「家族」カテゴリーアーカイブ

サポート

数年前から、ファミリーサポートという 市の子育て支援のひとつで、子育て中の家庭のサポーターをさせてもらってます。

市報でみつけた「子育て中の家庭のサポート勉強会」

私のこの両手で何が出来るの?…とJupiterの歌詞ではないけれど

「サポート」…支えること、支援すること、応援すること…。

もう6年程前に初めて受講させて頂き、色々な形でさせてもらっているサポート。

今日、お母さんの仕事の都合で時々1時間程 預からせてもらう

「さなちゃん」

10月にサポートして以来 4か月ぶりに会った1歳1ヶ月のさなちゃんは、我が家に天使が訪れたようにパーッと光を灯してくれました。

笑って、食べて…もちろん泣いても かわいい~。

あっという間の1時間。

また来てね~と見送り、次に会う時には もう歩き始めてるのかな?

そして、今日は夕方もピアノ教室へ連れて行くサポート。

たまたま 太陽院に来てた患者さんの小学1年の長女ちゃん。

お母さんも知ってるから また楽しい。

なかなか子供に恵まれなかったお母さんのお腹に宿ったひとつの命。

お習字とピアノ教室へ送っていく間だけの サポートだけど色々おしゃべりしてくれるのが…楽しい。

お習字の教室に行く時には、洋服を車の中で汚してもいい服に着替えるんだけど、

移動中交通整備の男の人やすれ違う男性をみると「あっ!…見ないでよエッチ!!」・・・と身体を隠す小学1年生。

「お父さんとはお風呂に入る?」と聞くと、「うん!入るよ」

家族4人、お父さんとお母さん、妹も一緒に入るよ…と。

人は裸で生まれ、衣類を纏って生活する。

今朝のさなちゃんも、心成しか離乳食を食べる時、口の開け方が主人が食べさせる方が おちょぼ口になった氣がする(笑)

子供が、むかし銭湯で 女の子はお父さんと男湯へ、男の子は女湯へと入ることをためらい始めるのは、いつからなんだろう?

旧約聖書の中、エデンの園で神と共に暮らしていたアダムとイブ。

禁断の果実を食べたことで、裸でいることを「恥ずかしい…」と思い始め、そして 誰かのせいにし、神と共に暮らしていたエデンの園を追放された。

その時の神の愛は、アダムとイブに着せた皮の衣。

動物の皮で作られた衣を着ることで、護られるこの地上で生きる身体。

人がひとりでいるのは良くない!!とアダムのアバラの骨から作られたイブ。

これも神の愛。

マタイによる福音書6章25節には

それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。

空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。

子育てサポートをしてる私自身の命もからだも、神さまにサポートされ生かされている日常を歓んで…。

今日は双子のまなちゃんかなちゃんが歌った「いのちのうた」

 

犬の十戒

通りがかったトリマーさんのお店の前に掲げられていた「犬の十戒」

家に戻って、ネットで調べてみると 海外で作者不明で広がって来たものらしい。

内容はこんな感じ…

犬からの心の叫び

The Ten Commandments

犬の十戒

1. My life is likely to last ten to fifteen years.
Any separation from you will painful for me.
Remember that before you buy me.

私の寿命は、10年。長ければ15年。
何があっても最後まで、あなたのそばにおいてもらえますか。
私を飼う前に、どうかそのことをよく考えてください。

2. Give me time to understand what you want of me.

あなたが私に望んでいることを、ちゃんと分かるようになるまで
少し時間をください。

3. Place your trust in me- it’s crucial to my Well-being.

私を信頼して下さい……それが何より嬉しいのです。

4. Don’t be angry at me for long and don’t lock me up as punishment.
You have your work your entertainment and your friends.
I have only you.

私のことをずっと叱り続けたり、罰として閉じ込めたりしないで下さい。
あなたには仕事や楽しみもあるし、友達もいるけれど
私には….あなたしかいないのです。

5. Talk to me sometimes.
Even if I don’t understand your words,
I understand your voice when it’s speaking to me.

時には私に話しかけて下さい。
たとえ、あなたの話す言葉はわからなくても、
あなたの声を聞けば、私に何を言ってくれているのか、分かるのです。

6. Be aware that however you treat me, I’ll never forget it.

私のことをいつもどんな風に扱っているか、考えてみてください。
あなたがしてくれたことを、私は決して忘れません。

7. Remember before you hit me that l have teeth
that could easily crushthe bones of your hand
but that I choose not to bite you.

私を叩く前に思い出して下さい。
私には、あなたの手の骨など簡単に噛み砕ける歯があるけれど、
決してあなたを噛まないようにしているということを。

8. Before you scold me for being uncooperative obstinate or lazy,
ask yourself if something might be bothering me.
Perhaps I’m not getting the right food
or I’ve been out in the sun too long
or my heart is getting
old and weak.

