意志あるところに道は開く

結婚して8年目の2007年、主人46歳の夏 脳出血にて入院。

左半身に麻痺が残り、入院したその日から始まったリハビリ。

直径5センチほどあった脳内での出血は、歩行はもちろん 幼稚園の子がするような大きなジグソーパズルさえもできない状態。

リハビリの先生は、「もう歩くのはあきらめてた方がいいですね」と。

そんな中、出来る限りリハビリの時間は見に行き声援。

手すりを持って立てただけでも、「ヤッター」
支えてもらいながら一歩また一歩と歩く姿に「凄い!凄い!」

ちょうどスキーの指導員時代の修学旅行生を思い出すほど・・・

関西方面から2泊3日の日程でやってくる高校生。

全くスキーをしたことのない子ばかりが3日間で「やれば出来る!」を感じられる最高のスポーツ。

教える側の勝負は、初日の午前中。

8人~10人くらいの班編成の中、平らなところで歩いてみたり  少し傾斜のあるところで止まる練習してみたり…。

もちろん転ぶ練習も…。

同じ班の中でも、器用に上達していく子と不器用な子。

ここで上手な子ばかり見てると、不器用な子はついていけなくなる。

でも不器用な子ばかり見てても、上手な子はつまらない。

教える側のバランス・・・そして本人のやる氣。

やる氣は面白くないと出てこない。初日は体力勝負。

転んだら楽に立てるように、板を支えて…、ハの字にスキーの板の後ろを広げられない時は、スキー板の前を抑えて感覚を覚えてもらい…。

あと2日半を楽しくするのも、大変にするのも初日のこの半日が左右する。

初日の半日懸命に頑張って、お昼ご飯食べると  午後は初めてのリフト。

ここでもまた器用な子はスッと立って滑り降りる。だから、一番不器用な子と一緒に乗って、腕を通して「セーノ」で立ち上がる。

初めてリフトに乗って1本滑り終えると、もう1本。

そのあいだ、器用に滑り降りる子を待たせないように、転んだ子は懸命に起こして…。

初日の終わりには、不器用な子も少しコツを掴んで ちょっと笑顔。

そして、一晩寝ると翌朝には魔法がかかったようになっている。

昔、氣に入ってよく言ってた言葉に「明日の君は  今日よりうまい!!」

スキーなんてやりたくなかった!って思ってた子も、「修学旅行行って良かった!!」「スキーやれて良かった!!」と思ってもらえたら私の仕事は成功。

やりたくない!こんなはずじゃなかった!!と思う出来事でさえ、やってみれば前に進める。

うちの主人のリハビリの時は、ひとつひとつ頑張ってる姿に
「凄い!凄い!!頑張れ!頑張れ!!」と一番の応援団。

スキーやリハビリ、そしてカイロプラクティックを学んだことで教えられた一人ひとり誰もが持つ∞の可能性。

やれないことなんて何もない。やる氣になるためには応援団も必要な時もある。

「もう歩くことはあきらめて下さい」と言われた言葉は、覆され杖を突きながらだけど歩けてる主人。

周囲がどんなに無理だと言っても、夢を語り 頑張り続けるからこそ見える世界。

そして最初の一歩も、次に続く一歩も、あきらめずやり通すことは、やっぱり大事。

 意志あるところに道は開ける!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

意識は引力

思うこと、やりたいこと、全てが手に入るわけではないけれど 自分自身の意識が引き寄せ…あたりまえでない奇跡がおこる。

目に見える世界と見えない世界。

私自身、引力は強い方だと思う。

「あ~なりたい! こうなりたい!」と思うことの全てではないが、
“神さまに私えこひいきされてるな~”と思えるほど、私自身の生きてきたこの54年間振り返ってみると、私自身以上に神様は私をよく知ってて導いてくれてることを確信する。

私自身の結婚も、そんな私の引き寄せ力が  人生のパートナーまでも引き寄せたんだと。

そして、必ずしも願いが全て成就するわけではなく、そこには神さまの壮大な計画があることも・・・。

1999年4月37歳を半年後に控え結婚。

私自身、結婚するとすぐに子供に恵まれると思っていたけれど、なかなか恵まれなく、また出逢って8ヶ月ほどでの結婚だった事と大阪と愛媛に離れていたことで、結婚生活が始まってお互い知っていくことでも有り、子供が出来ないことがその時は一番いいことだったのだとも思えます。

ただ、3年たっても4年たっても子供が出来ないことで40歳を目前にした2002年産婦人科を受診。

診察の結果、子宮内膜症もあるとのことで 内視鏡による手術。そして排卵誘発剤だけを投与する不妊治療をしたけれど、なかなか出来ず・・・。

それからまた4年程たった2004年44歳になるその年、前にかかった病院とは別の総合病院の女医さんのところへ受診。

「ちょっと遅すぎますよ!!でもアクティブにやってみましょう!」と言うことで、排卵誘発剤と共にその年の2月から人工授精。

私の卵管も主人の精子にも異常なく、卵子も多い時で4~5個出来て、「3つ子以上が出来ても大丈夫ですか?」と言われながら人工授精。

カイロの施術中も患者さんに、私三つ子が出来るかも・・・と話させてもらったら「出来たら手伝いに来るよ~」と、たら話で盛り上がり 楽しく過ごしながらも、生理が始まれば「はい!今回も残念でした~」状態。

全てに「時」があるのか・・・。

その年、2月から10月までの9か月間で6回人工授精。着床することもなく、そして総合病院の中から産婦人科が無くなるということで、女医さんの方から、「ほかの病院を紹介しましょうか?」との問いかけに、

私たち夫婦は、二人だけの生活でも  ふたり仲良く過ごせれば良いよね・・・と不妊治療を終了。

そして、翌年2007年の8月25日夕方、うちの主人が脳出血で入院。

左半身に麻痺が残る状態に・・・。

もしも、前年の不妊治療が成功し、三つ子でも4つ子でも出来ていたなら・・・どうなっていたのか?

