「青春」カテゴリーアーカイブ

春4月

やっと桜の花が咲き、チューリップや菜の花も 待ってましたとばかり 咲き誇る春4月。

入園、入学、入社と新しい出会いの時。

思い起こせば、高校の入学式…同じ中学校からは2人だけの隣の市の市立商業高校。

ほとんど全ての人を知らず「初めまして」のスタート。

どんな出会いが待っているのか?

どんな素敵な人と巡り合うのか?

ワクワクドキドキしながらの入学式。

そして、その日張り出されたクラスを見てビックリ。

なんと…なんと女子だけ40名の女子クラス!!

「聞いてないよ~(笑)」

花の高校生活…漫画やドラマに出てくるような出会いを期待してただけにがっかり(笑)

商業高校は女子の割合が多く、8クラスある中 2クラスが女子クラス。

結局、1年と3年の2年間を女子クラスで過ごさせてもらいました。

今の年になると、女子だけの同窓会はかなり楽しそうですが…(*^^)v

今日、知ったギャル語「OB」…おばさん

「OBパワー」で、かなり熱い同窓会になりそうだけど…。

高校卒業の後、入った会社は尼崎に本社があり、そこで2週間の研修。

大阪や本社以外の東京営業所、柏工場、そして新居浜営業所で事務をする私たちが寝泊まりした会社の「開明寮」

東京弁で話す同期の仲間たちに戸惑いながらも、高校を卒業したばかりの新しい生活。

朝は毎日、玉ねぎのいっぱい入ったお味噌汁。

そして、夜は会社の偉い人たちが、開明寮に麻雀に来たりする中 誰が偉いのかどうかも知らない我々は、隣の部屋でテレビをみたり 自由な時間。

本格的に仕事が始まって、私の働く営業所に出張で来られた時、会社の部長だったり、専務だったんだと知り…冷や汗(笑)

研修中、特に仲が良かった柏に住む宏美ちゃんとは 毎晩一緒にお風呂に入って、湯船のお湯を二人で入って「ドバー」っと溢れさせて喜んでた本当に「箸が転がっても面白い」18の春。

4月1日、入社式から2週間。

初めましての出会いから、寝起きを共にした5人。

最後に、新大阪で西と東にお別れ。

次に始まる新たな職場への期待と不安とを持ちながら、中学や高校時代の友達と交わすような軽いお別れ。

遠くに友を持った初めての経験。

小学校や中学校、高校時代のように、すぐに会える友と違うこと。

電話や手紙で連絡しても、あの2週間みんなで語り合い笑いあって過ごした時が楽しかっただけに…会えない寂しさを感じる距離。

次に同期のみんなと会った後のお別れの時は、「次、いつ会えるんだろう…」という思いが溢れ泣けて…泣けて…。

初めて感じた「別れ」の悲しみツラさだったかも…。

一期一会

「また明日…」と言って、また会えることが当たり前に思ってた学生時代から、

社会人となり同期の仲間とのなかなか会うことの出来ない…けれどずっと繋がっている関係。

そして、その後色々な出会いや別れ、時間と距離を超えた繋がりも…たくさんたくさん経験し…

毎日会っていても分かり合えない仲間もいれば、ずっと会うことが無くてもすぐに同じ頃に戻れる仲間も…。

そして、初めて出会ってもずっと前から知ってるような出会い。

様々な出会いと別れ、時間と空間。

天に還った友もあり、本当に出会いの季節だからこそ、思う別れ。

いつも最大の喜びをもって過ごして行きたいと感じる春4月。

 

 

 

 

 

風の祭典

今日、午後3時 松山にある「うちカフェみけ」さんで 松山の友達と待ち合わせ。

そこに先客として いらっしゃったのが 5月7日(日)松山市のコミュニティーセンターで公演をされる齋藤 美惠子さん

公演は、ダウン症として生まれてきた三女恵子さんと恵子さんのお姉さまの恵さん弓子さん、そしてお父様で津軽三味線奏者の本条勝真さんと今日お会いしたお母様で舞踊家の美惠子さん