言うことをきかないとか、手におえないとか、怠け者だと叱る前に
そうさせてしまった原因が無かったか、思い起こしてください。
ちゃんとした食事をさせてもらっていたでしょうか
太陽が照りつけている中に、長い間放っておかれたことはなかったでしょうか
老いた私の心臓が弱っているせいで、動けないのかもしれません。

9. Take care of me when I get old ; you, too, will grow old.

私が年老いても、どうか世話をして下さい。
私達はお互いに、同じように歳をとるのです。

10. Go with me on difficult journeys.
Never say, “I can’t bear to watch it .” or ” Let it happen in my absence.”
Everything is easier for me if you are there.
Remember I love you.

最期のお別れの時には、どうか私のそばにいてください。
「つらくて見ていられない」とか「立ち会いたくない」とか
そんなこと、言わないでほしい。
あなたがそばにいてくれるなら、
私は、どんなことも安らかに受け入れます。

そして、どうぞ忘れないで。
私がいつまでも
あなたを愛していることを。

Author Unknown

作者不詳
(訳:ソマリ+ism【Somalism】りんぽぽ&しゃおらん)

最後まで読み、何だか胸が苦しいです。

昨年2月22日、朝姪っ子からLINEが入り「パウロが死んだ!」と…。

パウロっていうのは、実家で飼っていたプードルの名前。

実は私が、名付け親。

6年前、実家にやって来たパウロは、やっぱり家族の一員でした。

亡くなる7~8ヶ月前に白内障にかかり、目がどんどん白くなっていき、私が実家に寄っても、ジッとしてることが多くなっていってました。

亡くなる朝、パウロは姪っ子の腕の中で亡くなってたそうです。

目が覚めても動かないパウロに、想像もしていなかった突然のお別れの時。

連絡もらって、すぐに駆けつけて 動かない身体に何も言えず…。

亡くなる日の前日、姪っ子が仕事から帰ってきたとき、いつもはジッとしてるのに、フラフラとしながら 玄関に出て来てお迎えしてくれた…と。

「さよなら…」と伝えたくても 伝えられないもどかしさ。

「ありがとう…」と伝えたくても 伝えられないもどかしさ。

「またね…」と伝えたくても 伝えられないもどかしさ。

この十戒に書かれた犬の氣持ち。

どれだけわかってたでしょうか…。

最後の日、ちょうど仕事もお休みの日。

パウロ自身が、ちゃんとわかって選んだお別れの日。

十戒の最後に書かれた

最期のお別れの時には、どうか私のそばにいてください。
「つらくて見ていられない」とか「立ち会いたくない」とか
そんなこと、言わないでほしい。
あなたがそばにいてくれるなら、
私は、どんなことも安らかに受け入れます。

そして、どうぞ忘れないで。
私がいつまでも
あなたを愛していることを。

今日、「犬の十戒」に目が留まったのも、パウロからのメッセージでしょうか。

2月を迎えた今日、22日はパウロともうひとり大切な友も天に還った日。

命のはかなさと限りある生の時間 生きることはまた死に近づくことでもあり、全ての人や生き物がたどる道。

「今」を精一杯生き…生も死もない次元に上昇して行けますように…。

そしてこの歌 山口 百恵「さよならの向こう側」

 

 

私には、姉がふたりいます。

2歳づつ離れて、生まれたので 小学校の時の参観日、母は大忙し。

それも楽しかったのかも知れません。

あの頃の参観日は、どのお母さんもプ~ンとお化粧の匂いをさせて、着物を着てくるお母さんも会ったほど…。

「学校の先生」っていうのが、また権威も持っていたような氣もします。

私は姉たちといっぱい喧嘩もしました。

すぐ上の姉は一番喧嘩したかもしれません。

3人姉妹なので、1:2で戦う(笑)ことが多かったかも…。様々な組み合わせで…(笑)

