないがわずかに、汗ばんできた、歩き回って少し

息はあがっているのに、この上なく幸せな気持ちに包まれる。

6畳ほどの広さの小高い山の脇の展望台から市街一面を見渡す。

「めっちゃ、きれい。」「見渡す範囲があなたの領地です。」

領主時代に言われた言葉が頭をよぎる。上を見る。


まばゆいばかりの青空。真っ白い雲。雨によって浄化された

かのような空気。ところどころ彼岸花の赤が目に入る。

秋めいてきた、木々の色鮮やかな青い山。

白い雲が陽光によって、光が乱反射して刻々と色が変わる。

そよぐ風もひんやり、虫の音が聞こえてきます。空と山が

織りなす絶景。まるで絵画の額縁から、切り抜いたような景色。

人の心を癒し元気にさせてくれる自然。反対に、言い尽くせ

ないほどいっぱいに、人を疲れさせる、突発的な

自然災害があった今年の夏。


自然の景色がほんのりと濃い。日常では有名飲食店で

さんまが定食に横たわる。夏の終わりを告げる

兆候(ちょうこう)を感じる。

今はもう9月の半ば、本当に夏が終わり

秋の始まりを実感する。お金より欲しいもののひとつ。

心の平安、充足を与えてくれる、僕の大好きな秋という季節。

秋はすべてが彩られる季節。秋は終わりではなく、冬を通して

春へとつなぐ大切な季節。暑気が払われ、華やいで、活気ある

人や街。山から華やいでいる市街を眺望する。山の上から

思い入れの場所を子細(しさい)に観察する。高校まで

生まれ育った僕の唯一の故郷(ふるさと)の眺望。

♪ うさぎ追いしかの川 ♪ がふと口から洩れる。期間限定の

楽園。あと2ヶ月もすれば、せわしない冬支度を迎えます。

なんだか、わびしい、ものかなしい、せつない、が入り混じった

複雑な気分になったメランコリーな夏の終わり秋の日中でした。

人間は変わらなくても、大自然は常に変わっていきます。

そんな自然がもたらす恵みに、大いに感謝して生きていこう。


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。


 

仕事(労働)

前回の続き。竹田恒泰氏いわく、仕事には2種類あります。

ひとつは《お金を追いかける》仕事。

もうひとつは《お金がついてくる》仕事。


東北大震災後の翌年のこと。為替は超円高。ふたつの企業の

トップの経営方針の両極端な考え。トヨタ自動車では

「国内で生産を続け、国内で販売を促進させたい。」一方某

有名安価家電メイカ―では「出来る限り、海外に工場を

移転していきたい」と。セオリーで言えば、円高では

貿易戦略は困難になりますよね。海外販売は国内の販売価格

より割高になるためです。反対に海外の賃金は国内より

割安になります。通常ならば後者の経営方針でしょうか。


しかしその後、トヨタは上場以来最高の増収増益。片や

家電メイカ―は中国に身売りといった結果に。その結果の違いの

原因は? 目先の利益に飛びつこうとした企業と製造企業の

経営理念である「ものづくり」の王道に立ち還った企業の

差である。との事。なるへそ。経営って難しい。


困難で試練の時だからこそ、むしろ目先ではなく、長い目で

《さらに良い製品》を作ろうと、技術をより研鑽(けんさん)