家族五人とお弟子さんたち20名が繰り広げる「風の祭典」

今年で、20周年を迎えるという公演、四国初上陸だそうで、偶然美惠子さんが沖縄で松山の山内みゆきさんに会ったことで決まった今回の公演。

公演1か月前が近づき、四国で初めての公演ということで まだまだ認知度の低い今回の公演に一人でも多くの方々に伝えたいと…

居てもたってもおれず、今日2度目の松山入り。

ちょうど「うちカフェみけ」さんにいらっしゃった頃、私たちも到着。

そして、お母さん美惠子さんの舞台への熱い思いに共感。

「生きることは 表現すること」

「天使からの贈り物-恵子と共に」と、書かれたまっ赤なチラシ。

平成8年から20年。

東京・秋田・群馬・静岡・千葉・広島・山口・兵庫・山梨・神奈川・大阪…と各地で大反響を呼ぶ公演。

追っかけしている 熱烈なファンもいるほど…。

ダウン症という障害を持って生まれてきた恵子さんを「神さまの子」と思い、普通の子供と同じように舞踊の世界でも きちんと教えてきたというお母様の美惠子さん。

今朝、突然行くことになった「うちかふぇみけ」さん。

世の中には、偶然という言葉は本当になく 出会うべくして出会ったような…

そして全国を飛び渡り、舞台にたつ美惠子さんから直接お話を聞ける機会を頂けたこのご縁に…魂いっぱいの感謝を感じます。

5月7日(日) 14時~ 本条勝真・恵子と柏穂連の「風の祭典」
前売り券・全席自由 大人3,000円 子供1,500円

お問い合わせは、太陽院院長のブログを見たと、お伝えくださり
070-5359-1200(山内さま)へ。

そして 太陽院でも、チラシとチケット預かっておりますので是非…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

満月

おとめ座の満月のⅠ2日、お月様の光と共に 大阪から戻って参りました。

毎日、更新していたブログ…今日は帰宅が夜中1時を過ぎてしまい、せっかく12月から続けてるので、今 昨日の分(3月12日分)で投稿中。

朝、7時西条を出発し向かった先は  大阪城そばの 松下IMPセンター。

昨年2月、津の赤塚さんより教えて頂き、取り入れた 「水素風呂」のレンタル事業の取次店勉強会。

今日は、全国の取次店の中  850名のみと限定された勉強会。

各地での勉強会は有るものの、会社主催の勉強会は 初めての試み…。

やっと確保して頂いた5人分のチケット持って  仲間と車走らせて行って参りました。

近未来エネルギーとなる水素。

岡山からも合流し、大阪まであっという間。

旅は何処に行くかよりも  誰と行くか!が大事…と言われますが

事業も何をするかも大事だけど、誰とするか!!は、もっと大事。

OL時代、私自身一度だけ  会社に行きたくないな~と思い、車から降りて 横断歩道を渡り  事務所まで向かうことが  身体が重く 足が進まず…

そんな中  力を振り絞って  着いた会社には1枚の書き置き。

「○○商会に直接行きます」と…。

その時、心が軽くなったことは今でも忘れられません。

心と身体は密接に関わり  小さな悲鳴を浴びてることも…

人生は旅と同じ。

その中で、共に近未来エネルギーである「水素」を扱うことで繋がる仲間との絆。

人は良き仲間との出会いが  また大きなエネルギーとなり  わくわくと過ごせること。

本当に大切なことだなーと、しみじみと感じさせてもらった今日満月の日でした。

お好み焼き

高校生の頃  土曜日学校帰り  いつも寄ってた  お好み焼き「あいちゃん」

学生割り引きあって 、380円くらいだったのかな?

山盛りのキャベツと卵  そして豚肉。

混ぜてまぜて、鉄板の上にのせて…待ってる時間も至福の一時。

そして、裏返す時の集中力!

学校の授業よりも  真剣に…。

そして、カットしソースの後はメインのマヨネーズ♪

袋入りのマヨネーズの口を小さく切って、ハートを書いたり、相合い傘書いたり…楽しいひととき。

先日 春キャベツを頂き  家で久々お好み焼き作ってみると  案外イケる!