中学校の時は、すぐ上の姉と手を繋いで学校に行ってました。

あたりまえに手を繋ぎ登校してたところを、誰かに「仲イイね~」と言われて、ん?仲は良くないけど…(笑)手、繋いでる!!と…。

私は、妹がいないので 姉の氣持ちはわかりません。

でも生まれた時から、いる姉。

姉としたら、一人っ子だったのに妹が出来て、また一人で来て…

「姉ちゃんなんだから…と言われて。」

すぐ上の姉も、わたしが生まれてなければ、末っ子。

もっと両親に甘えられたかも知れません。

姉妹って不思議です。

前世ではどんな関係だったんでしょうか?知ったところで、何が変わるわけでも無いですが、今回の人生では 私は生まれた時から姉がいます。

私の旦那様は、すぐ上の姉と同級生です。

だから、姉のことを「みちこ」と呼び捨てにします。

姉の旦那様は、姉のことを「みちこちゃんとかお母さん」と呼ぶのに・・・。

私たちが新婚旅行から帰って、お土産を持って行った時 私の旦那様に「我が儘な子やけど、我慢してね」と言ったとか…。

姉は、我が儘な妹という見方をしてたんだと、その時初めて知りました。

うちの姉たちは、市内の伝統ある進学高校にふたりとも行きました。

お勉強も出来てました。

私は…というと、自分の予想に反して全く成績が悪く、それと姉と同じ学校に行って、「~の妹」と言われ続けてきた小・中学校の頃がイヤで、

誰も私のことを知らないところに行きたい!!という思いも手伝い、電車に乗って隣の市の商業高校に通いました。

姉がいなかったら、高校の選択も違ってたかも知れないですが、母は頭のいい姉たちの方が自慢でした。

自分が選び進んだ高校を卒業したことは、私の選択に自信が出来た一番最初の出来事だったかも知れません。

姉たちは、受験勉強をして短大に進みました。

母は、女の子は短大で十分という考えでしたし、長女に至っては四国から外に出ることはNGという感じでした。

私は…というと、商業科だったので進学するにしても、専門学校の方に興味あり、勉強も嫌いなのに短大に行くことは選択肢になく…。

私は、あまり母に相談はしてませんでした。

高校3年の夏、先生と母と私の3人で三者面談の際、私が専門学校に行きたい!!と言うと、母は「専門学校は学校じゃない…」と。

今 思えば、え~って感じですが、昭和8年生まれの母は典型的な学歴重視の時代に子育てをしたことで、そういう思い込みがあった様で・・・。

高校進学の時も、わたしが隣の市の商業高校に行きたいと言った時、猛反対。市内にも学校があるんだから…と。

中学校の時も、高校の時も、担任の先生は私の氣持ちを察してくれて、母を説得してくれました。

3人目だったからこそ、自由な選択が出来たのかも知れません。

結局短大にも、専門学校も行かず、あのやりとりを見ていた学校の先生が紹介してくれた会社に就職することになり、姉たちよりも一足早く運転免許も取り、OLになったのですから…本当に末っ子だったからの選択なのかも知れません。

高校の卒業式の後、母が「この高校に来れて良かったね」と、言ってくれたことは本当に嬉しかったです。

姉たちがいるおかげで、両親の介護も落ち着いて出来たのかも知れません。

上の姉は、私のやっている水素風呂早々に一緒にやり始め…すぐ上の姉も今日一緒に始めようか!!って事で、60歳を前に3姉妹でまた新しい世界が広がりそうで、今日何だかワクワクです。

3姉妹…3人違ってみんないい!!

3と言う数字は、今の私にはちょっとしたキーポイント。

水素・酸素・カイロ

オステ・バーズ・カイロ そして

けいこ・みちこ・ちえこ

父・子・聖霊

そして、先日勤労奉仕に行った友達が送ってくれた★★★星3ッつオリオン星が描かれた夫婦揃いのお箸。

1の今年、トリニティー三位一体がポイントになるのでしょうか。

3人姉妹と言えば、かしまし娘(笑)

 

 

国旗

今日は、1月9日成人の日で カレンダーでは国民の祝日…旗日。

ハッピーマンデーが制定されるまでは1月15日が成人の日。小正月。

我が家が、祝日に国旗を掲揚するようになったのは、もう6年前になるでしょうか。

ホームセンターで購入し、6年前の元旦。しっかりと国旗掲揚させてもらいました。

白地に赤く 日の丸染めて
あぁ 美しや 日本の旗は

アサヒの昇る 勢見せて
あぁ 勇ましや 日本の旗は

戦前の唱歌「日の丸の旗」

歌の通り、昔日本の家々の軒先には祝日となると、国旗がどの家にも掲げられ、赤と白のおめでたい色が 心を穏やかにしてくれていたように思います。

011正月の朝

私がまだ小学生のころまでは、我が家でも祝日には国旗を揚げて…

翌日、学校では「昨日、国旗を揚げた人?」と調査があったのを覚えてますが、これは日教組の行った調査だったのでしょうか?

