人間にもし寿命が分かったならば

久しぶりに外出から家に帰って何気にテレビを点けたら、今週の映画ランキングが発表されていて一位は相変わらず、「君の名は」でした。そして第二位は初登場で「本能寺の恋」少し映画の紹介があった。「本能寺の変」ではありません。


みなさんご存知のように「本能寺の変」は日本史上の歴史で未だに謎とされている事件で天下統一を目の前にしてた織田信長が光秀に討ち取られる「本能寺の変」に関する映画。

事件の前日に現代の女の子がタイムスリップして信長に出会う話。「変」とよく似た漢字の「恋」。

「本能寺の恋」は学生の珍迷回答の代表のような題名でもあろう。歴史に「もしも」は禁句だが、僕はまだこの映画を観ていないのでストーリーはよく知らないが、あえてドラマのために、信長の運命を知っている現代の女の子が信長に恋に落ち信長を救って歴史を変えてしまう話であろうことは想像に難くない。

しかし歴史ドラマではなくラブストーリーのようだ。

その後テレビを消してパソコンを起動させてユーチューブを見てると、あるお笑い芸人が「人間はなんのために生まれて来たのか?」もう一人が答える「納税するためですよ」。言い得て妙である。


人間は間違いなく社会性を持った動物である。社会とつながっていない人間はひとりも存在しないはずである。

そして社会を構成するのは人間本人であって、一人ひとりはその社会を構成する一つのピースに過ぎないということなのである。

その現実をシニカルに皮肉的に表現し笑いを誘っているのだ。


人間は誰しも必ず使命を持って生まれてくるものだと言い切る人もいる。僕は決してそうは思わない。人類は誕生して数百万年もの間、生き続けて種を保存するためだけに生活していたであろう。そんな状況では使命は種の保存の、本能でしかなかろう。

その後人間は現在までおそらく何度かDNAが書き換えられ脳が発達していった。そして人間は知恵を持ち始め集団で生活するようになる。その後社会が形成され、安全な生活や安定した食事の供給が保証される。

衣食住が足りた社会生活の中で、自我が目覚め始め主観でしか物を見なかった人が客観で物を捉えると言う物の視方が形成されていく。その客観的視点が自分自身以外の物に関心を持たせる。そして相違点の認識をさらに深めていき、自然科学を発展させることになる。自然科学の発展が新大陸の発見等を可能にさせた。これにより文明をさらに発展、発達させ続け、人間の生活はより豊かになっていった。


僕はある一時期、聖書を学ぶ機会があり旧約聖書の創世記を教わったのであるが、アダムとイブは狡猾な蛇にそそのかされ、神様が食べてはならないと言われた知恵の木のリンゴを食べてエデンの園を追放されたが、とすると神様は人間に知恵を持ってほしくなかったのであろうか。そして文明を発展させてほしくなかったのだろうか?人間に豊かになって欲しくなかったのだろうか。腑に落ちない疑問が頭に沸き起こる。


話を戻そう。「本能寺の恋」の話で信長が自分の運命を知りえたとするなら、信長が自分の死期を認識して、その後の人生をそれを回避するように生き方を変えたとすれば、それはもはや我々の知っている魔王信長ではなくなる。

いつ死んでしまうか誰も予測できない戦国乱世だからこそ、一瞬一瞬をいつ死んでも悔いが無いような気持ちで生き抜いてきた信長だからこそ、当時としてはあれほどの偉大な破格な事業を成しえたと思えるのだ。


現在社会は、けっこうなことに平和社会で、予期せぬ戦争が起こったり、事故による突然死はほとんどやって来ない。しかも豊かな社会のため、明日の食事に困ることもほとんど考えられない。

幸か不幸か、一部の現代人には死ぬほどの気持ちで何かに取り組み頑張る必然性が全くなく、自分自身の持っている可能性をほとんど発揮することなく残念なことに無駄に年を取っていき死期に近づいていくように思えてならない。


もし仮にあるときに事故や病気による死も寿命と考え、なにものかに自分の死期寿命を知らされたとするなら、しかもその情報に信憑性があったならば、その人の生き方はその一瞬から、180度変えられる可能性がある。