しかも  高校時代とは違って  ビールも飲みながら…

ホットプレートの空いたスペースでは  一口サイズに切った鶏肉を、塩コショウし焼いて食べるんだから…

飲んべえの私にはたまらないひととき。

よく  赤塚さんのはなしではないけれど、ひとつのモノでも持つ人によって 変わっていく捉え方。

どれが良い!という訳でなく  それぞれが持つ個性。

SMAPじゃないけど「ひとつひとつ違う花が咲く」

小麦粉をイタリア人に渡すとパスタに!

さぬきの人に渡すと うどんに!

大阪の人に渡すとお好み焼きに!

グルテンフリーが推奨される昨今…でも懐かしい青春の味。

もうあのいつも立ち寄ってたお店は 今は駅前の土地開発でなくなってしまったけれど

今で言う「女子会」タイム。

お店のおばちゃんも きっと土曜日に来る私たちのおしゃべりを 楽しんでたんだろうな。

ちなみに うちの主人の高校時代の思い出の味は、商店街の「かめや」のうどん。

さぬきの手打ちうどんとはちょっと違う  素朴な味。

お互い、違う学校で 違う生活しながらも 「 小麦粉文化」が我々の高校時代にしっかりと根付き…

そして実は、いつもブログでお氣に入りの一曲をYouTubeで見つけて 楽しんで 張り付けていたけれど

何だか動画サイトからのウイルス感染があるようなので今日からやめておきます。

実際 昨日、突然変な画面になり、主人が修正中。いつもはパソコンから書いてるブログも今日は  スマホで書き込み中。

パソコンが調子悪いときは

「あーこうじちゃんと結婚して良かった~!」と 改めて思う現金な嫁です…(*^3^)

青春

16年ぶりの友と、再会しました。

カイロプラクティックを共に学びながら、ちょうど介護のケアマネージャーの資格習得の為 忙しくなりなかなか合うことがなくなり16年。

8年前に自身で介護事業所も立ち上げ、今は所長となりイキイキと動いてる彼女の話に、あの頃と体系も変わりお互いおばさんになってしまったけれど、16年たっても変わらずあっという間の時間でした。

これから、また新たに繋がり、共に歩んで行くことになる彼女とのご縁に感謝。

その後、またまた数年ぶりに、花咲塾の1期生と再会。

今は、松山に住むという彼女の彼はフランス人。

英悟も日本語も苦手な彼女にとって、フランス語は一番しっくりくるんだとか…。

中学生時代もなかなかクラスメートとの距離や考え方に馴染めず少し不登校ぎみだった彼女。

人が人と出会うことの奇跡を思った時、きっと一生懸命生きてる彼女の前にフランス人の彼が現れたのも主の祝福。

しかも絵を描くことの好きな彼女にぴったりの、彼の家族。
お父様が画家だとか…。

彼のワーキングビザが3月で切れるらしく、もうこれで別れてもいいと言う彼女だけど、

色々聞いてると、本当に彼女の不器用な所も含めて守り、大切にしてくれる彼氏の存在は貴重。

日本好きの彼氏は、6歳の頃「7人の侍」を観て日本に憧れ、まずは京都に来たのだとか…。

そこで出会った彼女は、逆にフランスに興味あり 夢の中で第一次世界大戦のころドイツ軍に攻め入られた夢を見たこともあるとも…。

しかも、まだまだ21歳の若い彼女。

舞台は揃い、フランスへの一歩を踏み出すかどうかは、彼女が「決める」ことなのだけれど、

絵の勉強も含め、環境を変える絶好のチャンス。

色々、私が彼女と話してる中ずっと黙ってた主人が放った一言が…

「人間は環境の奴隷になってしまう」と…。

自分が変わりたければ、環境を変えることが一番であると…。

自分の身を置く場所によって、人は向上もするが、堕落もしていく。

カイロを教えてくれていた会長が「腐ったミカンは伝染する」と、いつも言ってたことを想い出します。

大きく一歩踏み出すか、このまま見送り美しい思い出で終わるのか…。

一歩踏み出すためには、NHKの朝のドラマではないけれど

「勇気」「愛情」「信頼」「希望」と四つ葉のクローバーが揃うことで大きく羽ばたいて行けるそう。

ただWikipediaによると、「希望」「誠実」「愛情」「幸運」の4つのようですが…。

そんなことはどうでもよいことで、出逢った人が自分自身の使命に氣付きイキイキと過ごすことが出来たなら嬉しいです。

いつまでたっても青春!
いくつになっても求め探し動く者の道は開かれる!!