この世の中に、「~だったら」と言うことはなく全てが最善。神さまは最善しか与えない。

主人の脳出血での左半身マヒも、私たちの家庭に子供が恵まれなかったことも・・・全て神の恩寵。

私がカイロプラクティックを学ばせて頂いた桑岡カイロプラクティック研究所の桑岡会長がいつも「私は、タイとタラは食べません」とよく言われてました。

~しタイ!     ~だっタラ!と言う人の中に成功は無いですと。

私の人生、自分自身の引力と天からの計らいとが調和し

毎時、毎分、毎秒・・・「時」の流れの中で奇跡が起こっている。

今日はクリスマス。

2016年前に地上からの願いと天上からの救いによって、人として生まれた神の子イエス。

聖書は読んだことのない人が多い日本でも、自身のお父さん、お母さん、お爺ちゃん、お婆ちゃんの誕生日や命日は忘れても 世界中でケーキやごちそうを囲み乾杯する今日。

きっと、こっちの世界ではキリストを知ることもなく 流れの中、ケーキやごちそうを食べ乾杯しお祝いしている姿を  神さまは笑い地球に住む全ての人に最高の愛の光を与え続けてくれてると・・・

聖なる日の今日改めて感じ、感謝いっぱいです。

クリスマスイヴ

2016年前、12月25日イスラエルのベツレヘムという町に生まれたひとりの子 ヨシュア ベン ヨセフ・・・のちのキリストイエス。

実は、催眠状態で色々な問いかけに  的確に答えたという今から71年程前に亡くなったエドガー・ケイシーによると、キリスト・イエスの誕生は3月18日前後春分の頃だとか・・・。

道理で、我が家のクリスマスローズもその頃にちょうど花を咲かせるので、きっとそのころ 救い主イエスは生まれたのだと思いますが、

そういうことよりも、なぜイエスは生まれて来たのか?

聖書の中の初めての人、アダムとイブ。

天上の楽園「エデンの園」に住むふたりへ言われた神さまとの約束事はたったひとつ。

園の中央にある「善悪を知る木」その木の実は食べてはいけないと・・・。

しかし、そのたったひとつの約束事でさえ、蛇の誘惑によって破ってしまった、アダムとイブ。

その上、神さまに知られないようにと隠れて見たり、誰かのせいにしてみたりと、「善悪を知る木」を食べたことで、神々の住む天上の楽園「エデンの園」では住むことを許されず追放。

エデンの園が神の支配する国であれば、この地上は悪魔の支配する国?

蛇だけでなく様々な誘惑溢れる地上世界。

実際、分厚い旧約聖書の中に登場する人物の中でも、この地上で神と共に過ごせた人は数えられるほど。

地上世界が神から離れ、氾濫し神様がこの地上世界を創ったことを悔い、全てのものを洗い流してしまいたい!と思い実行された「ノアの方舟」のノアや、

ソドムの町に住んでいたロトの家族、息子を燔祭に捧げるほど神の声に忠実な人類の父アブラハム…などなど。

そして、エジプトから約束の地カナンを目指しイスラエルの民を連れ40年荒野を歩いたモーゼ。

このモーゼが神さまから受けた10の約束事。誰もが耳にしたことのある「モーゼの十戒」

1.あなたは、わたしのほかに、何ものをも神としてはならない。
 2.あなたは、自分のために、刻んだ像を作ってはならない。
 3.あなたは、あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
 4.安息日を覚えて、これを聖とせよ。
 5.あなたの父と母を敬え。
 6.あなたは、殺してはならない。
 7.あなたは、姦淫してはならない。
 8.あなたは、盗んではならない。
 9.あなたは、隣人について、偽証してはならない。
10.あなたは、隣人の家をむさぼってはならない。

そして、10個の約束事を守って過ごしてきたユダヤの民と、それを裁く律法学者。

これがだめならこれもダメ。こっちも違法になるよ!!と年月を経て増えていく律法。

最後には細かく分けられ10個の戒律は「613」にまで増え、ユダヤの民は救世主を求めた。

「神様!神さま!どうか我々に救世主を授けて下さい」と・・・。

そして預言者(神の言葉を預かる者)を通して告げられた言葉は

「救世主は来るよ!こういう形で生まれ、こういう形で人々に教えを伝え、こういう形で死んでいくよ。そしてこういう形で復活するとも・・・」

そして、その予言どおりに今から2016年前に処女マリアから生まれたひとりの男の子

神のひとり子として、この世に生まれ30歳からたった3年間、神さまだったらこんな時はこうするんだよ。神とはこういうもんなんだよ。神と共に生きる生き方を伝えた救い主イエス。

