フランチャイズ方式

先日の日曜日、おにぎりを作って東へドライブへと出かけました。


車を走らせること2時間余り、うどん県香川県に突入し20年前に知り合った友人の経営するコンビニエンスストアーに立ち寄るつもりが、確かにそこの場所にあったはずの店が別の職種の店に変わっていました。

仕方なくそこを通り過ぎ瀬戸大橋の四国側のすそのの公園で、一休みしました。キャンディー購入して、一路帰路へ。


帰り道、もう一度知り合いの店を見つけだそうと目を皿のようにしましたが、やはり見つけだせません。

そして二人で儲からなくなったから辞めたのだと認識しました。コンビニ店はフランチャイズ方式でお金のかかるシステムだから、契約更新の時に解約したのであろうと勝手に結論づけました。


実は15年ほど前ですが、家内の所属していたカイロプラクティックの団体もフランチャイズ展開されていて、我々が大変な苦労をしたことを思い出しました。

そんなこともあり、フランチャイズ方式には親会社だけが儲かるようになっているように感じていました。

実際にはそんなこともないのでしょうが。


ここでフランチャイズ方式とは、加盟店契約をすればさまざまな特典がもらえる方式です。

一番のメリットは商標が使えることでしょう。

無名の店舗には誰も寄り付きませんが、誰でも知っている有名店舗には宣伝をしなくても人が自然と集まるのです。

2番めのメリットは生産、商品、流通が利用できる点でしょう。製造工場を持たなくても多種多様な商品が、安価で早く手に入ることです。

3番めは経営戦略を立ててくれて経営指導をしていただけることです。


良いことばかりで誰も失敗しないようですが、職種によっては商品の均一化が図れないこともあります。

また当然社会の景気に左右されるので経済的な体力がないと、資金ショートをおこしてすぐに経営が立ちいかなくなります。

一番の欠点は売上に応じて数パーセントの金額を支払わなければならないため、損益のバランスとなる売上金額が普通の小売店に比べ高く設定されることです。

したがって、売上をかなり上げないと利益を確保することが出来ないのです。

となるとより忙しくなって人手が不足しないように、人件費がかさむようになるのです。

またコンビニ店の場合、社会問題になっている食品の大量のごみ問題です。まだ十分に食することのできる食品を捨てなければいけない規約は受け入れられない方もいるでしょう。


20年前ならコンビニ店も過渡期で市場は広く需要に応えるにはまだまだその数の不足は否めませんでした。

しかしここ数年の間に爆発的に広がってしまい、供給が需要を上回ってしまいました。その結果過当競争になってしまいました。ここを切り抜けて生き残るためには、なおいっそうのアイデアと努力と忍耐が必要です。このような現状に耐えられなくなったのでしょう。


僕らはくだんの知り合いは正しい選択をしたのだと思っています。

どのような商品でも、あれば必ず売れる時代は終わりました。

まして品物を右から左に流すだけで儲かる時代も終わっています。


どんな時代にも、付加価値のあるオンリーワンの商品を適正な価格で早く、安全に消費者に届け続けてこそ生産者も潤い、消費者も満足でき、社会も豊かになっていくものだと思います。

みんながウインウインの関係こそが誰もが願う社会構造であって健全な社会なのだと思います。


ある市場を早く広げる戦略ではフランチャイズ方式は画期的な方法でしょう。

しかしある程度広がってしまえば募集して増やしても廃業する人が後を絶たないのです。

被害者を作らないためにも企業側もある一定数まで増えれば健全な社会作りのために、募集をやめて違った展開を考えるべきではないかと思っています。

際限なく店舗を増やしても市場は宇宙のように無尽蔵に大きく広がっていかないのですから。

近頃は利益優先型で自分たちの保身のためだけに事業を行っている企業が多いような気がしています。


そんなことを考えながら、久しぶりに息抜きできた日曜日でした。

今日はここまで、ではまた、近藤浩二でした。


 

ゼウス ウイルスって!?(危な!!)