今日、久しぶりに会えたふたりと話してるとき、ふと浮かんだ【青春】というこの詩

詩:サミュエル・ウルマン  訳詩:岡田義夫

青春とは人生の或る期間を言うのではなく心の様相を言うのだ
優れた創造力、逞しき意志、炎ゆる情熱、怯懦を却ける勇猛心
安易を振り捨てる冒険心、こう言う様相を青春と言うのだ

年を重ねただけで人は老いない
理想を失う時に初めて老いがくる

歳月は皮膚のしわを増すが情熱を失う時に精神はしぼむ
苦悶や、狐疑、不安、恐怖、失望、こう言うものこそ恰も長年月の如く人を老いさせ、
精気ある魂をも芥に帰せしめてしまう
年は七十であろうと十六であろうと、その胸中に抱き得るものは何か

曰く「驚異えの愛慕心」空にひらめく星晨、その輝きにも似たる
事物や思想の対する欽迎、事に處する剛毅な挑戦、小児の如く
求めて止まぬ探求心、人生への歓喜と興味。

人は信念と共に若く 疑惑と共に老ゆる
人は自信と共に若く 恐怖と共に老ゆる
希望ある限り若く 失望と共に老い朽ちる

大地より、神より、人より、美と喜悦、勇気と壮大そして
偉力と霊感を受ける限り、人の若さは失われない
これらの霊感が絶え、悲歎の白雪が人の心の奥までも蔽いつくし、
皮肉の厚氷がこれを固くとざすに至ればこの時にこそ
人は全くに老いて神の憐れみを乞う他はなくなる

明日は、昨年42歳の若さで突然旅立った友の1周忌。

いつまで…と自分自身でも知ることが出来ない人生。

いつ、終了~とサイレンが鳴るかわからない現実。

「今」「この時」を、共に生きることの奇跡噛みしめて…。

そして歌は、「こころ旅」

 

 

 

あてどもない旅


アクセルふかして Keep on truckin’   自由な心は Happy
あてどもない旅  一度したいと思いませんか…

と始まるユーミンの「ワゴンに乗ってでかけよう」

スキーのインストラクター時代、四駆の軽四にひと冬過ごす荷物を積み込んで、志賀高原を目指して出発。

片道800キロ近く…。

初めて行った時、瀬戸大橋の料金を考えると、「私、手持ちのお金で払えるのかな?」と思うほど、岡山―姫路―神戸―大阪―京都ー滋賀ー名古屋ー岐阜ー長野といくつもの県境を越え長い長いドライブ。

お気に入りの曲をカセットテープに吹き込んで、岐阜の恵那山トンネルを超えると、真っ白な雪景色が現れて…。

初めて長野から山形の月山を目指したときは、道路マップが高いので日本地図を購入し、夜10時ころ出発。

新潟に向けてスタートしたのはいいけれど、高速に乗らず 日本地図に示された幹線道路で北へ向かって行こうとしたところ、真夜中対応車も全くないような山道に入ってしまい

ここで車が止まったり、何かあったらどうしよう…なんて不安ばかりが頭に浮かび、朝やっと明るくなりかけた時に居た所は磐梯山!!

どこをどう行ったのか?

