ヒッグス粒子って!?

深夜のBS番組でパーティカル、フィーバーと言う映画を観ました。科学史における金字塔となる「神の粒子」と呼ばれる「ヒッグス粒子」を発見するまでのドキュメンタリー映画でした。


専門用語が一杯でてきました。しかも僕には基礎知識が欠如しているのです。ほとんど理解できませんでした。

しかしキャスターの熱意と研究者たちの尋常ならざる探求心がこちらまで伝わってきました。二時間余りがあっという間に終わりました。実験は成功に終わりました。

20年というとっても長い期間をかけて準備し、世界中を巻き込んで膨大な国家予算をも注ぎ込み絶対に失敗は許されない状況です。しかもメディアが常に監視の目を光らせています、その重責ははんぱじゃありません。

もちろん世界初めての挑戦です。挑戦に失敗は付き物です。当然予期せぬトラブルに会いました。スケジュールが遅れて変更、変更が続きました。

しかしながら彼らは決してくじけることなく、真実追求のため袋詰めの状態で、不眠不休の命がけで戦いました。そしてついに成功しました。


ある研究者がつぶやきました。

「僕は幸せだ。好きな研究に没頭できる。こんな良い環境を与えてくれて成功するのは約束されている。」「ただひとつの問題は失敗した時に言い訳出来ないことだ。」


宇宙や生命の起源になるとされる、この素粒子は「神の粒子」と呼ばれ、提唱者であるイギリスの物理学者ピーター、ヒッグスの名前からとって「ヒッグス粒子」と呼ばれている。後に彼はこの功績によってノーベル物理学賞を受賞されました。


さて、この粒子の役割です。

この粒子は全ての物質に質量(つまり重さ)を与える事です。

最初は質量を持たなかった他の素粒子がこの「ヒッグス粒子」にぶち当たることで次第に動きにくくなっていったのでした。この「動きにくさ」が質量そのものなのだそうです。「ヒッグス粒子」は質量(重さ)を持っています。

別の方法で分かりやすく説明します。

人混みがあります。その人々がヒッグス粒子だとします。その人混みにあなたが入っていこうとします。最初あなた自身には質量(重さ)はありません。当然他の人(ヒッグス粒子)と接触しますよね。誰もいない時よりはるかに動きにくいですよね。

この「動きにくさ」が質量なのです。

最初は質量を持っていない人(あなた)が他の人達(ヒッグス粒子)に当たることで質量(重さ)を持ったような状態になるのです。

想像してみて下さい。体感出来ましたか?


今回の実験はピーターヒッグスが考えた理論の証明であったわけです。物に質量があるための理論な訳です。

もし仮に「ヒッグス粒子」のような粒子が存在するならば、物に質量(重さ)があることは今までの科学の理論から論理的に説明がつくのです。

しかしながらもし「ヒッグス粒子」のような粒子が存在しなければ、今までの科学の理論だけでは物に質量があることの説明が論理的にできないのです。

質量があるための必要十分な条件として「ヒッグス粒子」なる物の存在を仮定とした訳です。「ヒッグス粒子」の存在を前提にピーターヒッグスは理論を構築していったのです。

ですからその「ヒッグス粒子」の存在が明らかにならなければ、物に質量があることの証明、つまり物には重さがあることの説明が論理的に出来ないのです。

そしてその「ヒッグス粒子」の発見に今回の実験によって至った訳です。

「ヒッグス粒子」の存在が明らかになった事によって物が重さを持つようになった過程が周知の事実として誰にも認められるようになったのです。

もし仮に「ヒッグス粒子」のような粒子の存在が発見出来なければ、

物に重さがあることの理論は最初から考え直さなければならない訳なのです。

それとも、何かまったく想像もできないような新しい粒子が発見されるかもしれなかったのです。この事に多くの研究者たちは興奮していたのです。

結局、今回の実験では「ヒッグス粒子」の発見により物に質量(重さ)を持つことの説明に終止符打たれた訳です。


科学はあくまで演繹的であるべきであると僕は考えています。

ここで演繹的とは、ある理論と別の理論が前提に在ってそれらの理論に基づき新しい理論または結論を導きだす積み上げ式の考え方の事です。数学はまさにこの積み上げ式の学問ですよね。

例えば、1+1=2と2+0=2等の理論から足し算が構築されました。

ただし積み上げられた新しい理論(または結論)は実験などによって立証されて初めて正しいと判断される場合が大半です。

ただし数学等は実験などでは証明のしようが無いので必要ありません。ただ積み上げただけの理論、結論はあくまで机上の話です。

これとは逆に最初に実験によって出て来た結論を後から論理的に検証して理論だてていく方法を帰納的と言います。

科学史の中には演繹的、帰納的どちらの方法も有効です。有名なニュートンのリンゴが木から落ちたひらめきは帰納的なひらめきと言えるでしょう。コペルニクスの地動説も帰納的な発想でしょう。一方アインシュタインの相対性理論は演繹的の代表でしょう。

長い科学史の歴史の中には仮説や予測のままで、立証されないで日の目を見ないままで埋もれてしまっている理論も数多くあるでしょう。

科学の分野でのノーベル賞はほとんどは帰納的かもしれませんね。何かの実験によってたまたま偶然、予期せぬものを発見したりアイデアがひらめいたりしていますね。キューリー夫人の放射能の発見など。


この世界初の国鏡を超えた大プロジェクトですが、確かに科学の基礎は大事です。すごく大切です。しかし私達の日常生活が劇的に変化するわけでも、良くなるわけでもありません。

現実的なある経済学者が質問していました。

「この発見により経済的に何か益はありますか?」研究者が答えます。「はっきり言える答えはひとつです。」

「まったく分かりません。」「ただ真理の探究のためです。今後の科学の発展のためです。」「我々は何か得にになるからしているのではありません。」実際先の20年の準備の間に国の中には国益にならない実験に膨大な予算を組む余裕が無いと実験に拒絶した所も多くありました。


真理の探究には損得勘定など入る余地などありません。経済的な損得勘定は人間のエゴから生まれたものです。一方真理の探究は神の領域なのです。


今日はここまで、ではまた、近藤浩二でした。