そのうち、右翼と呼ばれる街宣車が、車には天皇陛下万歳と書き、日の丸をはためかせ、軍歌や君が代を大音量でかけて街の中を走ったり、若者がバイクにまたがり日の丸を振り回し…。

国旗を揚げたり天皇という存在が軍国主義の象徴のような錯覚を起こさせるようになってしまったようで…

祝日の街中では、日の丸を掲げる所がなくなり、挙句の果てには学校で君が代も歌わない学校も出てきたりしているようで・・・。

そういう私も、私が師と仰ぐ三重の赤塚さんから 7年前の47歳の時、日本のことを教えてもらうことがなかったら…国旗を揚げることもなかったと思います。

6年前の元旦の朝、ホームセンターで購入してきた新しい国旗を玄関に…。

1年間の祝日や祭日は、たった15日だそうで、心躍らせながら朝国旗を掲揚させてもらい始めました。

ところが、その年の5月3日夕方4時私が往診に出かけるときはあったのに、戻ってみると

「ない!!」

しかも棒が半分残って…。

ちょうど、夕方6時半から来ていた主人の塾の子供たちに、

「塾に来たとき国旗掲かってた?」と聞くと、

「あったよ!」と。

じゃ~塾の子が来た夕方6時半~私が帰ってきた7時半までの間の1時間に誰かが持って行ったとしか考えられない。

ホームセンターで5千円もしないくらいの値段だったので、特に被害届を出すようなものではないけれど、モノが国旗だけに なんかもやもやして、警察に電話。

そして、事の経緯を告げて もし町の中で旗振り回してる子がいたら注意してください。そしてなんていう名前だったか忘れましたが話を聞いてくれた警察の方の名前を教えてもらい電話を切りました。

そして、またホームセンターに行き2つめの国旗を購入。

しかしまたその年の9月の祝日、2度目の国旗盗難。
この日は、朝掲げたと思ったら すぐに消えてしまい…

すぐに警察に電話。前回の警察官の方がその日はおらず、5月にもあった件を伝えさせてもたったですが、聞いてもらっただけで、その後何も音沙汰なし。

取られることよりも、なぜ国旗を取って行ったのか?

そこが知りたい!!

そして3代目の国旗は、今年のお正月や今日の祝日にも 我が家の軒先で力強くはためいておりました。

ちなみに、70歳くらいの知り合いに国旗紛失事件を言ったところ

「あんた 国旗なんかあげるけんよ!右翼みたいなけん もうあげられんよ!!」と一言。

自分の祖国の国旗を尊いと思えないようになってしまったこと。

オリンピックやワールドカップでしか日の丸を大切にしなくなってしまったこと。

私自身は、何度盗まれようと、自分自身の出来ることで もう一度この日本に生まれて良かったな~と思える生き方をしていきたいし、

私が来た時よりも、もっともっと素晴らしい日本になって天に還るようにしたいな…と思います。

「来た時よりも 美しく!!」ですね。

 