善悪を知る木の実を食べたことで、神さまから離れてしまったそれぞれが  また神と共に歩む「エデンの園」に戻れるように・・・。

そして、今日は2016年前 その救い主が生まれた前夜。  

主を待ちわび 共に賛美してみませんか♪

讃美歌「もろびとこぞりて」 

もろびとこぞりて 迎えまつれ
久しく待ちにし
主は来ませり 主は来ませり
主は 主は 来ませり

悪魔のひとやを 打ち砕きて
とりこをはなつと
主は来ませり 主は来ませり
主は 主は 主は来ませり

この世の闇路(やみじ)を 照らしたもう
たえなる光の
主は来ませり 主は来ませり
主は 主は 来ませり

しぼめる心の 花を咲かせ
恵みのつゆおく
主は来ませり 主は来ませり
主は 主は 来ませり

平和の君なる 御子をむかえ
救いの主(ぬし)とぞ
ほめたたえよ ほめたたえよ
ほめ ほめたたえよ


 

 

 

天皇の国、日本

日本の神話、古事記に記された天皇。

今の今上天皇は125代。

初代神武天皇が建国を宣言され、2676年続く皇室。

天上の神々の中で初めての夫婦となった、イザナギとイザナミが  コ~ロ  コ~ロ  と、長い矛で混沌とした海を回して落ちた雫から、

淡路島、四国、隠岐の島、九州、壱岐の島、対馬、佐渡島、本州・・・と続々と国が生まれ、

その後、風の神、石の神、海の神、水の神、火の神等々を生み・・・。

火の神を生んだ時に、大切な所をやけどし 黄泉の国へ逝ってしまったイザナミ。

ずっと一緒にいたかった嫁を亡くし、寂しくて寂しくて黄泉の国に逢いに行ったイザナギ。

せっかく会いに行ったものの、黄泉の国の食べ物をもう食べてしまい、もう元の世界には戻れないイザナミ。

しかしせっかく来てくれたイザナギの事を思い、「ちょっと黄泉の国から戻ること出来るかきいて来るから、待っててね。でも中はぜったい覗かないでよ!」と。

そういわれて、待ってたものの  待ち遠しくて…待ち遠しくて…そっと覗いてしまい、そこで見たものは…

この世の者とは思えないほど醜い姿となったイザナミ。

覗いてはダメ!と言われながら覗いてしまい、あの醜い姿を見てしまったイザナギは、

「見たな~」と言うことでイザナミに追いかけられて・・・。

追われ、途中桃を投げつけながらも、ようよう逃げ切り・・・水辺へ。
※そういうことで桃が邪氣除けの様で。

たどり着いた川で、「おおおおお~醜いものを見てしまった~」と、禊。

イザナギが、左の目を洗うと「天照大神」がうまれ

右の目を洗うと「月読みの命」、そして鼻を洗うと「スサノオノミコト」とイザナギが禊をしたことで生まれた3人の神様。

しばらくの間は、スサノオの命の子孫が大社大和の国を治めていたが、何せ鼻から生まれた者で鼻息荒く、天上界から見ていた天照大神さま。

自身の子孫がこの国を治めた方が良いと、子の時代にはまだ時に至らず、

その孫ニニギノミコトが九州の高千穂に手には稲、そして 鏡・勾玉・刀と三種の神器を持って「天孫降臨」

地上に降りたニニギノミコトは、出会った美しい「コノハナサクヤヒメ」に一目ぼれ。

お父さんである山の神さまに「娘さんと結婚させて下さい」と・・・。

「良いですよ!」ってことで、喜んだものの  山の神さまにもう一人いた娘の「岩長姫」も一緒に嫁入り。

「コノハナサクヤヒメ」と「イワナガヒメ」名前からも顔が想像できそうなほど・・・。

もうしわけないけれど、「イワナガヒメ」は、山の神の元へ追い返され。
娘を返され怒った山の神さま。

神さまには、寿命が無いはずなのに、この「岩長姫」が父の元に返された所から寿命が決められたそうで・・・。

ここまで、読んでも「神さまって人間的!!」っていう感じ。

その後、コノハナサクヤヒメは妊娠。本当にわたしの子供か?と疑うニニギノミコトに、出産の際 コノハナサクヤヒメは 産屋に火を放ち、「あなたの子であれば必ず生き残るはず…」と。

そこで生まれたのが通称「山幸彦」、「海幸彦」ともうひとり3人の子供。

この山幸彦がお兄ちゃんの海幸彦とお互いの仕事道具を交換。
その時、海幸彦の大切な釣り針を無くしてしまったことで、海の世界へ。

そして、山幸彦が海の神さまの娘と結婚して出来た4人の子供の中の一人が日本の建国を宣言し最初の天皇となった神武天皇。

神話から現実の世界へと広がる日本の神話「古事記」

そして、万世一系男子で繋がるこの国での天皇陛下のお仕事は、この国の平安と国民の幸せを祈る事。

2014年5月、4日間の勤労奉仕に参加させて頂いた際  皇居で天皇皇后両陛下のご会釈を賜った際、「あ~有り難いな~」と全身で感じた慈しみと愛の波動。

魂の底からの感謝と本日83歳のお誕生日を心よりお祝い申し上げます。

側近が語った今上陛下の素顔

 

 

 

 