して「ものづくり」日本、の原点に立ち返り《お値段以上》を

地道に提供し続けたからこそ、賢い消費者を失わなかった。

「お金もうけ」と恋愛は同じで、追いかければ追いかけるほどに

相手(お金)は逃げてしまう。押し過ぎず退(ひ)いてみよう。


もう一度「ものづくり」日本の精神《決して手を抜かない》

《お値段以上》、《最善を尽くす》、《最良品を》の精神を、

見つめ直そう。まずは時間をさかのぼって歴史を見てみよう。


・昭和時代に群馬県ローム層で岩宿遺跡(磨製石器)の発見。

「人の手によって磨きかけられた」約3万年前旧石器時代の石器

人類最古の「人の手による加工技術の産物」

・1853年ペリー来航の時代から貿易で資産を貯蓄し始める。

以前は米本位制でお米が通貨替わりだった。これ以降お金

(銀か金)が、米に変わって通貨として真に認識され始め

流通し、容易に貯蓄出来るようになる。お米は採れた時が最も

価値が高く、時間の経過とともに価値が下がり、貯蓄しても

価値がきわめて薄い。しかも残ってしまえば、

残るほどに流通価格が下がる。米本位制度が崩壊し始める。

・世界一の優秀な絹織物を厳格な管理と緻密な製造工程によって

光沢があり強靭な製品を作り続け本家中国をしのぎ世界に販売。

・チャイナと呼ばれる陶磁器も元祖中国を超え世界に認知。

歴史が古くは先祖から手先が器用で「ものづくり」の

才能があった。事を物語っている。


最後にまとめとして、日本の持つ強さの秘密は

    1. 日本人の勤勉と完璧主義。
    2. 製品に対する強いこだわり。
    3. ひたむきに仕事に取り組む姿勢。
    4. 「ものづくり」に対して仲間が同じ方向を見ている。
    5. 強いきずなで結ばれたチームワークの良さ。
    6. トップからボトムまで以心伝心の関係。

日本人は、いったん仕事を頼まれれば、たとえ

報酬が少なくても、最悪もらえなくても決して

手を抜くことなく、完璧なものを作り、納入するのです。

むしろ見返りがまったく無ければ、無いほど不思議と

より完全で完璧な仕事をしようとするのです。逆に

そういう人間が尊敬を集め、評価される社会なのです。


日本国が世界で最貧国から世界有数の経済大国に

なった背景には上述が、考えられるが、その精神性の根底に

根付いているのは、江戸時代に広まった《武士道》なのです。

ひとことで言えば《世のため、他人(ひと)のため》の

《利己(りこ)》でなく《利他(りた)》の精神なのです。

幕末当時、英国人が日本にやってきたとき片田舎の

食うや食わずの貧しい農民でさえ、礼儀正しく、規律正しく

生活していることに、驚愕(きょうがく)したそうだ。

英国人が当時日記に記載していたそうな。

衣食足りて礼節を知る、が通説だが、日本人は

衣食足りなくても礼節を知る、国民なのです。


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。


 

究極の幸せ

本日の午後講演会に参加しました。無料で聴講者50名程。

地方銀行の愛媛銀行主催による、わが町西条市にある

経営者の集まりである「ひめぎん会」20周年記念の

呼び物で「日本人はなぜ世界で一番人気があるのか」と題した

作家竹田恒泰氏による約90分間のお話しでした。平日の昼間。


大変興味深い内容で、たとえ話しをされ構成がしっかりしており

しかも新鮮な内容の上に、分かりやすく腹の底にしっかり

落とし込まれる、腑(ふ)に落ちるほど、論理的で納得できる

合点のいく事柄でした。しかも笑いありで、面白い。

あっという間。もっと聞きたいと思わせる、

これぞまさにプロの仕事。本当にすごい。カンペなし、天才。

きっと主催者も安い講演料と思ったはず。金額は知りません。

コストパフォーマンス最高。僕なら50万でも呼びたい。


印象に残った事柄は多々ありました。紹介できる内容には

限度があります。僕の記憶力だけが頼りです。今回は

ひとつだけで勘弁をして下さい。また明日書き加えます。

経済会主催です。話のほとんどは経済に関する内容でした。

今世間は不況です。世間を取り巻く状況は厳しいです。

しかしそれでも現在、日本は世界でアメリカ、中国に次いで

経済大国第3位です。今後日本の経済はどうなるのか?

敗戦国日本が、なぜ戦勝国、英国、ロシアを抑えて

経済大国になれたのか? その理由の独自の分析と

今後の課題と、我々が取るべき行動を、歴史的側面から

提示されていました。要因は様々でしょうが、


人間の精神性にその謎を解くカギがあるのではと。

ひとつは《労働》、《仕事》とは何か? 言葉の持つ意味の

捉え方に違いがあるのでしょう。との事でした。

聖書による《労働》は人間にとって犯した罪の《償い》

と考える人間。一方《労働》を自分自身の《生きがい》

や《利他》として考える人間との相違なのです。との事。


例えばここで、一万円の仕事を頼まれたとしたなら、

きっちり一万円の仕事をしようとして、した人間。

一万円以上の仕事をしようとして、してくれた人間。

一万円以下の仕事しかしない人間。

どの人間に仕事を依頼したいですか? どの人間が将来

豊かになるでしょうか? もちろん言わずもがなですね?