突然でした。

昨日、昼間にとんでもない、奇妙な厄介なアクシデントに遭遇しました。


パソコンでネットを閲覧していた時でした。画面が予期せぬサイトに移ったのでした。クリックが全く効きません。戸惑いました。

そこにはゼウス ウイルスにあなたのパソコンが感染しています。シャットダウン、再起動させないでください。

下記に電話してください。フリーダイアルです。専門家が無料で対応します。って書かれていました。

すがる気持ちで直ぐに連絡とりました。言葉のたどたどしい日本人ではない人が対応してくれました。指示に従いました。

遠隔操作で僕のパソコンを操作しています。

電話の向こうには僕と同じように電話をかけてきた人に応対している日本語のたどたどしい人達の声が聞こえてきます。

このままではあなたパソコンは一時間以内にウイルスによって使えなくなります。と言われました。

恐ろしくなって言われるままに応じることにしていると2万円から4万円近くの高額のウイルスソフトを購入すべきです。それ以外に問題を解決する方法はありませんと言うのです。

仕方なく一番低価格のを購入しようと思いました。クレジットカードのみの決済でした。不運なことに手元にカードがありませんでした。

購入出来ない胸を伝えると電話が一方的に切られました。

仕方無くパソコンを触ってると一部のアプリは落ちました。しかし彼が遠隔操作で立ち上げたアプリは反応しません。

その時に電話がかかってきました。彼からでした。パソコンの状況はどうかと尋ねてきました。これこれです、反応していません。と告げるとパソコンを視るように指示を受けました。そこには振り込み用紙とある場所の地図が表示されていました。

そこに行ってこの振り込み用紙を印刷してお金を振り込むか、もしくはクレジットカードでの購入を記載するか、どちらかをしないとパソコンは使えないです。どうされますか?と聞かれました。

本当にカードが無いし、お金を振り込むことも出来なかったのです。どちらも出来ませんと強く言うとまた電話を突然切られました。

彼の言うことが確かならどっちにしてもパソコンは使えなくなってしまいます。出来る限りの事はしてみようと思いました。

この時に「えええ」と思ったのです。

お金を払えばパソコンが直り、使えるようになるなんて、彼にとって話が良すぎる。

最初から商品を購入しなくてもパソコンは使えるのではないかと彼の言葉に疑念を持ち始めました。

それから立ちあがったソフトはそのままにしてネットにつないでゼウスウイルスについて調べました。

調査と駆除方法が載っていたのでその全てを試してみました。

「このパソコンは感染していません。」と出てきました。でもまだ不安だったのでUSBメモリーに重要なファイルのバックアップを取りました。

そしてパソコンを工場出荷時に戻すことにしました。そして今このブログを書いています。まだ少しは不安です。

彼の言ってた事が正しいのかもしれませんが、今回一時的に回復したとしても、二度とウイルスに感染しないソフトなんて存在しないでしょう。

家内が帰ったのでその事を話しました。「詐欺じゃないの?」僕も新手のネット詐欺かも?って今では思っています。振り込め詐欺の一種でしょうか?


ほんとに振り込まなくてよかった。と今では思っています。

皆さんネット社会って怖いですよ。みなさん、気を付けて下さい。自分の身は自分自身で守る以外に方法はありません。

昨日の出来事は何だったのでしょうか?

今日はここまで、ではまた、近藤浩二でした。


 

生活習慣や考え方を変える

世に成功法則本や自己改革本が数多くあります。

しかし自分を変えて成功出来る人はほんのわずかなのですね。


あなたは変わる必要ある?

それとも変わる必要無い?


変わろうと思っても変われない。だから成功は難しいのですね。

克服すべきはただひとつ、自分です。

塾講師で生徒たちに、頑張れよと言ってる立場なので僕自身頑張らない訳にはいきません。

でないと子供達に言う資格がないですよね。


しかしながら分かっていても、なかなか行動は変わらない。

人間ってなんて変わらないんだ。

そう身に染みて思う今日この頃です。

続けるを決めるのも自分。

辞めるのを決めるのも自分。

全部自分。

その繰り返しの結果が今の自分。


誰でも自分にしかない才能を持っているはずです。

でもその才能を使って成し遂げることとは別物です。

あなたは使わないで無駄にしている能力はありませんか?

才能がありながら、どうしてそれを使えないのでしょうか?

成功を収め裕福になれるはずの人間が、どうして不安で不平、不満な毎日に甘んじているのか?

人生を価値あるものにして、野心があるというのに、どうしてそうできないのでしょうか?


何を待っているというのでしょうか?

何が自分を抑えつけているのでしょうか?

何が引き留めているのでしょうか?

自分に問いかけてみましょう。きっと答えは見つかるはずです。


自分を抑えつけているのは、、、、、、自分です。

他の誰でもありません。

チャンスは全ての人に等しく与えられているのです。


行動を変えていくためには、自分の深層心理まで含めて変える必要があります。

僕自身素晴らしい人生を送りたいので、時々文章に書いて自分を戒めているのです。こんな事ブログに書くな!と怒られそうですが、みなさんお許し下さい。


今日はここまで、ではまた、近藤浩二でした。


 

贅沢って何?!