お~!私の骨の骨、肉の肉…

スキーやケガ、カイロの仕事と   私の思いだけでなく目の前に訪れてきた数々の出来事。

そして、1998年(平成10年)8月13日、またひとつ運命の人と出会うことに・・・。

20代まだOL時代から、スキー学校でのインストラクター時代にも 20回以上”お見合い”させてもらっていながらも、「この人に決めた!!」っていう人に巡り会えず・・・。

そんな中、1998年 8月隣の家の人を通して“お見合い話”が・・・。

実家は西条で大阪で働いてる人…って言うだけで、写真も何もない状態であった8月13日。

車を掃除しガソリン入れて家に戻ってみると、もうお父さんと一緒に我が家に来ており、35歳の私はドスドスドスっていう感じで 家に戻り慌てて着替えて・・・。

後で聞いたところ、ピアノがあり、スキーのトロフィーが置いてあった応接間で待ってる間、同じように写真も見てなかったから、妄想は∞に広がっていたとか・・・。

で、顏合わせした後、私の運転でドライブ。

ちょうど私の2つ上の姉と同級生。中学、高校と同じクラスにもなっていたらしく、共通の話題も多く、

そして、私の理想の相手の条件が「海外で生活したことのある人」

なんと、29歳で一度会社を辞めて、アメリカ・マサチューセッツ州の小学校の先生のお家で一年間ホームステイ。

その町の小学校で日本の文化…お習字とか 正座とか 玉子焼きやおにぎり等々・・・小学生に日本語で名前を書いてあげたりした経験をワクワク聞かせてもらった私がその時思ったのが

「うわっ~  こんないい人が残ってたんだ!!」と・・・

旧約聖書創世記の中、初めに神様は天と地、光と闇、陸と海、海に住む魚、野に住む生き物、この世の全てのものを創造し、そして自分に似せて創られた男アダム。

そして、「人はひとりでいるのは良くない…」とアダムを深く眠らせ、アバラの骨を取って創られた女イブ。

そして神様がアダムの為に創ったその女イブを見た瞬間言ったアダムの言葉「お~私の骨の骨、肉の肉」と最高の賛美の言葉。

日の本…日本でいう、「お~私の太陽!!」って感じでしょうか。

その最高の賛美の言葉を放ったアダムのように、私自身この運命の出会いに「お~私の骨の骨、肉の肉」と言う言葉がピッタリかと・・・。

そんなこんなで、36歳を間近にした1998年8月神様が今後人生を共にするパートナーと出会わせて頂きました。

その後、大阪と愛媛の遠距離ながら、月1度か2度のデイト そしておかげさまで1999年2月結納、4月30日結婚へと。

結婚式に書いてもらった私の後輩でもあり、結婚生活は先輩である和美ちゃんのメッセージに「結婚は忍耐です」と・・・。

そのことの意味は、結婚17年を超えた今…本当に大きく頷けるメッセージ。

「私の骨の骨、肉の肉」と言って、一緒になったアダムとイブも、神さまからのたった一つの約束事

「エデンの園の真ん中にある善悪を知る木、この実だけは食べてはだめ!」

と言われながらも、「この実を食べると神様と同じように賢く成れるよ」という蛇の誘惑に負けたイブ。

そしてまた、イブの誘惑に負けたアダム。

全て御見通しの神様から、「アダムよ!イブよ!」と呼びかけられた時、隠れたふたり。

そして、「なぜ、食べた?」の問いに

神さまにむかって、アダムがなんとなんと                   「あなたが創ったこの女が、私に食べろと言った!!」と・・・。

そしてイブもまた「この蛇が・・・」と誰かのせいに・・・。

私自身もまた、このアダムやイブのように  「私の骨の骨、肉の肉!」「こんなにいい人が残ってたんだ!!」と思った思いとは裏腹に、

「なんでこの人と一緒になったんだろう???」とも思う時も…。

17年以上共に過ごし、子供も出来なかったせいか  お互いが子供の様な感じでもあり 日々修行・・・道場。

日本創造の神さま、イザナギ・イザナミの命もまた 黄泉の国に還ったイザナミに会いに行った時にも夫婦喧嘩。

神さまが逢わせてくれた今回の人生を共に歩いていく最高のパートナーと

健やかなるときも
病めるときも
喜びのときも
悲しみのときも
富めるときも
貧しいときも

これを愛し
これを敬い
これを慰め
これを助け
その命ある限り

真心を尽くすことを誓います♡

そして、共に  エデンの園に戻れるように・・・。

 

 

 

求めよ、さらば与えられん!

聖書の中の一説

求めよ、そうすれば、与えられるであろう。

捜せ、そうすれば、見いだすであろう。

門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。

すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。

私の魂が本当の事を求め始めたのは、きっと父が脳出血で倒れ、右半身に麻痺がおこったあの時からだったのかもしれない。

私自身、3人姉妹の末っ子で父は私をいちばん色々な所へ連れて行ってくれました。そして母より優しい父が大好きでした。

母はいつも「父ちゃんは千恵子に甘いんだから・・・」と言ってたくらい。

国鉄に勤務していた父は、若いころ列車を連結する際の事故で、左足の膝下5センチくらい残して挟まれ、切断。

私が物心ついた時も、父は隠すことなく川や温泉でも 義足を外し泳いだり温泉につかったり、また西日本最高峰の石鎚山にも私が幼稚園くらいのころ登り山頂で撮った写真があるほど・・・。

義足であることの弱音など一度も聞いたことがありません。

昭和3年3月3日生まれの父。

そんな父が2002年2月脳出血で入院。1ヶ月以上ものあいだ意識も戻らず・・・そして、意識が戻ったものの  脳の左側に出血していたため、右半身が麻痺。

神さま、神さま、、、あなたは、なぜ一生懸命仕事もし、3人の子供も育て、まじめに生きてきた父を こんな風にしたんですか?