最後に結局、究極の幸福とは? と問われました。長生きが

短命より幸福とは限らない。その人の最後(逝く時)が重要。

経済会の集まりの話でしたが、お金では無い。もちろん

貯金残高の多さでは無い。功績の多さでも無い。それは

《惜しまれて》逝くことです。誰もが悲しんで遺憾(いかん)に

思われて死んでしまう人が一番幸福な人生を送った人なのです。

さくらももこ先生、うーん、えーん。悲しい。拝。


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。


追伸、、大雨、台風、地震など自然災害で生活を破壊されていく

災害大国でもある日本。《災害防止予防工学》なる新しい学問を

一刻も早く確立させて、自然にされるままでなく

自然に、対抗していく方にも考えを考え直す必要があるのでは

、、、。とは僕の考え。でないと数年後、人類の文明は破滅する

予感が、、、。例えば、台風が発生した時にミサイルか何かで

発生雲を消滅させる、など。でも実現不可能な夢の話かな。


 

自分らしさ

ーーーーどうすればいいのだろう?

ーーーー何処を見ればいいのだろう?

ーーーー何を口にすればいいのだろう?

ーーーー正しい答えが分からないよ。結果彼が出した答えとは?

なぜか困惑している様子です。普段の彼と、どこか違う風です。


お盆以来、我々夫婦に、とっても嬉しい訪問客でした。

あと数日で2歳の誕生日を迎えるその幼児は、

徐々に脳が発達しつつあるのでしょう。思いの外、

知恵も付いています。話せる言葉も増えてきました。

彼の思いが、正確な言葉となって、我々に伝わって来ています。

行動に伴って、同時に言葉も観察できます。すごく面白い。

覚え初めの《言葉》と、覚え初めの《マージャン》は

すぐにでも、使いたがる。の言葉通り。

言葉を覚えた喜びと、自然な本能による欲求なのでしょう。

「ブー、ブー、いっぱい。ちょうちょ。赤。青。」

覚えたモノを目にすると、その名前や特徴を口にして

我々に確認、承認を求めているようです。事あるごとに、

何かを見つけては、「見て、見て」って。呼ばれます。

いつもの席に座ってから、言葉を出し続けています。


ところが約一時間後のこと。妻が用事で外出するので、

左半身不自由な僕だけでは不安もあって、妻の姪子である、

ひいき目に見ても、若くてきれいな女性が、入れ替わりで

部屋に入って来ました。幼児は初対面の彼女をちらりっと

見たと思ったら、恥ずかしいのか、うつむいたままで、

急に無言で、おとなしくなってしまいました。

しばらくの間あれほど、うるさく開いてた口が、

閉じられたままです。静かです。しかも身体も

ほとんど動きません。動かせないのでしょう。


《何か》が彼の行動を押さえつけてしまいました。幼児は、

わずかの間に成長し続けている《身体》と《頭》と《心》。

「いい子」になるようにと、願っている周囲の大人たち。

周りの大人と社会の都合に合わせるように育ってきた幼児。

そこで、今まで、そうなろうと応えていた幼児。

でも今回、どうすればいいのか、分からない、表現出来ない、

突然初めて出くわした《感情》。その後なぜだか

分からないが彼は、自分の顎(あご)を

テーブルに叩きつけていました。不思議なことに、彼はまだ

2歳弱にも関わらず、自分で自分を痛めつける

自傷(じしょう)行為をしていました。自分で処理できない心の

不安やもどかしさを、落ち着かせようと

本能が衝動でさせているのでしょう。


他人はそれを、《悪》としての、《人見知り》の一言で

片づけようとします。僕は、彼の、

その凍り付くような無言や行動停止、

「それこそ」が、本当の彼自身《自分らしさ》だと思います。

脳の回路を通過しないで、「心のままに」《フリーズ》した

身体と言葉は、本能からの《感情》による行為なのです。


人は生まれてから、周りの大人の都合の良いように

知識や常識を植え付けられて、一人前の人間のごとく

育っていきます。それこそが本当の《成長》とでも

あるかのごとく。そしてそういった子供が社会では

優秀で良い子と考えられています。しかし昨今(さっこん)

閉塞してしまった社会を打破しようと、《ナンバーワン》より

《オンリーワン》のうたい文句とともに

《個性》や《自分らしさ》が見直されようとしています。


おそらく姪子の、美人女性特有の風貌や雰囲気が幼児の

本能の何かを強く刺激したのでしょう。その刺激は、

思考(理性)による行為を、抑制させるほど強烈で

あったのでした。僕は

「いいぞ、その調子だ。それを大切に育って行けーー。」と

身勝手に思いました。それが***お前特有の持ち味なのだぞ。

社会や大人たちの都合(常識)に無理して合わせるな。

自分を貫け。無理して社交的である必要は無い。人見知り結構。

そしていつまでも、自分らしさを貫いて、いつの日か

社会の《規格外》と呼ばれろって願った今宵(こよい)でした。


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。