焼肉を食べに行きました。「ぜいたく」って非難されました。


でも、そう言った人は高級車クラウンに乗っています。僕からすると高級車に乗っている人の方がよっぽど贅沢です。

僕の常識では、焼肉は一回食べてもせいぜい、一人4000円から5000円です。高級車は安くても一台300万円はします。

しかも焼肉をご飯のおかずと捉えれば一人500円から1000円で収まる時もあります。車の事はよく知りませんが安くとも150万円はするように思います。


ネットで調べてみます。一般論はこうです。

ぜいたくとは、

必要な程度をこえて、物事に金銭や物などを使うこと。金銭や物などを惜しまないこと。


しかしここで当然、必要な程度は人によって異なります。食事内容の程度も、その人によって異なります。

おそらく、贅沢かどうかを決定する一番の要因は、その人の現在の生活レベルでしょう。

そしてその次の大きな決定要因は、その人の現在における必需品の優先順位です。

そうです。今自分にとって一番必要な物は何か?です。


あなたにとって今一番必要な物は何ですか?

そしてそれに如何ほどかけられますか?


そしてなぜ、人はぜいたくをするかです。

もうひとつ、その贅沢品で自分自身の欠乏感を満たすことができるのです。

そしてその欠乏感は幼少時から続いている感情です。

経験上、好きな食事が満足に出来て、いなければ、食事にお金をかけて充足感を満たすのです。僕の場合です。

また、贅沢は他人とのお金の多少の比較ではありません。


自分が持ち続けている欠乏感をどれだけのお金を使っても、満たすためには人は、お金や物を惜しげもなく使うことが出来るのです。

毎日持ち金が無くなるまでお酒を飲み、金が無くても借金してでも使う人が居てますが、本人は贅沢しているとは思っていません。お金を使うという行為そのものに満足して欠乏感を満たしているのです。

きっと脳内物質の快楽ホルモン(ドーパミン)がそうさせているのでしょう。

そしてその行為を理解できない人がぜいたく(もしくはバカ)と捉えるだけなのです。

ぜいたくと呼ばれる行為は自分自身では判断でき難いと思います。

加えて誰かと比べて論じる物でもありません。自分個人にだけ使う概念なのです。

時が経って、別の違う充足行為を見つけた時に、後から自分のあの時の行動はぜいたくだったと気付くのです。


今僕が振り返って、贅沢だったと思える行為は、新婚時代にカイロプラクティックの勉強も兼ねてアメリカの海外旅行に一週間で二人で300万円程使ってしまったことです。

あの時のお金残していたら、、、、

と思い、、、、、、ませんですよ。千恵子(家内の名前です。)


今日はここまで、ではまた、近藤浩二でした。


《追記》もしかりに今、余裕のお金が一億円あったとしても、僕は高級車は持ちません。軽4自動車で十分なのです。これは価値観の問題かもしれませんね。


 

興味の対象が努力の対象

塾という仕事を長年従事していて、改めて気づいた事があります。

昔からの言い伝えです。「好きこそものの上手なれ」です。


戦国時代の初期の出来事です。1560年、 桶狭間の戦いが起こりました。今川義元2万5千の兵、対する織田信長3千の兵です。普通に考えれば今川義元の圧勝だったと、誰もが疑わないでしょう。

結果は皆さんご存知の通り、数の上で圧倒的に劣勢の織田信長の勝利でした。

この説明で終わりにしようと思ってましたが、成績が芳しくない生徒が「どうして、織田信長が勝てたのですか?」予期していない質問でした。

無視することも出来ず、知っていたので説明することにしました。

「奇襲でした。」「どのような?」「桶狭間と言われる狭い窪地で義元の首を取った」「もっと詳しく知りたい」僕は知っている限りの知識を総動員させて説明しました。

生徒達は興味津々な様子で熱心に聞いていました。僕はご満悦で気分がとっても良かったものです。

しかも、そこに居合わせた生徒たちはその後、歴史にすごく興味を持ち始め、歴史の成績が上がってきました。


出来事の結果だけを、読み上げて終わるつもりが、そういう訳にはいかなかったのです。それが思わぬ好結果につながりました。

歴史はストーリーですから、興味の対象は結果だけでは無くて、その過程が大切であると子供達でも気が付いているのです。


問題から答えを出すのは、ほとんどの問題の場合、わずかな時間であるか、ほんの一瞬でしょう。

しかしそこに至るまでの99パーセントは時間をかけて勉強した努力のはずです。

何事も結果が全てではなくその過程も大切です。

だから努力することは大切です。

と教えたかったのですが、、、、、、


生徒達は歴史においては結果のみならず、

その結果に至る経過に興味を持ち始めました。

しかしほんの少しトリッキーな数学や科学の計算には頭が回らないのか、考えたく無いのか、その結果に至る過程にはまったく興味を持ちません。


僕はこれは仕方の無い事だと気が付かされました。

人間好きな事には興味を持ちます。嫌いな事には興味がわきません。無駄になるかもしれない努力なのだと本人が一番よく分かっているのです。無理強いはよくないと思いました。

