学問

今日は終日、ひとり家の中で、のんびりと過ごしていました。

大学生当時の事を思い出していました。大学ではほとんど勉強

しなかった僕ですが、印象深く覚えていることがあります。

数学の最初の授業でした。興味深い話でした。もう30年以上

前なので、しっかりと覚えてないので、少し補足しながら

記憶をひけらかします。残念ながら、結論が不明瞭です。


科学の進歩の根幹をなす学問は疑う余地が無く《数学》です。

数学(学問)を追究していくと、当然難易度が上がってきます。

そしてそれを理解できる人は減少していきます。その理由は

感覚として捉え難くなるからです。そして現実から離れて

より非現実に傾いていきます。(女性が数学が不得手なのは

男性よりも現実的だから、って今ならセクハラになりそうなの

と、女性の居ない男性だけの授業だったので、よく覚えていま

す。)そうなれば当然、日常生活には、不必要になって、

使う機会はなくなってしまいます。しかし

学問を発展させるためには、感覚では捉えにくい新しい発想が

必要になります。革新的な新しい《概念》です。


例を挙げましょう。古代(数千年前)には壁などに数字が

残されています。そこには、どこの遺跡にも《1》から

始まって数字が表現されています。その表現方法の基本は

「線のかず」で表しています。すると数字が大きくなれば、

その表現方法は困難を極めていきます。そして

ローマ数字にも当初は《1》から《9》までの9個しか

なかったのです。当時の人々には《ゼロ(0)》の

数字の発想がなかったのです。

何も無いものに、数字を付ける必要は無いとの考え方でした。

今我々が当たり前に使っているローマ数字の形は

《線のかず》ではなく《かどのかず》で表現されています。

《ゼロ》の数字を《0》と表現することを

発明したのは千年程前のインド人なのです。彼は

「人が居ない。」と否定的に表現する以外に

「人が0人居る。」と肯定的に表現したのです。

この《0》の発明によって、誰にも容易に無限に数字が

表現できるようになって、数学が飛躍的に著しく

発展したといいます。


小学生から中学生になるとき《マイナス》の新しい概念が

定義され、感覚的に、小さい数から大きい数でも例外なく

《マイナス》出来るようになって、いかなる場合でも

四則計算が可能になって、驚くほど、数式の表現が簡潔で

容易になったのです。現実的には受け入れ難いものですが。


高校数学はそれが、さらに複雑で難解になっていきます。

三角関数(サイン、コサイン、タンジェント)や

複素数、微積分、等です。ある時突然、

見たことのない言葉や数式が出てきて

身勝手に《定義》を宣言して、理論を進めていくのです。

誰でも戸惑ってしまいます。日常生活で突然

江戸時代から明治維新に変わったようなものでしょうか。

当時の人々は困惑してしまって、滑(なめ)らかに

物事は、運ばなかったでしょう。または環境変化で

急に雨が降らなくなって、雨季から乾季に変わって

しまったらどうでしょう?動物は生き延びることは如何に?

先生が言うには、幸運なことに、数学を学ぶことで、

当時のような、大きな歴史の転換点を、感じるような

貴重な体験が出来る。そしてその突然の変化を、上手に対応

出来たものたちが生き残っていけるのだ。そのものたちとは

どのようなものだったのか、を研究し考察する点において

学問は共通している、との話だったかな。最後のほうは

記憶が不鮮明です。悪しからず。でもなぜか納得させられた。


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。


フランス 対 クロアチア

優勝 フランス


 

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