なんと月山にたどり着いたのは、その日の夕方5時近く。

前の日の夜出発して、19時間もかかって到着(笑)

翌年、普通に高速に乗れば5~6時間で行ける所を20時間近く走り続け…到着したんだから、無知って恐ろしい…。

でも初めて行った月山、夕方だったからこそ月山の「ロッジ柏や」で居候をすることになったのかも知れないけれど…。

月山から一氣に、西条の家に戻った時は夕方5時頃月山を出発。

調べてみると1060キロ。

パーキングで休憩しながら、西へ西へ…。

翌日の夕方ちょうど24時間経過したころは大阪辺り。

そして、瀬戸大橋を越え香川に入ると故郷愛媛ももうすぐ。

冬中、ホームシックもなく自由に氣ままに過ごしておきながら、急に父母の顔が浮かび アクセル全開。

新婚旅行の時も、結婚式が終わりどこへ行こうか?って感じで、とりあえず愛媛八幡浜から九州臼杵に向けてフェリーに乗り…。

フェリーから降りて、じゃ長崎のハウステンボスにでも行ってみる?って感じで、長崎へ。

結婚式が4月30日だったので、翌日はゴールデンウィーク真っ只中。
お昼3時頃まで能天氣にハウステンボスで楽しみ、ホテルに問い合わせたらどこも満室。

長崎市内のホテルがやっと一軒、見つかり長崎市内まで。

出逢って、大阪と愛媛での遠距離だったから二人でなんだかんだおしゃべりしながらの、新婚旅行は最高に楽しいロングドライブ。

そして、新婚の頃は運氣も上昇しているためか、長崎から移動して行った宮崎のホテルでも満室のところ、ホテルの人の御好意で会員制のゴルフ場の一部屋を紹介してもらったりして…。

今日、ポカポカと暖かい冬の日、高松までひとり運転して行き あれこれ懐かしいあの頃をまた思いだし、車があることで普段着でどこへでも出かけることが出来る今…。

やっぱり私は、動き続けてることでエネルギーチャージ出来てるのかも知れません。

ユーミンの歌のように、あてどもない旅…いつかゆっくり旦那ちゃんとしたいな。

ユーミンの動画が見つからないので、昔よく聴いてた
稲垣 潤一「ドラマティック レイン」

この流れるサウンドが懐かしく心地いい

 

 

 

百薬の長

お酒は「百薬の長」と言われますが、誠にその通りだと思います。

日本酒にビールにワイン…焼酎だって大好きです。

私の原動力になってるのかも知れません。

スキーインストラクター1年目、夜9時過ぎまでナイターで練習し、宿に戻ってお風呂に入り、帰りに自動販売機でビールを購入。

同じ部屋のみんなと、なんだかんだ話しながら飲むひとときが大好きでした。

シーズンも終わりに近づくと、どんどんビールの量も増えて行きます。

OL時代は、居酒屋やスナックなど 会社の行事で連れて行ってもらうくらいで、友達と行くといっても 何か特別な日に飲みに行くくらい。

最近、時代は変わったな~と思うくらい、若者が氣軽に行けるお店が増えて来たと思います。

そして、スキーでヨーロッパへ行ったことで、好きになった赤ワイン。

滞在中、スーパーで安いワインを買ってきて、毎晩コップに1杯の赤ワインを飲むのも楽しみでした。

ドイツ語で、赤が「ロートワイン」、白が「ヴァイスワイン」そして、赤ワインをいろんな香辛料を入れて甘く作った「グリューワイン」

スキー場でも、仲間と飲みに行っても、
「アイン  ロートワイン…ビッテ!!」
「アイン  ビアー…ビッテ!!」

で、1杯のビールや赤ワインがテーブルまで届けられるのですから、ドイツ語も英語も話せなくても、必要な単語だけはちゃんと…(笑)

アルコールは、百薬の長だけでなく、仲間との交流も楽しませてくれます。

オーストリアに居た時、「シュナップス」というアルコール度40度以上のお酒。

寒い季節に最高の蒸留酒。みんなでゲームしながら小さいカップで何杯飲んだことでしょう!!