残念ながら頭の良し悪し、得手不得手は生まれつきある程度決まっていると僕は思っています。

ある事柄が得意な人は初めから得意なのです。不得意な人は初めから不得意なのです。数学、芸術、スポーツ等においては顕著に出ます。

誰でも疲れる事はやりたくないのです。見通しの立たない努力はしたくないのです。


現行の学校教育では教育格差はますます広がると思われます。

勉強の得意な子供はますます得意になるでしょう。80点が100点近く取れるようになるのでしょう。一方不得意な生徒はほんの少し点数が取れるようになるだけでしょう。30点の生徒が40点程度になるだけでしょう。

すなわち、ある生徒は得意な分野はさらに得意になるでしょう。しかし不得意な生徒は人並みにもなれず、底辺を這っているままでしょう。

落ちこぼれが無くなるどころか、ますます格差が広がりそうです。


しかしです。ほとんどの人達は自分の不得意な分野を把握できずに、努力すれば一人前になれて、さらに努力を重ねれば一流になれると思い込んでいるのです。不得意を克服しようとするのです。

あのイチローですが、誰かがもし無理やり野球ではなくサッカーをやらせていたとしたら、野球と同じ程度の功績を残していたかどうかです。おそらく途中で努力することさえ断念したでしょう。

僕が思うに不得手な事柄はおそらく努力しても、一流どころか、一人前にもなれないでしょう。


今日はここまで、ではまた、近藤浩二でした。


 

偉い人ってどんな人?!

偉い人って数多く居てますが、どんな人を言うのだろうか?

早速ウイキペディアで調べてみると、「歴史に遺るような、並外れて優れた人間のこと」と記述されてました。


僕が子供の頃、伝記と言われるような本にその生涯が物語になっている人を偉人と言うのでしょうか。誰が判断しているのでしょう?

偉人は時代によって、つまり世代によって異なるでしょう。

また国によっても変わるでしょう。

そして価値観が変化すれば、それに従って個々の人達の考える偉人達も異なるはずでしょう。

また、誰もが知っている人以外にも、自分の周りの自分だけが知っている偉人も存在するはずです。


少し列挙してみます。

  • 徳川家康
  • 織田信長
  • 豊臣秀吉
  • ナポレオン
  • ジョージ、ワシントン
  • 伊藤博文
  • エジソン
  • ベンジャミン、フランクリン
  • ガリレオ
  • ヘレンケラー
  • マザー、テレサ
  • アインシュタイン
  • 湯川秀樹
  • 坂本龍馬
  • ゴッホ
  • モーツァルト
  • イエス、キリスト

僕が学生の頃、伝記で読んだ人達の一部です。


今の年齢になって感じますが、たしかに名を残すような、並外れた優れた人であるには違いないと思いますが、腑に落ちない人も含まれているように思えてなりません。

今もってそうですが、本屋に行っても、図書館に行っても、児童館に行ってもです。伝記コーナーみたいに区切られて、初めから「この人達は偉い人です」のように押し付けられ、教え込まれて、詰め込まれている気がするのは僕だけでしょうか?

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、ナポレオンなどは戦争で多くの人を殺戮して手に入れた名声です。確かに素晴らしい志や信念に根差した行動であったでしょう。身習う生き方もあるでしょう。僕も信長の考え方やその行動力は驚愕しましたし好きな武将です。


ある国、ある時代ではレーニンやマルクスが尊敬されましたが、

平等を謳って成功した国はありません。

「自由な社会よりも平等な社会が人を幸福にする」とする考えは間違いであることは歴史がそれを証明しています。しかしながらレーニンやマルクスを偉人と捉える人達も数多く存在しました。


現在は自由な社会で資本主義な社会です。ですから「お金持ち」が偉くて偉人であると考えられています。となると後の時代ではビルゲイツや孫正義など金持ちが偉人として伝記に描かれるのでしょう。

たしかに今のような現実的な物質社会において、そこを生きる我々は「有名」、「地位」、「名声」、「権力」、「お金」などを判断材料に人の偉さを測りがちです。もちろんある分野に特別に、際立って優秀で努力したからこそ、成功をおさめ「地位」や「お金」を手に入れる事が出来たのでしょう。それを疑う余地はありません。


でも僕は思うんです。そこに偏りはないでしょうか。ただ自分がそうなりたいと望み、拝められるような人だけが本当に偉い人なのでしょうか?