意志あるところに道は開く

結婚して8年目の2007年、主人46歳の夏 脳出血にて入院。

左半身に麻痺が残り、入院したその日から始まったリハビリ。

直径5センチほどあった脳内での出血は、歩行はもちろん 幼稚園の子がするような大きなジグソーパズルさえもできない状態。

リハビリの先生は、「もう歩くのはあきらめてた方がいいですね」と。

そんな中、出来る限りリハビリの時間は見に行き声援。

手すりを持って立てただけでも、「ヤッター」
支えてもらいながら一歩また一歩と歩く姿に「凄い!凄い!」

ちょうどスキーの指導員時代の修学旅行生を思い出すほど・・・

関西方面から2泊3日の日程でやってくる高校生。

全くスキーをしたことのない子ばかりが3日間で「やれば出来る!」を感じられる最高のスポーツ。

教える側の勝負は、初日の午前中。

8人~10人くらいの班編成の中、平らなところで歩いてみたり  少し傾斜のあるところで止まる練習してみたり…。

もちろん転ぶ練習も…。

同じ班の中でも、器用に上達していく子と不器用な子。

ここで上手な子ばかり見てると、不器用な子はついていけなくなる。

でも不器用な子ばかり見てても、上手な子はつまらない。

教える側のバランス・・・そして本人のやる氣。

やる氣は面白くないと出てこない。初日は体力勝負。

転んだら楽に立てるように、板を支えて…、ハの字にスキーの板の後ろを広げられない時は、スキー板の前を抑えて感覚を覚えてもらい…。

あと2日半を楽しくするのも、大変にするのも初日のこの半日が左右する。

初日の半日懸命に頑張って、お昼ご飯食べると  午後は初めてのリフト。

ここでもまた器用な子はスッと立って滑り降りる。だから、一番不器用な子と一緒に乗って、腕を通して「セーノ」で立ち上がる。

初めてリフトに乗って1本滑り終えると、もう1本。

そのあいだ、器用に滑り降りる子を待たせないように、転んだ子は懸命に起こして…。

初日の終わりには、不器用な子も少しコツを掴んで ちょっと笑顔。

そして、一晩寝ると翌朝には魔法がかかったようになっている。

昔、氣に入ってよく言ってた言葉に「明日の君は  今日よりうまい!!」

スキーなんてやりたくなかった!って思ってた子も、「修学旅行行って良かった!!」「スキーやれて良かった!!」と思ってもらえたら私の仕事は成功。

やりたくない!こんなはずじゃなかった!!と思う出来事でさえ、やってみれば前に進める。

うちの主人のリハビリの時は、ひとつひとつ頑張ってる姿に
「凄い!凄い!!頑張れ!頑張れ!!」と一番の応援団。

スキーやリハビリ、そしてカイロプラクティックを学んだことで教えられた一人ひとり誰もが持つ∞の可能性。

やれないことなんて何もない。やる氣になるためには応援団も必要な時もある。

「もう歩くことはあきらめて下さい」と言われた言葉は、覆され杖を突きながらだけど歩けてる主人。

周囲がどんなに無理だと言っても、夢を語り 頑張り続けるからこそ見える世界。

そして最初の一歩も、次に続く一歩も、あきらめずやり通すことは、やっぱり大事。

 意志あるところに道は開ける!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

意識は引力

思うこと、やりたいこと、全てが手に入るわけではないけれど 自分自身の意識が引き寄せ…あたりまえでない奇跡がおこる。

目に見える世界と見えない世界。

私自身、引力は強い方だと思う。

「あ~なりたい! こうなりたい!」と思うことの全てではないが、
“神さまに私えこひいきされてるな~”と思えるほど、私自身の生きてきたこの54年間振り返ってみると、私自身以上に神様は私をよく知ってて導いてくれてることを確信する。

私自身の結婚も、そんな私の引き寄せ力が  人生のパートナーまでも引き寄せたんだと。

そして、必ずしも願いが全て成就するわけではなく、そこには神さまの壮大な計画があることも・・・。

1999年4月37歳を半年後に控え結婚。

私自身、結婚するとすぐに子供に恵まれると思っていたけれど、なかなか恵まれなく、また出逢って8ヶ月ほどでの結婚だった事と大阪と愛媛に離れていたことで、結婚生活が始まってお互い知っていくことでも有り、子供が出来ないことがその時は一番いいことだったのだとも思えます。

ただ、3年たっても4年たっても子供が出来ないことで40歳を目前にした2002年産婦人科を受診。

診察の結果、子宮内膜症もあるとのことで 内視鏡による手術。そして排卵誘発剤だけを投与する不妊治療をしたけれど、なかなか出来ず・・・。

それからまた4年程たった2004年44歳になるその年、前にかかった病院とは別の総合病院の女医さんのところへ受診。

「ちょっと遅すぎますよ!!でもアクティブにやってみましょう!」と言うことで、排卵誘発剤と共にその年の2月から人工授精。

私の卵管も主人の精子にも異常なく、卵子も多い時で4~5個出来て、「3つ子以上が出来ても大丈夫ですか?」と言われながら人工授精。

カイロの施術中も患者さんに、私三つ子が出来るかも・・・と話させてもらったら「出来たら手伝いに来るよ~」と、たら話で盛り上がり 楽しく過ごしながらも、生理が始まれば「はい!今回も残念でした~」状態。

全てに「時」があるのか・・・。

その年、2月から10月までの9か月間で6回人工授精。着床することもなく、そして総合病院の中から産婦人科が無くなるということで、女医さんの方から、「ほかの病院を紹介しましょうか?」との問いかけに、

私たち夫婦は、二人だけの生活でも  ふたり仲良く過ごせれば良いよね・・・と不妊治療を終了。

そして、翌年2007年の8月25日夕方、うちの主人が脳出血で入院。

左半身に麻痺が残る状態に・・・。

もしも、前年の不妊治療が成功し、三つ子でも4つ子でも出来ていたなら・・・どうなっていたのか?

この世の中に、「~だったら」と言うことはなく全てが最善。神さまは最善しか与えない。

主人の脳出血での左半身マヒも、私たちの家庭に子供が恵まれなかったことも・・・全て神の恩寵。

私がカイロプラクティックを学ばせて頂いた桑岡カイロプラクティック研究所の桑岡会長がいつも「私は、タイとタラは食べません」とよく言われてました。

~しタイ!     ~だっタラ!と言う人の中に成功は無いですと。

私の人生、自分自身の引力と天からの計らいとが調和し

毎時、毎分、毎秒・・・「時」の流れの中で奇跡が起こっている。

今日はクリスマス。

2016年前に地上からの願いと天上からの救いによって、人として生まれた神の子イエス。

聖書は読んだことのない人が多い日本でも、自身のお父さん、お母さん、お爺ちゃん、お婆ちゃんの誕生日や命日は忘れても 世界中でケーキやごちそうを囲み乾杯する今日。

きっと、こっちの世界ではキリストを知ることもなく 流れの中、ケーキやごちそうを食べ乾杯しお祝いしている姿を  神さまは笑い地球に住む全ての人に最高の愛の光を与え続けてくれてると・・・