なんで、なんで、、本当に、神さま ひどすぎます。

と、両手両足のうち  動かせるのは左手と膝下から切断された左足だけの父をみてこの世の不条理を痛切に感じ憤っていました。

そんな時、ちょうどカイロを受けに来られた患者さんが、「先祖よ。先祖。先祖供養をするといいよ。」っていうことを聞き、

私がお経をあげることで、父が元気になるなら、いくらでもお経くらいあげられる!!と、その日から朝夕ろうそくと線香を立て、法華経を唱えました。

姉たちにも、お経をあげるともっと回復するから・・・と本当に父の回復だけを信じ唱えさせて頂きました。

新年年明けから立春までは、「南無妙法蓮華経…南無妙法蓮華経…」と朝5時に起き、水をかぶり寒行もさせて頂きました。

ただ、やはり新興宗教…

真剣に祈り供養し仲間も増やして参りましたが、「~せねばならない」と思うようなことや ちょうど何か違和感を感じ始めた頃

カイロで往診に行った患者さんより旦那さんが大腸がんにかかった時の話を聞かせてもらい、その話に背中を押されるように、新興宗教からは脱会。

そのお話と言うのが、

ご主人さんが病院で「大腸に癌が出来てますが、今なら手術で取ることも出来ますよ。」とのお医者さまの言葉に

「わしは、手術はせん!」と先生の前で一言。

「あっそう…ええよ。あんたが死んだら私も一緒に死ぬから」と先生の前で奥さんも宣言。

そうすると、旦那さんが「お前は死んだらいかん!お前が死ぬんだったら、わしは手術する!」ということで手術に!

この奥さんのええよ!と受け止める凄さにもビックリでしたが、

その後、手術を終え  入院中の抗がん剤投与の際、看護師さんより
「抗がん剤の副作用で目が見えにくくなって来るかも知れないですが何か異常があったらすぐ言ってくださいね」と…。

そして、その看護師さんの副作用の言葉を聞いたその時言った奥さんの言葉が「深いぃ~」

「あんたの目が見えんなったら、私の片目あげるけんね・・・」と。

私がこの新興宗教に入り、唱えてた法華経。

この法華経を読んで、書いたと言われる宮澤賢治の「雨ニモマケズ」

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

南無無辺行菩薩
南無上行菩薩
南無多宝如来
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼仏
南無浄行菩薩
南無安立行菩薩

何の宗教も知らないこの患者さんの言葉に、法華経の神髄を感じ、いくらお経を唱えようとも、実際行っていかないと意味がないな~と、目が開き新興宗教からちょうどまる1年たった2003年5月脱会させてもらいました。

ただ1年間真剣に祈り唱えてきたこと、夏も冬も1年間 水を浴びた修行の日々は私にとっては見えない世界とつながる始まりの尊い一歩であった様にも思えます。

大好きな父が倒れたからこそ、求めた本当のこと。

ただ一人の者を目覚めさせる為に、愛する我が子に重荷を負わせる主の愛。

求めよさらば与えられん!

探せよさらば見つからん!

叩けよさらば開かれん!

求め、探し、動いたその時また違う世界の扉が開いて来るのだと・・・。

あっ!!私の大好きな父は歩くことは出来ないけれど、2017年年が明けた3月3日89歳になります(^^)

 

生まれる前から

この世に生まれる前から、育み育ててくれる 母親という存在。

2013年12月19日、夕方5時すぎ  携帯を別の部屋に置いたまま施術中、何度も電話がかかり、最後には主人の携帯に姉から電話が入り、

「とうとうその時が来てしまったのか?」と、車で5分もかからない入院先の病院へ。

駆けつけた時、ちょうど一番上の姉がエレベーターから出てきて母の死を告げてくれ、最後の着替えを取りに家に戻り 私は病室へ。

亡くなってどのくらい時間が経ったのかはわからなかったけれど、

「人は臨終のあとも   しばらくは聞こえてる」と聞いてたので、
耳元で「母ちゃん…ありがとう!楽になったね!!ありがとう…」と言わせてもらいました。

実は亡くなる1年前の12月初め、低酸素・低血圧状態が続いてるという連絡が入り、

その日から毎日、脊柱と両足にオイルマッサージそして頭骸と顔面の骨格矯正。

それから1年は熱を出すこともなく、看護士さんもまだもう少しは持ってくれると思ってたと言われるほど・・・。

実は、私  毎日母のケアしながら  耳元で「母ちゃん!しんどいけど   もうちょっと私に甘えさせてね」「ごめんね」「ごめんね」「もうちょっとこの身体も触らせてね!!」・・・と。