それは自分には無いもので、もし仮に自分がそれを手に入れる事が出来れば、自分の心の中の穴を埋める事が出来るだけなのではないでしょうか?


世界一の大富豪のビルゲイツはお金持ちになっても幸せにはなれなくて、虚しい心の穴を慈善団体を作って寄付をすることで埋めていったのです。

またフェイスブックの創始者のマーク・ザッカ―バーグも資産の99%を寄付しています。


人はいつも自分に無い物を強く願い欲しがり、すでにもうそれを持っている人を尊敬し憧れるのです。そして偉いと考えるのです。

僕の考える偉人のひとつには、

どれだけ自分の理念にそって生きたかであり、
それは自分に利がなくても、怒りを買ったとしても、
批判されたとしても、理念に沿って生きるのです。

そのうえでどれだけ他人に貢献できたか、なのです。

そしてそれは時代が変わろうが、国が変われろうが、誰からも尊敬される思想であり、功績であって、特定の人達からのみ拝められる偶像ではなく、それは普遍的でなければならないのです。


今日はここまで、ではまた、近藤浩二でした


《追記》先日の日曜日、地元で市議会議員選挙がありました。候補者の中には僕が割と知っている方が出ていました。内心あんな人が議員に成ったらこの街も終わりだと思っていた人達が当選してました。別のある人がその人は偉い人だと言ってたのです。そこで人によって、偉い人の定義は大きく異なるものだと痛感したのでした。


 

「くじ」や、「じゃんけん」は平等では無い!

少し前に携帯電話の契約更新で定額プランが安いプランに変わりました。すると応対された若い女性が安くなった金額分を賄おうと別のプランの追加を提案されました。


僕は必要無いと言いましたが、家内は興味があるのかそのプランを何度も見返して未練たっぷりの行動をしていました。どうする?とお互い顔を見合わせいました。我が家ではそのような時は決まって「じゃんけん」でもって決めるのです。


と言うのも、「人間にとって本当に大事な事はくじで決める。」と日本エドガーケイシーセンターの会長から古代の人の物事の決定方法を教えてもらったからなのです。

「くじ」などは決定要因が平等であって、運だけが結果を左右する要因と理解していたのでしょう。

古代の人達はそこに神の介入を感じたためでしょう。


しかしです。 「くじ」って本当に平等なのでしょうか。


ここでは「じゃんけん」に特化して考えてみたいと思います。じゃんけんの場合、ぐー、ちょき、ぱーの三つがあります。ここでそれぞれの手がそれぞれ出る確率は平等の3分の1と思われますが、ここが一番の問題です。

人によってはちょきが出しにくい人と、ぱーをよく出す人など、個人個人によって大きな「ばらつき」が存在するのです。

この「ばらつき」は確率の計算する場合、一番障壁となる問題なのです。

仮に1万回戦って、勝った回数が多い方を勝ちとするような勝負ならば、ぐー、ちょき、ぱーの出る確率は限りなく3分の1になるでしょう。しかし一回限りの勝負であれば、それぞれの出る確率は平等の3分の1では決して無いはずです。


何が言いたいかと言うと、「くじ引き」や「じゃんけん」などは決して平等ではなく、「じゃんけん」は特に、個人によって偏りが存在します。そしてそこにも戦略や戦法が存在するのです。

ですから「くじ」や「じゃんけん」に勝つ人はただ単に「運」が良い人じゃなくて、何かに優れた人でもあるのです。


僕は子供の頃、商店街の歳末謝恩祭で「がらぽん」を何度か回しました。

でも不思議な事に、毎年必ずと言っていいほど、

特等や一等は抽選の最終日まで当てって射ないんですよね。

結局本当に、特等や一等は出たかどうかは分からない訳です。

そんことで子供心にも「ガラポン」の不正を確信したものです。しかしです、あの偶然性の要因しか考えられないような「ガラポン」にも当てるための戦略や戦法があるそうです。


あの夢の「宝くじ」にも戦略や戦法がありますから。

でも一枚買っただけで当たる人も居ますが。何千枚買っても当たらない人も居ますから。ほどほどに。ちなみに僕は宝くじは買いません。


みなさんもくれぐれも「くじ」や「じゃんけん」の不平等の確率を理解しておきましょう。


ところで、僕と家内の勝負は追加プランに入らない側の僕が勝ちました。しかし追加プランは契約しました。

そうです、僕は勝負には勝ちましたが、ふたりの女性の、目で訴えかける、圧力に負けたのです。

「くじ」や「じゃんけん」はしなくてもすでに結果は決まっていたのです。「じゃんけん」はただの形式だけのことでした。

強引な人には負けるのです。残念ながら、男性は女性にはかなわないのです。


今日はここまで、ではまた、近藤浩二でした。

ヒッグス粒子って!?

