この世には善いことをしている「善人」が居てます。
しかしながらその裏で悪い事をする悪人の顔を持つ「悪人」も居てます。どちらも同じ人なのです。
善い事をたくさんする人でありながら、その一方で、同じ人が悪い事もいっぱいしてしまうことがあります。
これが肉体を持った人間の正体なのです。だからこそこの世は面白いのです。
僕が子供の頃から、いやはるか昔から、そう太古の頃からでしょう。「良い子、善い人になりなさい。」と教え続けられて人は育ってきたはずです。それが人間にとっての成長とでも万人が思い込んでいるかのごとくです。「悪人になりなさい。」なんて誰も言われたことはないはずです。
ということは、教えてもらわないと人間は、ついうっかり自然と悪い事をしてしまう生き物なのでしょう。
悪い事は教えてもらわなくても簡単にできますからね。生善説なんて嘘なのでしょうか?
現実社会のこの世では「善人」ほど生き難い社会はないのです。
最近のベストセラーに「嫌われる勇気」と呼ばれる本があります。読んでないのでよく解りませんが、誰からも好かれようと「良い人」になろうとしても駄目です。時には嫌われてもいいから「悪い人」になる勇気を持ちなさい。おそらくそのようなことを推奨する本でしょう。
芸能人のような好感度の要因が人気度に影響を与える社会では「善い人」であることが重要でしょう。
「善人」であることが前提である職業も存在します。医者、教師、政治家、宗教家等は、本当はエゴによる欲はかなぐり捨てて、どんなときでも「善人」として生きなければならないはずです。ですから昔から聖なる職業、聖職と呼ばれて当人の人柄抜きで尊敬されていたものです。ところが昨今を賑わせている世間の話題は聖職と呼ばれていた人たちの虚偽の雨嵐です。これなんてまだまだ氷山の一角ですよね。
法律に抵触しない範囲内での「悪」ほど始末に悪いものはありません。巷にあふれかえっています。
それはともかく現在、我々の生きている一般社会においては「悪い人」の方がどちらかと言えば「善い人」より生きやすいはずです。
物欲、金銭欲、名誉欲、権力欲、、、、、これらの欲をある程度持っていないとこの世では生きていけないのです。
これらはある意味、闇の部分、暗黒面の部分が支配しています。そしてその闇の力、暗黒の力はこの世では「善」の持つ光、陽の力よりも、はるかにパワフルで力強いものです。それは普段、闇は光によって隠れているためどのようなものが存在しているのかが把握できないため不気味なのです。表面的には普段は、光、「善」だけのような人もいてますが、本質的には付き合えば、闇、「悪」であるという人が居てます。最も注意すべき人ですよね。
昔から太極図というものの考え方が存在します。僕はこの考え方がいつの時代にも正しい考え方の一つであると思っています。
「悪」は絶対的に悪いものではないのです。
光があるから闇が生まれ、闇があるということは光がある証拠なのです。
陰の中には陽があり、陽の中には陰がある。
陰極まれば陽になり、陽極まれば陰になる。
二項は決して対立して存在するものではないのです。
「善」と「悪」はどちらも大切なものであります。そしてそのどちらも使えてこその人間なのです。
しかしながら我々はその二つを絶対にその使うべき状況を、見誤って使うことは決して許されないのです。
それを肝に銘じて「善」と「悪」の二つを使い分けて人生を享受しましょう。
今日はここまで。ではまた、近藤浩二でした。
今日は最後に一曲プレゼント、ドンヘンリーでハートオブザマターです。
http://taiyohanasaku.waterblue.ws/koji/wp/music/the heart of the matter.mp3