本日昼食を済ませた後のこと、一息ついていた時、
静々と清流のような緩やかの時間の流れを感じる真昼に、
それは届けられました。若い郵便局員が、
さわやかな笑顔と共に運んでくれました。
名古屋《小さな時計屋さん》からの小包です。開けると名古屋の
風が吹いてきました。(ほんまじゃけんのー)ほほをなでます。
雑多な荷物の中にそれは丁重に収められていました。
少し前に頼んでいた精密機械です。
父の臨終の際に、僕に見つけて欲しいとばかりに、
ベッドの枕元の棚にそれは大切に置かれていました。
いまわの際(きわ)に、取り立てて何かを言うこともなく
信頼している母に、見送られて旅立った父。でもきっと
それは誰かに使い続けて欲しいと望んでいたのだ。
(だから生涯大切に使っていたのだろう。)
遺産のすべてを放棄していた僕は唯一の遺品として
その時まで、大事に使わせて頂こうと心に決めました。
すこぶる使い込んでいたのか、かなりキズが目だっており
汚れていたので、信頼できる時計屋さんにオーバーホール
(全分解清掃修理)に出していたのです。
早速左うでに装着しました。と同時に
「カチッ、チッ、チッ、」その腕時計は職人の純粋な願いが
僕の心臓音に協調するかの如く、時を刻み続けています。
(はめる前から当然動いていました。)今の時代
腕時計を身に着ける必要性は少なくなりました。しかし、
きっとこの時計の役割は、《時間》だけを
計(はか)るのではなくて、僕の今後の人生の
何か大切な《機会》もはかってくれる予感がします。
人生においてそんな重要な機会が訪れるのを
忍耐強く待ちます。
この時計は、その機会を逃さないように間違いなく
僕に図(はか)って、教えてくれるでしょう。
僕のこれからの残りの人生、父と《同行二人》で歩みます。
今日はここまで。近藤浩二でした。
ではまた。