それは一日前か三日前か一週間前かひと月前か一年前か三年前かによっても、事故か事件か病気かによっても、対応は変わってくるだろう。

しかしながら、自分の死期を知ることで覚悟を決めることが出来るだろう。腹が座ることが出来るのだろう。不思議と前向きに生きることが出来ようになるかもしれない。

人間200年生きることは不可能なことも分かっている。100年生きることも困難で稀であることも理解している。しかし年を重ねても、毎日を死んだ気持ちで生き抜く気概を持つことの出来ない人間の弱さを痛感させられる毎日である。


自分の死期がある程度具体的に認識出来るようになると必ず生き方が変わるはずだ。

嫌な会社や仕事にしがみつく理由がなくなるだろう。すると他人の目を気にすることもなく、自由で自分らしい人生を送るようになる。結局残された時間を有意義に過ごすことができるようになる。

目的が入れ替わる

年が変わってブログを書こうと思いパソコンに向かってあれこれいろんなことに想いを巡らせていました。

しかし正月でアルコールが入り睡魔のせいか、気分が乗らず筆が進みません。頭の中に想い浮かんだテーマを考えましたが考えがまとまらない。投稿の締め切りには時間が一時間程で日付が変わる。考えがまとまらない上に筆が進まない。


新年が初めってそうそうブログをスタートしないのは気分が良くないと思ってました。そこでその一日の出来事を箇条書きに書くだけにしようかなとも考えました。まるで小学生の日記みたいになるかもと思っていました。でも自分自身が認めることが出来ません。それで後から編集することにしてとりあえず投稿だけしました。

昨日と今日はその投稿の編集をする前に考えがまとまらず途中の話のまま投稿したことを考えました。


それで気が付いたのです。僕はブログを書くことだけが目的になっていたことに思いあったのです。本当はブログを書いたその先に目的があるのにもです。


誰にでもよくある話ですが、ある目的である行動を行っている間に目的が変わってしまうことってよくあります。

学生時代要点の整理と全体の流れを把握するため、ノートと教科書の二つを読み返して別のノートに数種類に色のマーカーや下線を引いたりカッコで囲んだりとカラフルにいっぱい時間かけてまとめ上げて整理ノートと作り上げました。これで今度のテスト対策はバッチリって思ってました。でも不思議な事にあんなに時間をかけたにも関わらず、テスト結果が伸びない時が多々ありました。

しっかり覚えて自分のものにすることが目的であるのに、ノートに綺麗にまとめ書きをすることで満足していたんです。こういうこっとって誰でも経験したこっとってあると思います。

本来の目的が作業の途中で別な物に入れ替わっているんです。僕は、年末部屋の掃除をしようとしました。数年前の懐かしい写真の束を見つけました。一枚二枚と見ていくうちに懐かしくなって椅子に掛け直して結局最後まで全部見ました。みなさんその後僕何をやったと思います。片付けするのをほっといて写真を探し始めたのです。

掃除して片付けするのが最初の目的だったのです。でもその途中でまったく別の目的に変わりました。そのことにまったく気が付かず時間だけが経過して結局初めの目的は達成されることなく次の目的、次の目的へとどんどん変わっていきました。そして時間だけが過ぎてしまい一日が終わったのでした。


今回ブログを書くにあたり自分なりに目的があったのです。しかし続けていくうちに、内容はともかく書いて一日に一回投稿するということが目的なってしまっていました。じっくり時間をかけて考えなくて投稿することがほとんどなのです。スピードが求められる上に、早いレスポンスが可能になったため仕方のないことなのでしょうが、投稿したい内容によっては毎日投稿可能なテーマと、何日間時間をじっくりかけて洗練すべきテーマがあるはずと考え直しました。しかも毎日考える事は時間の経過とともに変わり続けるのです。


今日はブログが途中で終わってしまったことで改めて考えたことを書いてみました。。人間の目的は行動の最中でさまざまに変化していくということ。そしてそれは誰しも当たり前であるということです。