聖なる日の今日改めて感じ、感謝いっぱいです。

お~!私の骨の骨、肉の肉…

スキーやケガ、カイロの仕事と   私の思いだけでなく目の前に訪れてきた数々の出来事。

そして、1998年(平成10年)8月13日、またひとつ運命の人と出会うことに・・・。

20代まだOL時代から、スキー学校でのインストラクター時代にも 20回以上”お見合い”させてもらっていながらも、「この人に決めた!!」っていう人に巡り会えず・・・。

そんな中、1998年 8月隣の家の人を通して“お見合い話”が・・・。

実家は西条で大阪で働いてる人…って言うだけで、写真も何もない状態であった8月13日。

車を掃除しガソリン入れて家に戻ってみると、もうお父さんと一緒に我が家に来ており、35歳の私はドスドスドスっていう感じで 家に戻り慌てて着替えて・・・。

後で聞いたところ、ピアノがあり、スキーのトロフィーが置いてあった応接間で待ってる間、同じように写真も見てなかったから、妄想は∞に広がっていたとか・・・。

で、顏合わせした後、私の運転でドライブ。

ちょうど私の2つ上の姉と同級生。中学、高校と同じクラスにもなっていたらしく、共通の話題も多く、

そして、私の理想の相手の条件が「海外で生活したことのある人」

なんと、29歳で一度会社を辞めて、アメリカ・マサチューセッツ州の小学校の先生のお家で一年間ホームステイ。

その町の小学校で日本の文化…お習字とか 正座とか 玉子焼きやおにぎり等々・・・小学生に日本語で名前を書いてあげたりした経験をワクワク聞かせてもらった私がその時思ったのが

「うわっ~  こんないい人が残ってたんだ!!」と・・・

旧約聖書創世記の中、初めに神様は天と地、光と闇、陸と海、海に住む魚、野に住む生き物、この世の全てのものを創造し、そして自分に似せて創られた男アダム。

そして、「人はひとりでいるのは良くない…」とアダムを深く眠らせ、アバラの骨を取って創られた女イブ。

そして神様がアダムの為に創ったその女イブを見た瞬間言ったアダムの言葉「お~私の骨の骨、肉の肉」と最高の賛美の言葉。

日の本…日本でいう、「お~私の太陽!!」って感じでしょうか。

その最高の賛美の言葉を放ったアダムのように、私自身この運命の出会いに「お~私の骨の骨、肉の肉」と言う言葉がピッタリかと・・・。

そんなこんなで、36歳を間近にした1998年8月神様が今後人生を共にするパートナーと出会わせて頂きました。

その後、大阪と愛媛の遠距離ながら、月1度か2度のデイト そしておかげさまで1999年2月結納、4月30日結婚へと。

結婚式に書いてもらった私の後輩でもあり、結婚生活は先輩である和美ちゃんのメッセージに「結婚は忍耐です」と・・・。

そのことの意味は、結婚17年を超えた今…本当に大きく頷けるメッセージ。

「私の骨の骨、肉の肉」と言って、一緒になったアダムとイブも、神さまからのたった一つの約束事

「エデンの園の真ん中にある善悪を知る木、この実だけは食べてはだめ!」

と言われながらも、「この実を食べると神様と同じように賢く成れるよ」という蛇の誘惑に負けたイブ。

そしてまた、イブの誘惑に負けたアダム。

全て御見通しの神様から、「アダムよ!イブよ!」と呼びかけられた時、隠れたふたり。

そして、「なぜ、食べた?」の問いに

神さまにむかって、アダムがなんとなんと                   「あなたが創ったこの女が、私に食べろと言った!!」と・・・。

そしてイブもまた「この蛇が・・・」と誰かのせいに・・・。

私自身もまた、このアダムやイブのように  「私の骨の骨、肉の肉!」「こんなにいい人が残ってたんだ!!」と思った思いとは裏腹に、

「なんでこの人と一緒になったんだろう???」とも思う時も…。

17年以上共に過ごし、子供も出来なかったせいか  お互いが子供の様な感じでもあり 日々修行・・・道場。

日本創造の神さま、イザナギ・イザナミの命もまた 黄泉の国に還ったイザナミに会いに行った時にも夫婦喧嘩。

神さまが逢わせてくれた今回の人生を共に歩いていく最高のパートナーと

健やかなるときも
病めるときも
喜びのときも
悲しみのときも
富めるときも
貧しいときも

これを愛し
これを敬い
これを慰め
これを助け
その命ある限り

真心を尽くすことを誓います♡

そして、共に  エデンの園に戻れるように・・・。

 

 

 

求めよ、さらば与えられん!