シュナップスという呼び名は「命の水」という意味もあるそうです。

そして、カイロプラクティックを始めたことで、好きになったのが日本酒。

この日本酒という呼び名は、明治天皇の玄孫竹田恒泰氏によると、 日本酒ではなく、「国酒」。日本史ではなく「国史」と…。

なるほど、わざわざ日本と付けなくても祖国のお酒。祖国の歴史ですよね。

もともと日本は稲穂の国。
アマテラスの孫、ニニギノミコトが天孫降臨の際伝えられた
「天壌無窮の神勅」と「斎庭(ゆにわ)の稲穂の神勅」にも稲のことが示されており、

中でも「斎庭の稲穂の神勅」は …
『吾が高天原に所御す斎庭の穂を以て、亦吾が児に御せまつるべし。』

とあり、天上界の田で育った稲を地上に植えて、この国を天上界のような稔り豊かで安定した国にしなさいと。

この稲から取れたお米で作る国酒。

日本の祭日には、稲に関わる祭日が多くお米は欠かせないもの。
陛下ご自身がお手植えの稲を神様に捧げるのですから、本当に日本は瑞穂の国。

聖書の国では、ぶどうから作られたワイン。

ヨハネによる福音書15章にはこうある

わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。

そして、最後の晩餐の中にも記されている。

マタイによる福音書26章より

一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、
「取って食べよ、これはわたしのからだである」。

また杯を取り、感謝して彼らに与えて言われた、
「みな、この杯から飲め。これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。」

古事記にも聖書にも示されている、神さまが用意してくれた命の水。

やはり、お米から作るお酒のほうが、田植えから稲刈り、またお酒になるまで手間・暇かけて作られ 本当に世界に誇れるアルコールなのではないかと思います。

色々と講座や講演会を開催させてもらう時にも、一番大切なのは、終わった後の「懇親会」

「乾杯」…乾いたさかずきとはひとり一人の魂のことでしょうか?

「レハイム」…ヘブライ語で「乾杯」は…命頂きますとのこと。

72年前、特攻隊員が出撃前に交わしたのは「別盃」と呼ばれるそうですが、どんな味がしたのでしょうか。

人生色々な場面で登場するお酒。
百薬の長として、嬉しい時も…哀しい時も…歓びの時も…別れの時も…!

今日は、梓みちよの「二人でお酒を」

 

 

 

冬の妖精

夕方、愛媛にも雪が降りました。

この冬、私にとっては初雪。

スキーやってた頃は、北から初雪の便りがあると、ワクワクしたものです。

空から舞い降りる妖精たち。

真冬の乾燥した日にみえる、太陽に照らされて光るダイヤモンドダスト。

そして、ふわっと舞い降りる雪は あの雪印のマークが束になって降りてきて、寒さよりも白い世界に包まれる幸せを誰よりも感じてたあの頃。

膝のケガや、新しくカイロプラクティックの仕事を始めたことで、志賀高原にも行かなくなり、

またどんどん太っていったこともあり、冬スキー場に行くことがだんだんなくなり、寒さが身に沁みる年に(笑)なってきたけれど

朝早くから、夜はナイターまであの かたいかたいスキーブーツを、スニーカーのように履いてたあの頃は、やっぱり私の青春そのもの。

吹雪の中でもリフトが動いてさえいれば滑り、滑った分だけ上手くなってると信じてたあの頃。

「明日の僕は今日より上手い!」

という、どこかのスキーメーカーのキャッチコピーの言葉が大好きでした。

スキーバカでしたね。

でもとことんやって、怪我してもう滑れなくなって、今でも膝は痛くて走ることも出来ないけど、肉体の痛みを知ったからこそ、今の仕事に生かされてると…。

新約聖書詩編103編

わがたましいよ、主をほめよ。わがうちなるすべてのものよ、その聖なるみ名をほめよ。

わがたましいよ、主をほめよ。そのすべてのめぐみを心にとめよ。

主はあなたのすべての不義をゆるし、あなたのすべての病をいやし、

あなたのいのちを墓からあがないいだし、いつくしみと、あわれみとをあなたにこうむらせ、

あなたの生きながらえるかぎり、良き物をもってあなたを飽き足らせられる。

ケガや病気全て起こる事、全ての出来事が主の最善。

今日、明日とセンター試験…毎年、センター試験の頃一番寒波厳しく、受験生も受験生の家族も 試練の2日間。

どうか、主の祝福が豊かに降り注ぎ ひとりひとりの人生にとって最善の道が開かれます様に…

今日はあのユーミンの「ブリザード」

 

