今の教育ってホントに正解?

先日塾で入試を控えた中学3年生に対して、英語の単語復習の勉強をしていました。

「バラは英語で?」「?????」「ユリは?」「????」「いとこは?」「????全部習ってません。」

実際には地域によって教科書が違っているために習う単語が異なっているだけの事らしいのですが。


僕は何気に「ゆとり世代か、、、、」とつぶやいてしまいました。悪気などまったく無かったのですが、その場に居た生徒全員の反感をかったようでした。

「先生、それって差別。学校の先生も何かって言うとすぐに、ゆとり世代だからって、それって卑怯です。」「私達がゆとり教育望んだわけじゃありません。今の大人が勝手に決めたことでしょう。それを無理やり押し付けといて、都合の悪い時には、ゆとり世代がってすぐ言うのよね。これっておかしくないですか?」

その時僕も彼らの言い分も理があると思ったから無理に言い返そうとはしませんでした。そして少し勉強を置いて一緒にそれについて考えてみることにしました。

まず、我々が学生の頃は一日6、7時間授業は当たり前、しかも土曜日も午前中は授業がありました。学習塾自体がほとんどなく通ってる生徒もほとんど居なかったと思います。それでもほとんどの生徒が希望する高校へ進学できていました。

当時は中学校の時に、すでに自分の事に関して、勉強に向いている向いていないを本人だけでなくや家族、先生達も判断されていたのかもと思います。しかもそれについて何の疑問も抱かず人生を送っています。


「私、数学、科学は大嫌い。高校入ったら数学と科学は勉強なんか絶対しないの、計算式出てくるから。でも進学高校は行くの。私の知り合いがみんなそこの高校の卒業生だから。入るのだけが目的。そこの高校の制服着てないと周りの人にバカに思われるから。」と、ある女子生徒が言っていました。私は少し悲しくなりました。

物事に対する疑問符を持たず、学問に対しての好奇心もない彼女に、進学校に進む正当な理由など見当たりません。世間に対する見栄と体裁だけが彼女が勉強をする動機なのです。


また別の女子生徒は「先生私は***大学に絶対入るの。そして大学生で歌手になって有名になるのが夢」「先生なれますよね?」「私頑張るから」

僕は無責任にも「うん、+++ちゃんなら、大丈夫と思うよ。」

これって嘘ですよね。いくら頑張ったからといって夢が絶対に叶う確証はありません。努力は頻繁に嘘をつくのです。

まず目指す大学に入れるかどうかですが。頑張っても入れるとは限りません。その理由は大学には定員があるためです。成績上位数パーセントの人間しか入れません。

次に歌手になりたい夢ですが、これは努力の要素はほんのわずかです。

生まれついての才能のある者には残念ながら勝てません。

また別の理由として、歌手になれるかどうかは宝くじに当たるかどうかと同じような問題で運だけの要素が運命を左右させ、努力にはほとんど関連性はないからです。お金や権力があればそこそこ実現は可能でしょうが。しかしそれは本人の望む物とは違うでしょうけど。

悲しい現実として、現実社会の、物事のほとんどの実現性は努力で可能性を高めることは簡単には出来ないのです。

とどのつまり努力だけでは才能や強運には到底かなわないのです。


話を戻します。ゆとり教育の前は詰め込み教育と言われています。

今までの歴史で人々が積み重ねて来た知識だけが、さも絶対の常識であるかのように一方的に半ば強制的に記憶させられました。その結果ここ日本において我々はその知識を疑うということを知らず、新しい発見や発明への扉を閉ざすという弊害を生んだのです。有識者と言われる人達の一部の見解です。

そこでこの閉塞感のある教育を打破しようとしてゆとり教育、おそらく時間にゆとりを持たせて自分で考える力をつけさせようとしたのでしょうが、机上の空論です。

一方で社会は相変わらず学歴重視です。

しかも教壇に立つ先生が詰め込み教育の申し子です。

教科書の内容と授業時間を少し削り、教育の理念を打ち出さないままでは変わりようがありません。

そしてゆとり教育にも限界を感じ、最近また詰め込み教育のような時間割に変えようとしています。


日本で最も賢いと考えられる人達のある集団が、高いお金と時間をかけて熟慮しているから、

完璧でなくてもそれなりの良くできた教育プログラムを考えてくれることを期待して待つことにしよう。

我々にできることは知識を絶対の常識として押し付けるのではなく、

子供たちの疑問や好奇心にひとつの考え方を提案してやるだけで良いのでしょう。そこから先は自分で悩み考え、自由に自分の進む道を選択していくでしょう。我々はそれを応援してやるだけで良いのでしょう。そう学問とは読んで字のごとく、問うて、学ぶ物だからです。

それの繰り返しがその子の、将来進みたい道を決定していくのでしょう。

ひとつの教科、しかもわずかの内容だけでその教科の向き不向きは決めれません。しかし学校ではテストが良くなければ、その子はこの教科に向いてないと判断を下し、しかも本人もそれを納得してしまいます。嫌いな教科を作ってしまいます。

これでは可能性の芽を摘んでしまいます。まだ時間がかかるかもしれないけれど、栄養が十分行き渡っていない上につぼみにもなっていない小枝を折ってしまうようなものです。もしかすればどの木々よりも一番大きく綺麗な花を咲かせるかもしれないのに。

弊塾に来てくれた子供たちには時間の許される範囲で学問に興味を持ってもらえるように、好奇心を育んでいこうと考えています。


しかし今の社会の常識が破壊され、まったく新しい社会の常識が出現し国民の大多数の考えや常識が変化しない限り、ほとんど記憶力だけが優れた生徒を優秀な生徒とする現行の教育では生徒(人間)の評価の視点は大きく変わらないのでしょう。残念です。