聖書の中の一説

求めよ、そうすれば、与えられるであろう。

捜せ、そうすれば、見いだすであろう。

門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。

すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。

私の魂が本当の事を求め始めたのは、きっと父が脳出血で倒れ、右半身に麻痺がおこったあの時からだったのかもしれない。

私自身、3人姉妹の末っ子で父は私をいちばん色々な所へ連れて行ってくれました。そして母より優しい父が大好きでした。

母はいつも「父ちゃんは千恵子に甘いんだから・・・」と言ってたくらい。

国鉄に勤務していた父は、若いころ列車を連結する際の事故で、左足の膝下5センチくらい残して挟まれ、切断。

私が物心ついた時も、父は隠すことなく川や温泉でも 義足を外し泳いだり温泉につかったり、また西日本最高峰の石鎚山にも私が幼稚園くらいのころ登り山頂で撮った写真があるほど・・・。

義足であることの弱音など一度も聞いたことがありません。

昭和3年3月3日生まれの父。

そんな父が2002年2月脳出血で入院。1ヶ月以上ものあいだ意識も戻らず・・・そして、意識が戻ったものの  脳の左側に出血していたため、右半身が麻痺。

神さま、神さま、、、あなたは、なぜ一生懸命仕事もし、3人の子供も育て、まじめに生きてきた父を こんな風にしたんですか?

なんで、なんで、、本当に、神さま ひどすぎます。

と、両手両足のうち  動かせるのは左手と膝下から切断された左足だけの父をみてこの世の不条理を痛切に感じ憤っていました。

そんな時、ちょうどカイロを受けに来られた患者さんが、「先祖よ。先祖。先祖供養をするといいよ。」っていうことを聞き、

私がお経をあげることで、父が元気になるなら、いくらでもお経くらいあげられる!!と、その日から朝夕ろうそくと線香を立て、法華経を唱えました。

姉たちにも、お経をあげるともっと回復するから・・・と本当に父の回復だけを信じ唱えさせて頂きました。

新年年明けから立春までは、「南無妙法蓮華経…南無妙法蓮華経…」と朝5時に起き、水をかぶり寒行もさせて頂きました。

ただ、やはり新興宗教…

真剣に祈り供養し仲間も増やして参りましたが、「~せねばならない」と思うようなことや ちょうど何か違和感を感じ始めた頃

カイロで往診に行った患者さんより旦那さんが大腸がんにかかった時の話を聞かせてもらい、その話に背中を押されるように、新興宗教からは脱会。

そのお話と言うのが、

ご主人さんが病院で「大腸に癌が出来てますが、今なら手術で取ることも出来ますよ。」とのお医者さまの言葉に

「わしは、手術はせん!」と先生の前で一言。

「あっそう…ええよ。あんたが死んだら私も一緒に死ぬから」と先生の前で奥さんも宣言。

そうすると、旦那さんが「お前は死んだらいかん!お前が死ぬんだったら、わしは手術する!」ということで手術に!

この奥さんのええよ!と受け止める凄さにもビックリでしたが、

その後、手術を終え  入院中の抗がん剤投与の際、看護師さんより
「抗がん剤の副作用で目が見えにくくなって来るかも知れないですが何か異常があったらすぐ言ってくださいね」と…。

そして、その看護師さんの副作用の言葉を聞いたその時言った奥さんの言葉が「深いぃ~」

「あんたの目が見えんなったら、私の片目あげるけんね・・・」と。

私がこの新興宗教に入り、唱えてた法華経。

この法華経を読んで、書いたと言われる宮澤賢治の「雨ニモマケズ」

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

南無無辺行菩薩
南無上行菩薩
南無多宝如来
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼仏
南無浄行菩薩
南無安立行菩薩

何の宗教も知らないこの患者さんの言葉に、法華経の神髄を感じ、いくらお経を唱えようとも、実際行っていかないと意味がないな~と、目が開き新興宗教からちょうどまる1年たった2003年5月脱会させてもらいました。

ただ1年間真剣に祈り唱えてきたこと、夏も冬も1年間 水を浴びた修行の日々は私にとっては見えない世界とつながる始まりの尊い一歩であった様にも思えます。

大好きな父が倒れたからこそ、求めた本当のこと。

ただ一人の者を目覚めさせる為に、愛する我が子に重荷を負わせる主の愛。

求めよさらば与えられん!

探せよさらば見つからん!

叩けよさらば開かれん!