末っ子の私は、一番遅くまでおっぱいをもらい、甘えられる特権を得てた様で、

好きなことや思うことをさせてもらえなかった姉たちと比べると ホント好きなことしかしていない私は、放蕩娘。

35歳くらいのころ、自己啓発セミナーに参加した時 何が怖いですか?という質問に「両親の死」と答えてたほどの私。

母の死を迎えるまでちょうど1年間。

いつかは触れなくなる その肉体をいっぱい触らせてもらい、帰り際にはほっぺにチュをして帰ってたほど…。

もう数年前から  寝返りも話すことも出来ない母に思い残すことの無いようにと…。

本当にその1年があったからこそ、死を迎えたその時の心の穏やかさは他の人からみると、きっとなんて冷静って思われそうなほど穏やかで…。

そしてもっともっと思えば、亡くなった日が19日。
ちょうどその前、12月16日~17日と伊勢の神宮の月次祭に合わせて伊勢の修養団で行われる「神話を体感する会」に仲間と参加しており

伊勢に行く前の日15日も病院に寄ることが出来ず、戻ってきた18日は姉から「今日は私が行ったから行かなくていいよ!」と連絡が入り、そして19日昼間も病院の前を通った時、「いつも通り夜行けばいっか!!」とそんな感じで、

毎日「私の為にがんばってよ!」「もうちょっと甘えさせてね」と言ってた私が、5日間行けず・・・。

後でふと思ったのは、
「きっと千恵子が来るとまた頑張れって言うし…。来ないうちに逝かせてもらお!!」「さいなら~」と…

私の携帯が氣づかないところに置いてたり、病室に5日間も行けなかったことも母を思う天の計らい。

母親は、我が子の為に命削っても守り愛してくれる。

私の母、厳しい所もいっぱいあったけれど、本当に優しくて結局私の耳元でささやく「頑張ってね」の言葉に頑張り続けてくれていたんだと…。

私がこの世に生まれる時も、お腹にいる十月十日の間もずっとずっと、護り続けてくれてた母。

きっと天に還っても  見守ってくれてるようで…。

昨日19日命日、お墓に行ったとき、うっかりライターを忘れてしまっており…どうしよう!!って思いながら、

ちょうどその日1段上で工事をしてた青年に「ライター誰かもってたら貸してもらいたいんですが…」と。

その青年、何も言わず降りてきてくれ、すっとライターを渡してくれた時は、あーこの青年神様が使わせてくれたな~と思ったくらい。

お盆やお彼岸でもない滅多に人に会うこともない平日。あの時間に工事してたのも天の計らい。

ろうそくとお線香に火を点すと、火は一連の出来事を喜ぶようにどんどん大きくなり 「私は元氣でやってるよ」「ありがとう」「いつも見てるし守ってるからね。」「大丈夫だよ」と言ってくれてるようで 涙溢れスーっと母と一体になった感じでした。

52歳でパーキンソン病と診断され、すぐに悪くはならないものの  筋肉の硬縮が起これば左手が震え。

そんな病の中でも母は、私が勝手氣ままにスキーをしている間も 娘の身体を案じ、嫁に行かない娘をどうにか行かせられないものかと方々に釣書を配り・・・。

今思えば、本当に親不孝の放蕩娘。

今、私が54歳。母が病を持って生きた52歳から80歳までの28年間。
母のやりたかったことも一手に引き受けて生きていこうと思った4回目の命日。

母の病室に行ったとき、CDのスイッチをオンにし、一番初めにかかるこの曲をきっと脳裏に焼き付けて母は天に還っていったのだと思う

思い出の讃美歌「主よみもとに近づかん」

是非聴いてもらえると嬉しいです。

手に職!

1988年26歳の冬からインストラクターになり、冬はスキー 夏はアルバイトという生活が続いた1995年33歳になる年の春 右膝の前十字靭帯断裂。

スキーインストラクター事態、一年中出来る仕事でもなく、そんなだから宿でアルバイトさせてもらったり、スキーショップで店員さんさせてもらえたり…と、花嫁修業っていうより人生修行をさせてもらった7年。

1996年34歳になる年の春、再建手術はしたものの  その年は電話帳の片っ端から電話をかけて「水フィルターの掃除機」の会社のアポ取りの仕事。

この仕事もいい経験でした。いきなり電話がかかって来て、「水フィルターの掃除機ご存じご存知ですか?」と話し始めるんですから、きっと電話の向こうでは いい迷惑だったかも…。

10件かけて1件くらい話を聞いてくれると良いくらいの確立。

ある意味、凄い社会勉強になりました。その時のアルバイト仲間とは1時間に毎回15分づつある休憩で仕事のストレス解消。

そんな生活の中、手術はしたものの まだたまに膝に水が溜まり痛みがあるところで紹介されたカイロプラクティック。

「膝に水が溜まるのは、関節のズレから生じる摩擦での炎症を冷ますために出てくるもの…。関節を整えることで、少しづつ水は身体に吸収されるが、多い場合は一端整形外科で水を抜いてもらったうえで 関節を整えたほうが良い」と・・・。

んんん~なるほど なるほど…。

単純だけど、了解できる説明に 安心して施術してもらい、数回通ったある日  「カイロプラクティックを勉強してみないか?」と。

実は、まだOL時代 ひざの靭帯を伸ばしたことがあり。その時通ったのもカイロプラクティック。

ただその時の施術院は、毎日通うようなところで  しかも保険が利かずいつもたくさんの患者さんで溢れてて・・・。
カイロって人助けだし、儲かるんだな~って思ってたくらい。

でも実際自分自身が 施術する側になるなんて思ってもおらず・・・

しかし身体の奥深い所から 求め続けた「手に職!!」

言葉通り、カイロはギリシャ語で「手」。 プラクティックは「技法」

あの日、ケガをしたことから始まったような世界。

人生は、本当にわからないから…面白い。

そして、こうして満月の夜から真面目に書き始めたブログ、

改めて見直し出来る「今」に感謝。

先ずは、毎日書き続けることが目標!!