深夜のBS番組でパーティカル、フィーバーと言う映画を観ました。科学史における金字塔となる「神の粒子」と呼ばれる「ヒッグス粒子」を発見するまでのドキュメンタリー映画でした。


専門用語が一杯でてきました。しかも僕には基礎知識が欠如しているのです。ほとんど理解できませんでした。

しかしキャスターの熱意と研究者たちの尋常ならざる探求心がこちらまで伝わってきました。二時間余りがあっという間に終わりました。実験は成功に終わりました。

20年というとっても長い期間をかけて準備し、世界中を巻き込んで膨大な国家予算をも注ぎ込み絶対に失敗は許されない状況です。しかもメディアが常に監視の目を光らせています、その重責ははんぱじゃありません。

もちろん世界初めての挑戦です。挑戦に失敗は付き物です。当然予期せぬトラブルに会いました。スケジュールが遅れて変更、変更が続きました。

しかしながら彼らは決してくじけることなく、真実追求のため袋詰めの状態で、不眠不休の命がけで戦いました。そしてついに成功しました。


ある研究者がつぶやきました。

「僕は幸せだ。好きな研究に没頭できる。こんな良い環境を与えてくれて成功するのは約束されている。」「ただひとつの問題は失敗した時に言い訳出来ないことだ。」


宇宙や生命の起源になるとされる、この素粒子は「神の粒子」と呼ばれ、提唱者であるイギリスの物理学者ピーター、ヒッグスの名前からとって「ヒッグス粒子」と呼ばれている。後に彼はこの功績によってノーベル物理学賞を受賞されました。


さて、この粒子の役割です。

この粒子は全ての物質に質量(つまり重さ)を与える事です。

最初は質量を持たなかった他の素粒子がこの「ヒッグス粒子」にぶち当たることで次第に動きにくくなっていったのでした。この「動きにくさ」が質量そのものなのだそうです。「ヒッグス粒子」は質量(重さ)を持っています。

別の方法で分かりやすく説明します。

人混みがあります。その人々がヒッグス粒子だとします。その人混みにあなたが入っていこうとします。最初あなた自身には質量(重さ)はありません。当然他の人(ヒッグス粒子)と接触しますよね。誰もいない時よりはるかに動きにくいですよね。

この「動きにくさ」が質量なのです。

最初は質量を持っていない人(あなた)が他の人達(ヒッグス粒子)に当たることで質量(重さ)を持ったような状態になるのです。

想像してみて下さい。体感出来ましたか?


今回の実験はピーターヒッグスが考えた理論の証明であったわけです。物に質量があるための理論な訳です。

もし仮に「ヒッグス粒子」のような粒子が存在するならば、物に質量(重さ)があることは今までの科学の理論から論理的に説明がつくのです。

しかしながらもし「ヒッグス粒子」のような粒子が存在しなければ、今までの科学の理論だけでは物に質量があることの説明が論理的にできないのです。

質量があるための必要十分な条件として「ヒッグス粒子」なる物の存在を仮定とした訳です。「ヒッグス粒子」の存在を前提にピーターヒッグスは理論を構築していったのです。

ですからその「ヒッグス粒子」の存在が明らかにならなければ、物に質量があることの証明、つまり物には重さがあることの説明が論理的に出来ないのです。

そしてその「ヒッグス粒子」の発見に今回の実験によって至った訳です。

「ヒッグス粒子」の存在が明らかになった事によって物が重さを持つようになった過程が周知の事実として誰にも認められるようになったのです。

もし仮に「ヒッグス粒子」のような粒子の存在が発見出来なければ、

物に重さがあることの理論は最初から考え直さなければならない訳なのです。

それとも、何かまったく想像もできないような新しい粒子が発見されるかもしれなかったのです。この事に多くの研究者たちは興奮していたのです。

結局、今回の実験では「ヒッグス粒子」の発見により物に質量(重さ)を持つことの説明に終止符打たれた訳です。


科学はあくまで演繹的であるべきであると僕は考えています。

ここで演繹的とは、ある理論と別の理論が前提に在ってそれらの理論に基づき新しい理論または結論を導きだす積み上げ式の考え方の事です。数学はまさにこの積み上げ式の学問ですよね。