求め、探し、動いたその時また違う世界の扉が開いて来るのだと・・・。

あっ!!私の大好きな父は歩くことは出来ないけれど、2017年年が明けた3月3日89歳になります(^^)

 

生まれる前から

この世に生まれる前から、育み育ててくれる 母親という存在。

2013年12月19日、夕方5時すぎ  携帯を別の部屋に置いたまま施術中、何度も電話がかかり、最後には主人の携帯に姉から電話が入り、

「とうとうその時が来てしまったのか?」と、車で5分もかからない入院先の病院へ。

駆けつけた時、ちょうど一番上の姉がエレベーターから出てきて母の死を告げてくれ、最後の着替えを取りに家に戻り 私は病室へ。

亡くなってどのくらい時間が経ったのかはわからなかったけれど、

「人は臨終のあとも   しばらくは聞こえてる」と聞いてたので、
耳元で「母ちゃん…ありがとう!楽になったね!!ありがとう…」と言わせてもらいました。

実は亡くなる1年前の12月初め、低酸素・低血圧状態が続いてるという連絡が入り、

その日から毎日、脊柱と両足にオイルマッサージそして頭骸と顔面の骨格矯正。

それから1年は熱を出すこともなく、看護士さんもまだもう少しは持ってくれると思ってたと言われるほど・・・。

実は、私  毎日母のケアしながら  耳元で「母ちゃん!しんどいけど   もうちょっと私に甘えさせてね」「ごめんね」「ごめんね」「もうちょっとこの身体も触らせてね!!」・・・と。

末っ子の私は、一番遅くまでおっぱいをもらい、甘えられる特権を得てた様で、

好きなことや思うことをさせてもらえなかった姉たちと比べると ホント好きなことしかしていない私は、放蕩娘。

35歳くらいのころ、自己啓発セミナーに参加した時 何が怖いですか?という質問に「両親の死」と答えてたほどの私。

母の死を迎えるまでちょうど1年間。

いつかは触れなくなる その肉体をいっぱい触らせてもらい、帰り際にはほっぺにチュをして帰ってたほど…。

もう数年前から  寝返りも話すことも出来ない母に思い残すことの無いようにと…。

本当にその1年があったからこそ、死を迎えたその時の心の穏やかさは他の人からみると、きっとなんて冷静って思われそうなほど穏やかで…。

そしてもっともっと思えば、亡くなった日が19日。
ちょうどその前、12月16日~17日と伊勢の神宮の月次祭に合わせて伊勢の修養団で行われる「神話を体感する会」に仲間と参加しており

伊勢に行く前の日15日も病院に寄ることが出来ず、戻ってきた18日は姉から「今日は私が行ったから行かなくていいよ!」と連絡が入り、そして19日昼間も病院の前を通った時、「いつも通り夜行けばいっか!!」とそんな感じで、

毎日「私の為にがんばってよ!」「もうちょっと甘えさせてね」と言ってた私が、5日間行けず・・・。

後でふと思ったのは、
「きっと千恵子が来るとまた頑張れって言うし…。来ないうちに逝かせてもらお!!」「さいなら~」と…

私の携帯が氣づかないところに置いてたり、病室に5日間も行けなかったことも母を思う天の計らい。

母親は、我が子の為に命削っても守り愛してくれる。

私の母、厳しい所もいっぱいあったけれど、本当に優しくて結局私の耳元でささやく「頑張ってね」の言葉に頑張り続けてくれていたんだと…。

私がこの世に生まれる時も、お腹にいる十月十日の間もずっとずっと、護り続けてくれてた母。

きっと天に還っても  見守ってくれてるようで…。

昨日19日命日、お墓に行ったとき、うっかりライターを忘れてしまっており…どうしよう!!って思いながら、

ちょうどその日1段上で工事をしてた青年に「ライター誰かもってたら貸してもらいたいんですが…」と。

その青年、何も言わず降りてきてくれ、すっとライターを渡してくれた時は、あーこの青年神様が使わせてくれたな~と思ったくらい。

お盆やお彼岸でもない滅多に人に会うこともない平日。あの時間に工事してたのも天の計らい。

ろうそくとお線香に火を点すと、火は一連の出来事を喜ぶようにどんどん大きくなり 「私は元氣でやってるよ」「ありがとう」「いつも見てるし守ってるからね。」「大丈夫だよ」と言ってくれてるようで 涙溢れスーっと母と一体になった感じでした。

52歳でパーキンソン病と診断され、すぐに悪くはならないものの  筋肉の硬縮が起これば左手が震え。

そんな病の中でも母は、私が勝手氣ままにスキーをしている間も 娘の身体を案じ、嫁に行かない娘をどうにか行かせられないものかと方々に釣書を配り・・・。

今思えば、本当に親不孝の放蕩娘。

今、私が54歳。母が病を持って生きた52歳から80歳までの28年間。
母のやりたかったことも一手に引き受けて生きていこうと思った4回目の命日。

母の病室に行ったとき、CDのスイッチをオンにし、一番初めにかかるこの曲をきっと脳裏に焼き付けて母は天に還っていったのだと思う

思い出の讃美歌「主よみもとに近づかん」

是非聴いてもらえると嬉しいです。