意志あるところに道は開く

結婚して8年目の2007年、主人46歳の夏 脳出血にて入院。

左半身に麻痺が残り、入院したその日から始まったリハビリ。

直径5センチほどあった脳内での出血は、歩行はもちろん 幼稚園の子がするような大きなジグソーパズルさえもできない状態。

リハビリの先生は、「もう歩くのはあきらめてた方がいいですね」と。

そんな中、出来る限りリハビリの時間は見に行き声援。

手すりを持って立てただけでも、「ヤッター」
支えてもらいながら一歩また一歩と歩く姿に「凄い!凄い!」

ちょうどスキーの指導員時代の修学旅行生を思い出すほど・・・

関西方面から2泊3日の日程でやってくる高校生。

全くスキーをしたことのない子ばかりが3日間で「やれば出来る!」を感じられる最高のスポーツ。

教える側の勝負は、初日の午前中。

8人~10人くらいの班編成の中、平らなところで歩いてみたり  少し傾斜のあるところで止まる練習してみたり…。

もちろん転ぶ練習も…。

同じ班の中でも、器用に上達していく子と不器用な子。

ここで上手な子ばかり見てると、不器用な子はついていけなくなる。

でも不器用な子ばかり見てても、上手な子はつまらない。

教える側のバランス・・・そして本人のやる氣。

やる氣は面白くないと出てこない。初日は体力勝負。

転んだら楽に立てるように、板を支えて…、ハの字にスキーの板の後ろを広げられない時は、スキー板の前を抑えて感覚を覚えてもらい…。

あと2日半を楽しくするのも、大変にするのも初日のこの半日が左右する。

初日の半日懸命に頑張って、お昼ご飯食べると  午後は初めてのリフト。

ここでもまた器用な子はスッと立って滑り降りる。だから、一番不器用な子と一緒に乗って、腕を通して「セーノ」で立ち上がる。

初めてリフトに乗って1本滑り終えると、もう1本。

そのあいだ、器用に滑り降りる子を待たせないように、転んだ子は懸命に起こして…。

初日の終わりには、不器用な子も少しコツを掴んで ちょっと笑顔。

そして、一晩寝ると翌朝には魔法がかかったようになっている。

昔、氣に入ってよく言ってた言葉に「明日の君は  今日よりうまい!!」

スキーなんてやりたくなかった!って思ってた子も、「修学旅行行って良かった!!」「スキーやれて良かった!!」と思ってもらえたら私の仕事は成功。

やりたくない!こんなはずじゃなかった!!と思う出来事でさえ、やってみれば前に進める。

うちの主人のリハビリの時は、ひとつひとつ頑張ってる姿に
「凄い!凄い!!頑張れ!頑張れ!!」と一番の応援団。

スキーやリハビリ、そしてカイロプラクティックを学んだことで教えられた一人ひとり誰もが持つ∞の可能性。

やれないことなんて何もない。やる氣になるためには応援団も必要な時もある。

「もう歩くことはあきらめて下さい」と言われた言葉は、覆され杖を突きながらだけど歩けてる主人。

周囲がどんなに無理だと言っても、夢を語り 頑張り続けるからこそ見える世界。

そして最初の一歩も、次に続く一歩も、あきらめずやり通すことは、やっぱり大事。

 意志あるところに道は開ける!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

神さまのいたずら

スキーが好きで好きで大好きで、朝から晩まで もっともっと…と滑り続けた青春時代。

そんな私を知ってか知らずか、1991年に初めて愛媛代表として出場した八方尾根スキー場での全日本スキー技術戦。

実はその大会がどんなものかも知らず、四国大会→西日本大会と出場し、愛媛ではまだ誰も出たことがなかった全日本技術戦。

その大会の凄さもわからぬまま、出場。

そこでのウェーデルンとまだ読んでた頃の競技。今でいう急斜面での小回りターン。

いつもの年よりも緩いと言われる名木山のこぶ斜面。

ゼッケンを付け、スタート地点に立ったけれども どこをどう滑れば良いのか全く分からぬまま顔から火が出そうなくらい恥ずかしい滑りでゴール…そして涙。

今、思い出しても あの日のあの場面は私の人生最大のピンチだった様な・・・いやいや幼稚園の頃、練習もせずに 楽譜なしでみんなの前に出さされ 間違いながら弾いたあのピアノの発表会の時と同じ。