例えば、1+1=2と2+0=2等の理論から足し算が構築されました。

ただし積み上げられた新しい理論(または結論)は実験などによって立証されて初めて正しいと判断される場合が大半です。

ただし数学等は実験などでは証明のしようが無いので必要ありません。ただ積み上げただけの理論、結論はあくまで机上の話です。

これとは逆に最初に実験によって出て来た結論を後から論理的に検証して理論だてていく方法を帰納的と言います。

科学史の中には演繹的、帰納的どちらの方法も有効です。有名なニュートンのリンゴが木から落ちたひらめきは帰納的なひらめきと言えるでしょう。コペルニクスの地動説も帰納的な発想でしょう。一方アインシュタインの相対性理論は演繹的の代表でしょう。

長い科学史の歴史の中には仮説や予測のままで、立証されないで日の目を見ないままで埋もれてしまっている理論も数多くあるでしょう。

科学の分野でのノーベル賞はほとんどは帰納的かもしれませんね。何かの実験によってたまたま偶然、予期せぬものを発見したりアイデアがひらめいたりしていますね。キューリー夫人の放射能の発見など。


この世界初の国鏡を超えた大プロジェクトですが、確かに科学の基礎は大事です。すごく大切です。しかし私達の日常生活が劇的に変化するわけでも、良くなるわけでもありません。

現実的なある経済学者が質問していました。

「この発見により経済的に何か益はありますか?」研究者が答えます。「はっきり言える答えはひとつです。」

「まったく分かりません。」「ただ真理の探究のためです。今後の科学の発展のためです。」「我々は何か得にになるからしているのではありません。」実際先の20年の準備の間に国の中には国益にならない実験に膨大な予算を組む余裕が無いと実験に拒絶した所も多くありました。


真理の探究には損得勘定など入る余地などありません。経済的な損得勘定は人間のエゴから生まれたものです。一方真理の探究は神の領域なのです。


今日はここまで、ではまた、近藤浩二でした。


 

近未来予想!?

昨日の続きです。近未来予想です。


パソコンやスマホが

「一家に一台」から「ひとりに一台」の時代が今です。

「ひとりに一台」の次は? その未来は?


単純に誰でも考えられる事では、

「ひとりに一台」から「ひとりに数台」でしょうか。


その程度なら、どこかのパソコンメーカーでも考えていたでしょう。

でもそうなると、その市場は過当競争になってしまいます。

そして行き着く先は価格競争になってしまいます。その結果自分達の首を自分達で絞めることになってしまいます。


ここで、携帯電話の必然性の未来社会と、コンピューター社会と、ネット社会の、三つの組み合わせを考えた男がいました。

スマホの登場は社会の常識ばかりでなく生活スタイルや経済の枠組みまで変えてしまいました。

そしてそれぞれの市場(カメラ業界もですね)を一手に獲得してしまいました。もしかすれば今後、テレビ業界も変えてしまうかもしれません。


その結果、時代が大きく変革しました。今もなお変わり続けています。

僕も子供の時、当時の大人たちが予想した、21世紀の未来はどうなるのか、その予想図、それに近い絵画のような漫画を、たびたび本や雑誌で見かけた記憶があります。

その時に見た物と21世紀の現代ではかなり違っていると思います。

記憶は確かではありませんが、違いを列挙してみます。

  • 町並みがスマートでした。今のようなずん胴のビルではなくもっと曲線形のスマートなビルでした。
  • 自動車が空を飛んでいました。しかも水中も水上も雪道もたやすく走ります。そしてその形状も細くてかっこよかったはずです。
  • ドアがほとんど自動ドアです。
  • ほとんどの機械、特に家電は遠隔操作で動かします。
  • もっと多くのロボットが活躍していました。
  • 同時自動翻訳機をみんな身に付けていました。

きりがないのでこれぐらいにしておきます。


前述の未来は、常識の大きな破壊とそこに住む人達の理解が無いと無理でしょう。そしてそれに伴う大きな技術革新が必要でしょう。

子供の頃は空飛ぶ自動車の登場を一番に待ち望んでいました。しかし現在の物理学のニュートン力学を充足させるには、さらなる時間を要しそうである。

何かの本で読んだ事だが、現在の社会環境では、夢の機械タイムマシーンは創造不可能であると断言していました。理由は光より速くタイムマシーンが走らないと、時間を超越出来ないのです。しかしながら、相対性理論では光より速い物はこの世には存在しないと明言されているためということらしい。