 希望と愛を感じてもらえますように・・・。

 

 

 

 

神さまのいたずら

スキーが好きで好きで大好きで、朝から晩まで もっともっと…と滑り続けた青春時代。

そんな私を知ってか知らずか、1991年に初めて愛媛代表として出場した八方尾根スキー場での全日本スキー技術戦。

実はその大会がどんなものかも知らず、四国大会→西日本大会と出場し、愛媛ではまだ誰も出たことがなかった全日本技術戦。

その大会の凄さもわからぬまま、出場。

そこでのウェーデルンとまだ読んでた頃の競技。今でいう急斜面での小回りターン。

いつもの年よりも緩いと言われる名木山のこぶ斜面。

ゼッケンを付け、スタート地点に立ったけれども どこをどう滑れば良いのか全く分からぬまま顔から火が出そうなくらい恥ずかしい滑りでゴール…そして涙。

今、思い出しても あの日のあの場面は私の人生最大のピンチだった様な・・・いやいや幼稚園の頃、練習もせずに 楽譜なしでみんなの前に出さされ 間違いながら弾いたあのピアノの発表会の時と同じ。

恥ずかしくて恥ずかしくて穴が有ったら入りたい様な出来事。

ピアノと大きく違うのは、スキーは私が選んだ道だから…。

このツラく 恥ずかしい思いをしたことが また私の人生の転機ともなり、1991年の志賀高原でのスキー学校が閉校後 春にスキー場がオープンするという山形の月山スキー場へ向かい 全く初めて訪れた月山でいきなり人生初の居候生活もスタート。

月山へは、1991年から1995年まで もう今は天に還ってしまったけれど、当時70歳を過ぎたお爺ちゃんとお婆ちゃんの経営する“ロッヂかしわや”で初めての年は居候。

翌年からは春ゴールデンウェークの前から雪が溶ける6月下旬ころまで、平日2~3時間アルバイトの仲間と交代に滑りに行かせてもらって、あの苦い思い出のこぶ斜面の練習。

お爺ちゃんとお婆ちゃんの経営する「かしわや」に巡り会えたからこそ5年間も月山に行けたんだと、やはりあの日かしわやの扉を開いて良かったと、今更ながら感謝。

おかげさまで、1995年に出場した全日本スキー技術戦 不整地小回りターンでは、「雪とお友達」っていう感じで月山の宿のお客さんが、ラッパ鳴らしてくれての応援も入り、予選通過は到底出来ないものの   目の前に次々と現れるこぶ斜面を先取り。気持ちよ~く軽快に滑らせて頂きました。

ところが、いつもの年のように春 月山でアルバイトしながら滑ってた所、転んでもなく逆に おっ!いい感じ…いい感じ!!って滑った直後、膝がガクガクとなり、結果 前十字靭帯断裂(>_<)

しかも、その頃なんの医学的知識もない私。いつもかかってた鶴岡にある整体の先生の所へ。

そうしたら、先生曰く「後ろ向きに歩いて登るといいよ」…と。

数日たって腫れも引いたので、後ろ向きに歩いて、まだ滑りに行ってたんだから本当にバカそのもの。

で、夏 地元に戻り、運動具屋さんでアルバイトしてた時ずっと立っていたり、重いものを持った時は すぐに膝が腫れたり痛くなったり…。

お客さんにどこかいい整体の先生いないですか?ってまだ聞いてたくらい、私自身 靭帯が切れてるとも思っていなくて…トホホ。

そして、整体ではないけどいい整形外科があるよ!っていうことで、あのけがから3~4か月くらい経って整形外科に!!

整形外科的テストの結果、切れてる可能性が高いからと 大きい病院へ。そして、内視鏡手術。

ちょうど執刀医の先生が、「自分の体の中なんて、めったに見れないから目を開けて見れたら見てて」と言うので、ずっと内視鏡で映し出される画像を見させてもらい、半月板のササクレだった部分や、ほぼ全滅してしまってる前十字靭帯もこの目で確認。

その場で再建手術は無理なので、靭帯切れたまま1996年はシーズンイン。

装具を装着してたものの、今思えば 若かったし、バカだったな~と。もっと自分自身の身体大事にしてあげてれば良かったと、深く反省。

1996年春になると同時に、スキー学校の仲間が教えてくれた横浜にある「港湾病院」で再建手術。

屋上に上がると、ランドマークが良く見え、勝手に「ホテル港湾」と言いながら楽しく入院生活を過ごさせてもらった次第。

前の会社の東京や千葉に住む同期の仲間や、横浜に住むスキー学校の仲間にも、「今横浜で入院中。遊びに来て~」と…。

横須賀の友達の所へは、外泊もらって松葉づえつきながら泊まりに行ったことも…。

このケガをしたことで、また今の仕事カイロプラクティックにも出会えたようなものだから、まさに「ケガの功名」

神さまは 本当に いたずらがお好き。

 

 

