「宝雨経に学ぶ」タグアーカイブ

信ずることは行うこと♡

太陽院院長 近藤  千恵子です(^^)

今日、往診に行かせて頂いた患者さんが尊敬する 曹洞宗長徳寺のご住職酒井大岳先生の書かれた本を読んでみて…と、貸して下さいました。

ひとつは 小冊子で あっという間に読んでしまえる本なので、戻って来て一気に読ませて頂きました。

『宝雨経』という経典に説かれている教えを童話の様に書いたもの…。


【森の中の水】

夏の太陽がじりじりと照りつける野原の一本道を、一人の旅人が重い荷を背負って、西から東のほうへ向かって歩いていました。

のどの渇きと疲れで、旅人は今にも倒れそうに身をかがめ、荒い呼吸をしていました。

すると、東のほうから杖をついた老人が歩いてきました。

行き違おうとしたとき、旅人は思いきって老人に聞いたのです。

「このあたりに、水はありませんか?」

すると老人は、やさしい笑顔でていねいに答えてくれました。

「この道を東のほうへまっすぐに歩いて行ってごらんなさい。道が左右に分かれています。

左のほうへ行ってはなりません。右のほうへ行くのです。

すると青い山が見えて来て、その林の中に清らかな冷たい水が湧いています。その水を飲んで、のどの渇きを癒したらよいでしょう。

わたしは今、その水を飲んで来たところです。冷たくて、おいしい水ですよ。お気をつけて行ってください」

そして、旅人はていねいに礼を言い、老人の言われたとおり、東へ向かって歩いて行き、きれいに澄んだ水を両手にすくって息もつかずにその水を飲み…生まれ変わったような力のよみがえりをおぼえました。


このたとえ話の中には四つの教えがあり…

一つ、夏の野とは、苦しみの多い私たちの人生。

二つ、のどの渇きとは、いっさいの欲望と迷い。

三つ、道とは仏さまの教えのこと。

四つ、水を飲むとは、教えられたとおりに行うということ。

なのだそうです。


そして、「水を飲んでのどの渇きを癒やす」…私たちはこれをあたりまえのことのように思ってしまいがちだけど、

暑さとのどの渇きに苦しんでいた旅人は森の中に水があると聞いただけで、のどの渇きを癒やすことはなく…

この本の中「信ずることは行うこと」なのだと…。

聖書の中でも、イエス様が目の見えない人の目を開くとき、土を唾でこね、盲人の目に塗り…その塗った土を「シロアムの池に行って洗いなさい」と…

イエス様が目に土を塗ったところから、シロアムの池まではかなりの距離があり、盲人がそこまで行くには信ずる心が有るからこそ…

イエス様が奇跡を起こした先には、また奇跡を求め信じる心があること。

私自身、カイロの患者さんに「痛みがあり 患部を触って熱を持ってるようであれば、保冷剤で患部を冷やしてみてください…と。

言うのだけれど…お風呂に浸かって温めると痛みが和らいだから…と。

炎症部分を温めて長びかせたり…、

信じて行うことの難しさもあるのでしょうか。

また、混沌とした今の世に、自分自身の「暑さとのどの渇き」に気付かず・・・そして気付かないから求められなかったり…。

本の中にも、「求める心さえあれば、教えは目の前に音もなく現れてくれるものです」と…。

そして又、「苦しかったら教えを乞う。教えられたらその道をまっすぐに行く」と…。

わたし達は、暑さと渇きに耐えながら、野原を歩く旅人…。そして、水を頂き新しい人生を開く力が得られ…いつでも生まれ変われる旅人なのだと…。

そして、道を教える親切な老人からも、

「左のほうへ行ってはなりません。右のほうへ行くのです」という言葉の中に真の親切さがあるのだと。

人生の中、分かれ道に指しかかった時に、「左に行ってはイケナイ!」というその言葉がお守りの様に分かれ道にさしかかった時に、生きてくる。

そして、「左」というのは、「邪教(よこしまな宗教)のことなのだとか…。

暑さと渇きでふらふらと、歩いていると 「こちらへどうぞ…」などと、とんでもないほうへ行かされる事も…

今度、私も道を尋ねられたとしたら、「真実の道案内」と成りたいもの…

そして、また疲れた時はしっかり、四方を見渡し…一旦立ち止まり一息入れると今回の老人の様に東から歩いて来る人が見えて来るのだと…。

お釈迦様の教え…本当に有り難いモノです(*^^)