現在の科学の常識から考えると、空飛ぶ自動車やスマートなビルは、残念ながら、21世紀中でも不可能だと考えています。


近未来は、僕の想像では次のようになるだろうと考えています。

  1. 化石燃料の使用が減少して自然代替エネルギーである、太陽熱、風力、水力が大きく増えるようになると思っています。
  2. 車はほとんどが自動運転になるでしょう。
  3. 家電製品のみならず、日用品、椅子、机等までもネットに接続された状態になり、求める様々の情報が取得出来るようになる。
  4. 各地区に経済特区のような場所が出来、未来都市のような小さな街が作られるような気がしています。

大きな変化は無いと申しましたが、2、3、だけが実現されただけでも生活スタイルは大きく進歩したように感じるでしょう。

その実現のために4番のような場所が作られ徐々に広がっていくのではないかと考えています。

現在でもどこかの国では未来都市建設中です。


期待の人工知能ロボットが人間に執って代わるにはまだ数十年はかかると思われます。

2、の自動運転の技術は現在ほぼ出来上がっています。実現には社会環境の整備が必要なだけなのです。

資源を持つか持たないかが、国力の強弱を決定しないように、また環境衛生などの両面から、エネルギー源が大きく変換すると考えています。

それを実現するためには、ライフラインの新たなな整備が必需であると思います。


そのためには国民である我々が公共に対する町作りをもっと理解する必要があると考えています。

例えば道路を広げたり、新たに作ったりする時、飛行場、駅を新たに建設する時、政治家まで巻き込んで反対のストを起こす人達がいますが、町の発展から視ると言語道断です。公共意識お無さも甚だしい。考えるべき意識でしょう。


以上が僕が考える近未来のひとつです。

では今日はここまで。近藤浩二でした。


 

世の中はまさにスマホ時代

家内の知り合いの一人にパソコン教室を営んでいる女性社長が居ます。

世界一大富豪のマイクロソフトのビルゲイツはOSソフトを開発の折り、

「一家に一台パソコンを」を目標に掲げていました。


その上を行ったのが、そのマイクロソフトとのOS戦争に敗北した、アップルの創業者のひとりである、スティーブ、ジョブズでした。後に彼はiphoneを開発しますが、

「ひとりに一台スマホを」と掲げました。

実際その夢は実現するような勢いです。


くだんの経営者はワープロからパソコンへの転換時にパソコンの到来を予想しました。手作りのパソコン数台から事業をスタートさせ、いち時期はパソコン数十台を設置する程に拡大したそうです。

しかしスマホの登場で事態は急変したそうです。パソコンが一家に一台行き渡る前に、手軽で操作性の良いスマホの登場は世間の常識を大きく変えてしまいました。


家に固定電話は無くても家族全員スマホを持っている家族は多く存在します。そして家にパソコンは無くても各人スマホは持っている人達も数多く居てます。

実際知り合いに某有名家電メーカーに勤務されていた方であっても、家にパソコンもDVDプレーヤーも所持してないそうです。そんなこともあってか、パソコンやパソコン関係のアイテムはその需要を大幅に減少させています。すでに、企業やいち愛好家や職業で必需品と言う方しか、もはやその存在意義は無くなっています。


くだんの経営者も今では大部分を占めていた、いち個人の客はひどく減少し、今では職業訓練校として、市から委託を受けることで経営がどうにか維持出来ている状態だそうです。

経営の能力の問題というよりも、著しい技術革新が社会の需要をも変えてしまったほんの一例です。


「一家に一台」から「ひとりに一台」の時代はここ十年程で変化しましたが、「ひとりに一台」から次はどうなるのでしょうか?

それを誰が仕掛けてどのような時代を作るのかは想像も出来ません。しかしそのチャンスは誰にでも有ると僕は思います。これから数十年先の未来をどう見据えるかによって各人の未来が変わってしまいます。


未来がどうなるのか、ただの傍観者になるのでは無くて、自分達で仕掛けて、自分達の考える未来を作っていきましょう。

最後に筆者の座右の銘です。スティーブ、ジョブズの言葉で

「ハングリーであれ!、愚かであれ!」です。

いつもこうありたいものです。


今日はここまで、ではまた、近藤浩二でした。


《追記》

「ひとりに一台」と理念を掲げたジョブズでしたが、後のインタビューで自分の子供にスマホを使用させますか?との質問には、自分の子供達には使用させたくないと望んでいたそうです。不思議ですね?