般若心経

今から3年前の2013年12月、母が天に還りました。

今年も19日まで、あと2日。 4回目の命日です。

今日は、3年前 母が亡くなり、実家に戻ってお経をあげていた時 私がふと感じたことを少し…書いてみようかと…。

弘法大師空海さんの故郷四国は、遍路88か所のお寺はもちろん、真言宗のお寺が多く いろんな形で「般若心経」を耳にすることもありお経は凄く身近なものでもあります。

「般若心経」
[仏説]摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五
蘊皆空度一切苦厄舎利子色不異空空不
異色色即是空空即是色受想行識亦復如
是舎利子是諸法空相不生不滅不垢不浄
不増不減是故空中無色無受想行識無眼
耳鼻舌身意無色声香味触法無眼界乃至
無意識界無無明亦無無明尽乃至無老死
亦無老死尽無苦集滅道無智亦無得以無
所得故菩提薩捶依般若波羅蜜多故心無
罫礙無罫礙故無有恐怖遠離一切顛倒夢
想究竟涅槃三世諸仏依般若波羅蜜多故
得阿耨多羅三貌三菩提故知般若波羅蜜
多是大神呪是大明呪是無上呪是無等等
呪能除一切苦真実不虚故説般若波羅蜜
多呪即説呪曰
羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶
般若心経

そして、私が幼いころから、母はよく般若心経を唱えてました。

そして思ったのが、人はご先祖様や身近な誰かの為にお経を唱えて来たつもりだけれど、一番そのお経を聴いてるのが 自分自身の肉体の細胞そして、自身の魂。

今誰かの為に唱えているお経って…自身が天に還る時の為のものかもと。

そう思うと、母はスーッと天に戻って逝ったように思えたくらい。

自らの魂の修行は自らが行い、そして何億年という魂の旅路の中で様々な肉体をまとい 修行していくとしたならば 善をしたことも、悪をしたことも全て自身の元に戻ってくる…まさに「情けは人の為ならず」

  お経を唱えることも人の為ならず…って感じでしょうか?

そして、最近知ったのが「般若心経」の中の最後

羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶  般若心経

それ行け それ行け 動いていけよ!!という意味でもあるそうで、

聖書の中でも動くことが テーマでもあるそうで…。

現に弘法大師様が持ち帰った「真言密教」の元をただせば、聖書に繋がるとも言われてる様だし…。

そして今回、般若心経の訳を探していた所、こんなに若者風の訳があることを知り 貼り付けてみました。  ラップ調でどうぞ…。

現代語訳「般若心経」
超スゲェ楽になれる方法を知りたいか?
誰でも幸せに生きる方法のヒントだ
もっと力を抜いて楽になるんだ。
苦しみも辛さも全てはいい加減な幻さ、安心しろよ。
この世は空しいモンだ、
痛みも悲しみも最初から空っぽなのさ。
この世は変わり行くモンだ。
苦を楽に変える事だって出来る。
汚れることもありゃ背負い込む事だってある
だから抱え込んだモンを捨てちまう事も出来るはずだ。

この世がどれだけいい加減か分ったか?
苦しみとか病とか、そんなモンにこだわるなよ。

見えてるものにこだわるな。
聞こえるものにしがみつくな。

味や香りなんて人それぞれだろ?
何のアテにもなりゃしない。

揺らぐ心にこだわっちゃダメさ。
それが『無』ってやつさ。
生きてりゃ色々あるさ。
辛いモノを見ないようにするのは難しい。
でも、そんなもんその場に置いていけよ。

先の事は誰にも見えねぇ。
無理して照らそうとしなくていいのさ。
見えない事を愉しめばいいだろ。
それが生きてる実感ってヤツなんだよ。
正しく生きるのは確かに難しいかもな。
でも、明るく生きるのは誰にだって出来るんだよ。

菩薩として生きるコツがあるんだ、苦しんで生きる必要なんてねえよ。
愉しんで生きる菩薩になれよ。
全く恐れを知らなくなったらロクな事にならねえけどな
適度な恐怖だって生きていくのに役立つモンさ。

勘違いするなよ。
非情になれって言ってるんじゃねえ。
夢や空想や慈悲の心を忘れるな、
それができりゃ涅槃はどこにだってある。

生き方は何も変わらねえ、ただ受け止め方が変わるのさ。
心の余裕を持てば誰でもブッダになれるんだぜ。

この般若を覚えとけ。短い言葉だ。意味なんて知らなくていい、細けぇことはいいんだよ。
苦しみが小さくなったらそれで上等だろ。嘘もデタラメも全て認めちまえば苦しみは無くなる、そういうモンなのさ。
今までの前置きは全部忘れても良いぜ。
でも、これだけは覚えとけ。気が向いたら呟いてみろ。
心の中で唱えるだけでもいいんだぜ。いいか、耳かっぽじってよく聞けよ
『唱えよ、心は消え、魂は静まり、全ては此処にあり、全てを越えたものなり。』
  『悟りはその時叶うだろう。全てはこの真言に成就する。』心配すんな。大丈夫だ。

般若心経=「大乗仏教の空・般若思想を説いた経典」          (別名=般若心経ロック)  tam3さんより抜粋

宗教と信仰は全く違うものであり、

今、情報過多の時代

ぶれずに何か大いなる

エネルギーの存在を知り

信じて仰ぐ信仰こそ 

本当に大切な氣がします。

 

 

最高の笑顔はすべての健康から