ここってどこなんだろう?
見るものは、見るとはなしに、思い浮かぶ。
聞くことは、聞くとはなしに、思い当たる。
触るものは、触らなくても、感じることができる。
どこかに行くには、行かなくても、思うだけで移動できちゃう。
宙に浮いている感覚は、ずっと変わっていない。
僕の周りには老若男女、様々な人が
みんなが居てくれたから
ちっとも寂しくなかったんだ。でもある時に
僕、ひとりぼっちになっちゃったんだ。
ーーーー宇宙の摂理に従い、選ばれし《もの》ーーーー
ーーーーそれが僕の運命の始まりーーーー
ある者が僕を呼ぶんだよ。「こちらに来なさい」
「こっち、こっち、急ぎなさい」
「あなたの順番(your Turn)なのだから」
それからずっーーと、ひとりなんだ。周りには誰も居ないんだ。
ひとりになってどれくらい経(た)つかな?
ここってどこなんだろう?
落とし込まれてしまったよ。
閉じ込められたんだよ。
中に入り込んでから、見ることはできない。
聞くことは、何気に聞こえる。
でもなぜか息苦しいんだな。窮屈(きゅうくつ)なのさ。
宙に浮いている感覚は、ずっと変わっていないのに。
ーーーーやがてそのうちーーーー
ーーーー月が満ちてきました。----
「もうこの場所にも、居られないのか」
「この場所から出なければ」
「もう一刻も早く出なければ」
「まだ浮いている」
「これを突き破らないと、出られない」
「初めて誰かが僕の身体を触って手助けしてくれた」
「えーい、やっ」、「えーい、やっ」、「えーい、やっ」。
ーーーー玉のような子が落ちましたーーーー
ーーーー命の誕生ですーーーー
今から57年前の今日《1961年4月1日》早朝
僕、はこの世に生をうけました。
何回目かの生まれ変わりの、人生の始まりでもありました。
4月1日、土曜日、晴天、大安、早朝、母は産気(さんけ)づいたそうな。
3人目なので不安もなく、産婆さんを呼んで父は出勤しました。
父の遺品の日記帳に、長男の兄の時は立ち会って
事細かく時系列的に、詳しく記載されていたのに
僕の時には、それはなんともあっさりと淡白な内容。
《仕事から帰ったら、男の赤ん坊が眠っていた》。とひと言。
嫡男とそれ以外とではこうも違うものかと改めて痛感する。
今でも忘れない小学校5年生の時、父が関西へ社員旅行。
ひとつ上の兄には、お土産にプラモデルが手渡される。
嬉しそうに両手で持ち上げて、はしゃぐ兄。
みんなと同じまんじゅう一個を、ちびちび時間をかけて
味わっていた弟。次の日、母が僕に言い放った言葉。
「しんちゃん(兄のこと)は、跡取りやから」って。
でも僕そんな小さなことに、腐ったりしなかった。
家に縛られることなく、好きなことを
好きにさせてもらえた。感謝している。
おそらく何回目か前の人生で、一度長男に生まれて
上手く人生を過ごすことができずに、苦労したのだろう。
今度生まれ変われるとしたら、長男を避けたいと願って
神様がそれをかなえてくれた、今回の人生で次男に生まれた僕。
今日は僕の残りの人生において、初日なのです。
何回目かの、生まれ変わりの人生の始まりでした。
生きるために一番大切なもの、赤ん坊を観ていて、
それは《安心感》だと思う。
自分は守られているのだという安心感、
ダメな時は元気が出るまで、ゆっくりしていればいいのだという
《安心感》があれば、多分、
人間は何度でも、いつからでもやり直せる。
《人生、は死ぬまでのまわり道、=道草》でしかないのです。
できる限り様々な道を、ゆったりと味わって楽しみましょう。
今日はここまで。近藤浩二でした。
ではまた。
音声付きの洋楽紹介は、やらないことにしました。
第三者の厳しい目から、ストップがかかったのです。
出来なくなったのです。申し訳ございません。