恥ずかしくて恥ずかしくて穴が有ったら入りたい様な出来事。

ピアノと大きく違うのは、スキーは私が選んだ道だから…。

このツラく 恥ずかしい思いをしたことが また私の人生の転機ともなり、1991年の志賀高原でのスキー学校が閉校後 春にスキー場がオープンするという山形の月山スキー場へ向かい 全く初めて訪れた月山でいきなり人生初の居候生活もスタート。

月山へは、1991年から1995年まで もう今は天に還ってしまったけれど、当時70歳を過ぎたお爺ちゃんとお婆ちゃんの経営する“ロッヂかしわや”で初めての年は居候。

翌年からは春ゴールデンウェークの前から雪が溶ける6月下旬ころまで、平日2~3時間アルバイトの仲間と交代に滑りに行かせてもらって、あの苦い思い出のこぶ斜面の練習。

お爺ちゃんとお婆ちゃんの経営する「かしわや」に巡り会えたからこそ5年間も月山に行けたんだと、やはりあの日かしわやの扉を開いて良かったと、今更ながら感謝。

おかげさまで、1995年に出場した全日本スキー技術戦 不整地小回りターンでは、「雪とお友達」っていう感じで月山の宿のお客さんが、ラッパ鳴らしてくれての応援も入り、予選通過は到底出来ないものの   目の前に次々と現れるこぶ斜面を先取り。気持ちよ~く軽快に滑らせて頂きました。

ところが、いつもの年のように春 月山でアルバイトしながら滑ってた所、転んでもなく逆に おっ!いい感じ…いい感じ!!って滑った直後、膝がガクガクとなり、結果 前十字靭帯断裂(>_<)

しかも、その頃なんの医学的知識もない私。いつもかかってた鶴岡にある整体の先生の所へ。

そうしたら、先生曰く「後ろ向きに歩いて登るといいよ」…と。

数日たって腫れも引いたので、後ろ向きに歩いて、まだ滑りに行ってたんだから本当にバカそのもの。

で、夏 地元に戻り、運動具屋さんでアルバイトしてた時ずっと立っていたり、重いものを持った時は すぐに膝が腫れたり痛くなったり…。

お客さんにどこかいい整体の先生いないですか?ってまだ聞いてたくらい、私自身 靭帯が切れてるとも思っていなくて…トホホ。

そして、整体ではないけどいい整形外科があるよ!っていうことで、あのけがから3~4か月くらい経って整形外科に!!

整形外科的テストの結果、切れてる可能性が高いからと 大きい病院へ。そして、内視鏡手術。

ちょうど執刀医の先生が、「自分の体の中なんて、めったに見れないから目を開けて見れたら見てて」と言うので、ずっと内視鏡で映し出される画像を見させてもらい、半月板のササクレだった部分や、ほぼ全滅してしまってる前十字靭帯もこの目で確認。

その場で再建手術は無理なので、靭帯切れたまま1996年はシーズンイン。

装具を装着してたものの、今思えば 若かったし、バカだったな~と。もっと自分自身の身体大事にしてあげてれば良かったと、深く反省。

1996年春になると同時に、スキー学校の仲間が教えてくれた横浜にある「港湾病院」で再建手術。

屋上に上がると、ランドマークが良く見え、勝手に「ホテル港湾」と言いながら楽しく入院生活を過ごさせてもらった次第。

前の会社の東京や千葉に住む同期の仲間や、横浜に住むスキー学校の仲間にも、「今横浜で入院中。遊びに来て~」と…。

横須賀の友達の所へは、外泊もらって松葉づえつきながら泊まりに行ったことも…。

このケガをしたことで、また今の仕事カイロプラクティックにも出会えたようなものだから、まさに「ケガの功名」

神さまは 本当に いたずらがお好き。